元阪神の石川緑投手を知ってますか? 1965年 独身ばかりの若手が幅をきかせている合宿虎風荘で石川は最も古顔だ。権藤や

元阪神の石川緑投手を知ってますか? 1965年  独身ばかりの若手が幅をきかせている合宿虎風荘で石川は最も古顔だ。権藤や

元阪神の石川緑投手を知ってますか? 1965年 独身ばかりの若手が幅をきかせている合宿虎風荘で石川は最も古顔だ。権藤や土屋の三十歳を越えたおとながことし仲間入りしたが、最近ちょっぴり肩身が狭くなってきていた。「古沢が完封したりして若いのがどんどん伸びてきたよって・・・。滝川や池田らの合宿組もベンチ入りして張り切っている。これじゃオレもうかうかしとれん。口には出さんけれどもこりゃ負けられんという気持でいっぱいや」十七日ぶりの先発は「あんまり昔のことで忘れてしもうた」そうだが、コンディションだけは精いっぱい気をつけていた。「みんあに引っぱられてランニングだけは十分やっといた。ピッチングのカンがうすれるのが一番心配やったな。考えてみたら十何年もプロでやっているオレが、そんなことを理由にしたら恥ずかしいものな」切れのいいシュートをふんだんに使って二安打。小柴スコアラーは「ワシがバッターなら、もうボックスに立つのもいやになるだろう。あんなにすごいシュートをほうられたんでは打てる気がせんものな」と驚いたが、石川が驚いたのはほかのことだった。「二塁を踏ませなかった?へえー、知らんかったな。そういえばセット・ポジションが少ない気がしとった。谷本が低くかまえてくれたんで、うまいこといったんやないかな」三十一歳になってまだおよめさんをもらう気配もない。いつもグラウンドには真っ先にとび出し、バッティングをやって若さをまき散らしている。「オレはまだ何日も休みをとらんと投げられんほど年やない。いまだって疲れは全然感じんもんな。アンダーシャツは一枚も替えずに投げとおしたんやぜ」甲子園でゲームのある日は三宅秀や土屋らとだれが一番先にフロへはいるかと競争しているが「今夜は完全に負けた。だがたまにはゆっくりしたフロもええ」とロッカーで腰にバスタオルを巻きつけたままタバコをうまそうに吸った。

愛知県立国府高等学校から、1954年に中日ドラゴンズにテスト入団。 1955年に、一軍初登板し3勝を挙げている。しかし、その後は一軍に定着できなかった。 アンダースローに改造し、1960年に61試合に登板、13勝を挙げ防御率2.36を記録した。 しかし、翌1961年は3勝にとどまり、同年オフ阪神タイガースに金銭トレードされる。 移籍1年目の1962年は5勝に終わるが、翌1963年は9勝を挙げ先発投手陣の一角を担うようになる。 1964年には10勝3敗 防御率2.90を挙げ投手成績8位、最高勝率を記録し、阪神リーグ優勝時の胴上げ投手になった。 優勝決定は9月30日の対中日戦で、完投勝利を挙げ胴上げ投手となった。 また、この年は古巣・中日に5勝を挙げている。 翌1965年も10勝を挙げた。 1966年は、6勝に終わるが防御率3.12とそこそこの成績を残した。 しかし1967年は、22試合に登板するも防御率6点台と精彩を欠き、オフに自由契約になり東映フライヤーズに移籍した。 しかし、移籍後の1968年も前年と同程度の成績に終わり、オフに現役を引退した。引退後名古屋の高木工業に勤める。 2004年4月20日に筋萎縮性側索硬化症による呼吸不全で死去。 享年69。 1964年6月30日に広島市民球場で行われた対広島カープ戦では、2回裏・広島の攻撃で、無死・一塁二塁の際、広島の打者・阿南準郎のバント小フライを石川が間接捕球したか直接捕球したかでトラブルとなっている。 石川の捕球を球審・稲田茂が間接捕球と判断したが、石川は直接捕球を確信しており、一塁へと送球。 その後、ボールは二塁へと転送された。 直接捕球であればトリプル・プレーが成立する状況だったが、稲田が間接捕球と判定していたことから、これが成立しなかった。 これに対して、阪神の監督・藤本定義が猛抗議した。 審判団協議の結果、稲田は判定を覆し、トリプル・プレー成立と判断した。 この判断に、広島サイドが猛抗議し、「一死・一塁二塁」で試合再開という妥協案が提案されたものの決着せず、この判定から二時間半もの間試合は再開しないまま、最終的に午後9時50分ごろにノーゲームの判断が下された。 この結果、当日の観客1万人の約半数が暴徒化、ベンチや放送室などの球場施設を破壊し、機動隊が出動する事態となった。 結局、この球場施設破壊によって、試合を行うことができないと判断されたため、広島市民球場で6月30日から行われる予定だった阪神・広島3連戦は1試合も消化することなく、3試合とも中止となった。 アンダースローからのチェンジアップ、カーブ、シュートを武器とした。ピッチング以外、捕球やフィールディングなどのプレーは流麗ではなく、ぎこちなさがあった。 石川と阪神で同僚だった本間勝は、石川の動きがぎこちなくなければ、前述のバント小フライの判定トラブルは起きなかったのではないかと述べている。 使い勝手の良い投手で、3者連続3球三振を記録したこともある。 反面、先発した際には立ち上がりに難があり、1963年には対読売ジャイアンツ戦で「1回先頭打者から5球で3失点、さらに2連続安打で降板」、1965年には大洋ホエールズ戦で「1回先頭打者から連続3被本塁打」「1回先頭打者から8人連続出塁」といった記録を残している。 幼少のころ両親を亡くしたが、性格、身のこなしともおっとりしており、いつも笑顔の好人物だった。 本間勝は、石川のことを「皆に慕われた“エエ恰好シイ”」と表現している。 通算374試合登板 62勝60敗 防御率3.32 最高勝率:1回 背番号 57 (1954年 - 1955年) 16 (1956年 - 1958年) 26 (1959年 - 1961年) 20 (1962年 - 1967年) 24 (1968年) 本当に日本のプロ野球だけは チャレンジ鮮度を導入しょうとしないね。 きっと審判が未熟だから1試合に何回も判定が覆るのが怖いんだろうね。

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