元阪急の藤木孝二選手を知ってますか? 1959年 阪急ブレーブスは宿願の優勝をめざして連日意欲的なキャンプ(第一陣は高

元阪急の藤木孝二選手を知ってますか? 1959年  阪急ブレーブスは宿願の優勝をめざして連日意欲的なキャンプ(第一陣は高

元阪急の藤木孝二選手を知ってますか? 1959年 阪急ブレーブスは宿願の優勝をめざして連日意欲的なキャンプ(第一陣は高知)を行っているが、ベテラン、新鋭選手にまじって三池高から新しく入団した藤木孝二選手(18)も、西宮球場ではつらつとした動きを見せている。藤木選手は高額の契約金をもらって入ったわけではない。昨秋行われた新人テストを受け、二百人の応募者の中からたった一人合格したという勝利者である。それだけにプロ入門の感激もひとしお深いものがあるわけだ。このほどその藤木選手から本社へ「ブレーブスに入って」と題してつぎのような喜びの手記を寄せてきた。希望にはずむ胸を押えながらキャンプ参加のため上阪したのは一月三十日であったが、翌三十一日には待ちに待った阪急のユニホームをもらった。私は急いで西宮球場近くにある合宿に駆け込んで自分の部屋にカギをかけ、こっそりユニホームを着てみた。胸に阪急ブレーブスと大きく書いてある。三度ほどぬいだり着たりした。上着はいいがズボンのほうが少し大きい。特別に寸法をはかったわけでないからこれは仕方がない。こんなことはどうでもいい。それよりもこのユニホームを早く身につけて練習し、そして一日も早く一軍選手として活躍したい。その晩は夢にまでみた。明けて一日はキャンプ・インだ。午前十時に阪急池田駅に集合して多田神社に参拝したが、おみきを口にした瞬間ようしやってやる。人に負けないぞと言う気持がこみあげてきた。それから西宮球場に引き返して練習に移ったわけだが、ロッカーでユニホームに着替えるときの私は、人がなにを言おうと、どうしようとなにもわからなかった。ただユニホームを早く着ることに夢中だった。ロッカーの前に大きな鏡がある。小走りにその前に立ってみた。三池高校時代の私とガラリと感じがちがう。まだ夢の中に立っているような心持だった。思えば甲子園だけを夢みた私がいまりっぱなプロのユニホームを着ている。自分はもうプロ一年生だ。もう勝負が始まっているのだと自分に言い聞かせたものだ。さあトレーニングは始まった。くる日もくる日もランニング、体操だ。短時間に合理的に行われる。さすがはプロだ。しかし私は少しも苦しくない。四日から軽いバッティングも始めた。一人十本ずつぐらいしか打てないので物足りない感じもするが、調子はすこぶるいいような気がする。十二日の夜、海路高知のキャンプに向かうが、母校のため、また郷土のためがんばってみせる。 藤木選手の横顔 家は熊本県の玉名市だが、野球のために福岡県の名門三池高に進学したという根っからの野球好き。小学校の四年生ごろから柔道の道場に通っただけに、からだつきはどうみても柔道タイプ、肩幅がすごく広くて、上下に伸び悩んだという感じ。しかし身長1㍍72、体重73・5で、本屋敷らと比べると問題にならない。三池高では一年生からレギュラーになって卒業するまで不動の四番打者、守備は一、二年が三塁手で三年生になってから外野に転向した。ヒノキ舞台に出るチャンスがなかったためあまり中央には知られなかったが中距離打者でとくに右翼打ちにすぐれており、高校時代は通算4割8分をマークしている。地元の西鉄からも声がかかったそうだが、藤本監督と阪急のチーム・カラーにひかれて阪急を希望、昨秋西宮での新人テストに、八幡製鉄加藤監督から阪急戸倉コーチにあてた推薦状をもって飛び込み、ベース一周14秒7という俊足を披露したほか、あらゆる種目にも抜群の力量を示して阪急首脳陣の目にとまり、ただ一人の合格者となった。

知りませんでした。 調べても分かりませんでした。 野球ファンに夏の風物詩と聞けば 都市対抗野球である。 社会人野球のビッグタイトルの1つであり、すべての社会人野球チームがこの大会の出場を目指している。と言っても言い過ぎではないだろう。 今年の大会も 初出場を果たしたチームがいくつかある。 その中でも新潟県のバイタルネットはニチエー時代から数えて創部39年目の悲願の初出場であるから歓びもひとしおであったろう。 新潟県勢の出場も1970年の電気化学工業(71年限りで活動停止)以来である。 電気化学とは都市対抗に通算3度出場した信越の強豪であった。 当時の2次予選(信越予選)は新潟、長野、富山の3県で行われていた。 新潟は新潟交通(52~63)や日本軽金属新潟(59~62)が加盟していた頃は過酷な戦いもしていたが、60年代中盤から新潟鉄道局、東光商事などがありながらも電気化学の1強状態であった。 長野は東京六大学の精鋭を多く集めた三協精機や東都リーグ出の多い電電信越、さらにはヤシカ、養命酒、トウトク、長野鉄道局もあり郡雄割拠。 富山は小野坂清(近鉄バファローズ)がエースであった不二越鋼材が64年限りで活動を停止すると、レベルは一段落ちながらも北陸銀行、日本カーバイド、クラレ富山、電電富山など侮れないチームがたくさんあった。 これらが1次の県予選を戦い、補強して2次の信越予選に向かうのだからレベルは高かったわけである(信越予選は概ね8チームが出場、開催県が4チーム、他県が2チームずつ。加盟チームが少なくなってからは出場は4チームに減った)。 そんなレベルの高かった頃の信越地区で3度も都市対抗に出場した電気化学のチームの歴史を振り返ると 50年代終盤から60年代序盤までは瀬在・田代(中日)、北野・志農(近鉄)、鎌田(巨人)、小川(東映)、藤木・久保山(阪急)、平塚・桑原(西鉄)、丸田(大洋)と毎年のようにプロ退団者を補強してチームの核に据えていた。 62年、活動停止した日鉄嘉穂から数名が移籍、同年の都市対抗には新潟交通の補強選手ながら西田恒宏と臼田恭久が出場。 63年シーズン末にはエースの平野克明が大洋ホエールズに入団、同社初のプロ野球選手が誕生。 64年、活動停止したPL教団と静甲いすゞから米田慶三郎・望月彦男などが移籍、都市対抗には三協精機の補強選手として藤木孝二が出場(翌年も北陸銀行の補強選手として出場)。 66年、PL学園から甲子園にも出場した尼崎光太郎と戸田庄介が入社、都市対抗には三協精機の補強選手として藤木孝二(3年連続)・松本栄一が出場した。 こうして徐々に力をつけていった電気化学は67年に都市対抗本大会に初出場を果たした。久保山誠監督のもと、あれほど補強したプロ野球出の選手は藤木だけだった。 当時の主なラインナップは ①望月彦男(元静甲いすゞ) ②井口輝之(元静甲いすゞ) ③天本彦文 ④江崎憲二 ⑤渡辺千一郎(元清峰伸銅) ⑥米田慶三郎(元PL教団) ⑦藤木孝二(元阪急) ⑧戸田庄介 ⑨松本栄一(元日鉄嘉穂) 念願の初出場も初戦に強豪のクラレ岡山と対戦して敗れてしまった。 同年末には大洋ホエールズにドラフトで指名された米田慶三郎が入団した。 翌68年、活動停止した立正佼成会から数名を加え2年連続都市対抗に出場。 初戦はまたもや強豪の鐘淵化学。エース望月の熱投もあり延長16回で2-2の引き分け、再試合は藤木のホームランなどで5回までに4-0とリードするも終盤望月が崩れ8回に逆転されて敗れてしまった。 70年、3度目の都市対抗出場。初戦の相手はこれまた強豪の日本生命、先発投手は成長著しい美川信吾。6回を1失点に抑えて、アンダースローの会田照夫(三協精機から補強出場、のちにヤクルトスワローズ)が後を継いだ。試合は前回出場に引き続き延長へ。11回会田が打たれたため、左の望月をワンポイント投入して会田をレフトに回した。だが望月はアウトを取れずに2安打を浴び点を奪われる。ピンチはさらに増しマウンドに会田を戻した。再登板した会田は更に打たれて結局この回だけで6点を奪われ1-7で敗れた。 71年限りでチームは活動を停止、選手たちはライバルである三協精機や北関東の雄である日鉱日立に移籍していった。 主な移籍選手は 美川信吾、戸田庄介→三協精機 綱島義雄、尼崎光太郎、渡辺篤彦→日鉱日立 植村茂満→日本軽金属 荒木賢司→電電北陸 山本庸夫→電電信越 中大谷博志→日拓観光 電気化学の休部により信越の社会人野球のレベルは著しく低下していき、三協精機の1強になってしまった(7年間で6度の都市対抗出場)、その三協精機も78年限りで休部してしまった・・・・。

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元阪急の藤木孝二選手を知ってますか? 1959年 阪急ブレーブスは宿願の優勝をめざして連日意欲的なキャンプ(第一陣は高知)を行っているが、ベテラン、新鋭選手にまじって三池高から新しく入団した藤木孝二選手(18)も、西宮球場ではつらつとした動きを見せている。藤木選手は高額の契約金をもらって入ったわけではない。昨秋行われた新人テストを受け、二百人の応募者の中からたった一人合格したという勝利者である。それだけにプロ入門の感激もひとしお深いものがあるわけだ。このほどその藤木選手から本社へ「ブレーブスに入って」と題してつぎのような喜びの手記を寄せてきた。希望にはずむ胸を押えながらキャンプ参加のため上阪したのは一月三十日であったが、翌三十一日には待ちに待った阪急のユニホームをもらった。私は急いで西宮球場近くにある合宿に駆け込んで自分の部屋にカギをかけ、こっそりユニホームを着てみた。胸に阪急ブレーブスと大きく書いてある。三度ほどぬいだり着たりした。上着はいいがズボンのほうが少し大きい。特別に寸法をはかったわけでないからこれは仕方がない。こんなことはどうでもいい。それよりもこのユニホームを早く身につけて練習し、そして一日も早く一軍選手として活躍したい。その晩は夢にまでみた。明けて一日はキャンプ・インだ。午前十時に阪急池田駅に集合して多田神社に参拝したが、おみきを口にした瞬間ようしやってやる。人に負けないぞと言う気持がこみあげてきた。それから西宮球場に引き返して練習に移ったわけだが、ロッカーでユニホームに着替えるときの私は、人がなにを言おうと、どうしようとなにもわからなかった。ただユニホームを早く着ることに夢中だった。ロッカーの前に大きな鏡がある。小走りにその前に立ってみた。三池高校時代の私とガラリと感じがちがう。まだ夢の中に立っているような心持だった。思えば甲子園だけを夢みた私がいまりっぱなプロのユニホームを着ている。自分はもうプロ一年生だ。もう勝負が始まっているのだと自分に言い聞かせたものだ。さあトレーニングは始まった。くる日もくる日もランニング、体操だ。短時間に合理的に行われる。さすがはプロだ。しかし私は少しも苦しくない。四日から軽いバッティングも始めた。一人十本ずつぐらいしか打てないので物足りない感じもするが、調子はすこぶるいいような気がする。十二日の夜、海路高知のキャンプに向かうが、母校のため、また郷土のためがんばってみせる。 藤木選手の横顔 家は熊本県の玉名市だが、野球のために福岡県の名門三池高に進学したという根っからの野球好き。小学校の四年生ごろから柔道の道場に通っただけに、からだつきはどうみても柔道タイプ、肩幅がすごく広くて、上下に伸び悩んだという感じ。しかし身長1㍍72、体重73・5で、本屋敷らと比べると問題にならない。三池高では一年生からレギュラーになって卒業するまで不動の四番打者、守備は一、二年が三塁手で三年生になってから外野に転向した。ヒノキ舞台に出るチャンスがなかったためあまり中央には知られなかったが中距離打者でとくに右翼打ちにすぐれており、高校時代は通算4割8分をマークしている。地元の西鉄からも声がかかったそうだが、藤本監督と阪急のチーム・カラーにひかれて阪急を希望、昨秋西宮での新人テストに、八幡製鉄加藤監督から阪急戸倉コーチにあてた推薦状をもって飛び込み、ベース一周14秒7という俊足を披露したほか、あらゆる種目にも抜群の力量を示して阪急首脳陣の目にとまり、ただ一人の合格者となった。

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