元産経の東条文博選手を知ってますか? 1969年 昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人

元産経の東条文博選手を知ってますか? 1969年  昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人

元産経の東条文博選手を知ってますか? 1969年 昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人兄弟(兄五人、姉一人)の末っ子という甚だ恵まれない環境に育ったのである。御多分にもれず幼い頃からの野球好きであったが鹿児島に帰ってからも当時のわが家計からはとてもボクのグローブを買う余裕なんてなかった。そこで小学校の先生にたのみこみやっとボクの小さな願いがかなえられた。もちろんスパイクなんて代物は金があろうはずもなく素足のトレーニングである。下伊集院小学校から東市来(いちき)中学校に進んだボクはなんのためらいもなく野球部に入った。練習にあけくれてとても勉強どころではなかった。中学二年のときには「野球でメシを食う」決心をし野球好きの三番目の兄貴は大いに後押ししてくれたが両親は猛反対。けっきょく兄弟力を合わせて両親を説得することに成功した。中学時代は投手をやり年間六つの大会のうち五回は優勝するという好成績を残した。そんなボクであるから授業中は睡眠にこれ務めて放課後のトレーニングのスタミナを十二分に貯えていた。ある日苦手中の苦手であった数学の先生にこっぴどく叱られた。「大事な授業に眠っているようじゃプロで通用なんかせんぞ!」この怒りがかえってボクをふるい立たせたのである。人間ちょっとしたキッカケで運命がかわるものである。名門・鹿児島実業から「ゼヒわが野球部に・・・」という願ってもない勧誘にボクは喜びいさんだ。「これでプロ野球への足がかりが出来るかも・・・」と内心ではずいぶん欲張っていた。ところが一年間で肩を痛めてしまいサードにコンバート。三年のときに南海の九州地区担当の石川スカウト(現コーチ)からプロ入りの話があり即座にOK。広島からも誘いがあったが優勝の可能性ということから考えてボクは南海を選んだ。三年目にファームの成績が良かったので待望の一軍入りをはたし前途のかすかな光明に自己満足していた。しかしながらその年蔭山さんの死それに南海のチーム事情がからんで岡本、中原両コーチそれにボクと無徒がサンケイ(現アトムズ)にトレードされることになった。正直いってプロ生活にようやく自分の生きがいを見いだした矢先だけにショックであった。それから四年たった現在トレードされた後悔はミジンもない。ザルといわれた内野守備にも自信がついてきた。どんどん打ちまくるだけだ。

知らなかったので調べました。 鹿児島実業高校では、三塁手として1961年の夏の甲子園に出場。 鹿児島実は甲子園初出場であった。 1回戦で中京商の山中巽、林俊彦両投手の継投の前に完封を喫する。 卒業後、1963年に南海ホークスへ入団。 だがここでは出場機会に恵まれず、1966年、無徒史朗とともに金銭トレードでサンケイアトムズに移った。 同年は二塁手、遊撃手として起用され、54試合に先発出場を果たすが、打撃面で伸び悩み、その後は出場機会が漸減する。 しかし1969年には、西園寺昭夫が故障で離脱した後を受け、レギュラー遊撃手、一番打者の地位を勝ち取る。 同年は打撃が開花し、規定打席には届かなかったが打率.320、17盗塁を記録した。 8月17日の広島東洋カープ戦で大羽進からサヨナラ本塁打を放っている。 チーム名がヤクルトアトムズに変わった1970年には、チーム17連敗を阻止するサヨナラヒットを放つなど130試合フル出場して28盗塁をマークし、盗塁王を獲得。 1975年、ロッテオリオンズに移籍し、同年オフに引退した。 通算983試合出場 2628打数 624安打 10本塁打 138打点 打率.237 盗塁王:1回 (1970年) 背番号 68 (1963年 - 1965年) 34 (1966年 - 1967年) 38 (1968年 - 1974年) 30 (1975年)

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元産経の東条文博選手を知ってますか? 1969年  昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人

元産経の東条文博選手を知ってますか? 1969年 昭和十九年七月十二日台湾でいわゆる戦中っ子として生まれた。しかも七人兄弟(兄五人、姉一人)の末っ子という甚だ恵まれない環境に育ったのである。御多分にもれず幼い頃からの野球好きであったが鹿児島に帰ってからも当時のわが家計からはとてもボクのグローブを買う余裕なんてなかった。そこで小学校の先生にたのみこみやっとボクの小さな願いがかなえられた。もちろんスパイクなんて代物は金があろうはずもなく素足のトレーニングである。下伊集院小学校から東市来(いちき)中学校に進んだボクはなんのためらいもなく野球部に入った。練習にあけくれてとても勉強どころではなかった。中学二年のときには「野球でメシを食う」決心をし野球好きの三番目の兄貴は大いに後押ししてくれたが両親は猛反対。けっきょく兄弟力を合わせて両親を説得することに成功した。中学時代は投手をやり年間六つの大会のうち五回は優勝するという好成績を残した。そんなボクであるから授業中は睡眠にこれ務めて放課後のトレーニングのスタミナを十二分に貯えていた。ある日苦手中の苦手であった数学の先生にこっぴどく叱られた。「大事な授業に眠っているようじゃプロで通用なんかせんぞ!」この怒りがかえってボクをふるい立たせたのである。人間ちょっとしたキッカケで運命がかわるものである。名門・鹿児島実業から「ゼヒわが野球部に・・・」という願ってもない勧誘にボクは喜びいさんだ。「これでプロ野球への足がかりが出来るかも・・・」と内心ではずいぶん欲張っていた。ところが一年間で肩を痛めてしまいサードにコンバート。三年のときに南海の九州地区担当の石川スカウト(現コーチ)からプロ入りの話があり即座にOK。広島からも誘いがあったが優勝の可能性ということから考えてボクは南海を選んだ。三年目にファームの成績が良かったので待望の一軍入りをはたし前途のかすかな光明に自己満足していた。しかしながらその年蔭山さんの死それに南海のチーム事情がからんで岡本、中原両コーチそれにボクと無徒がサンケイ(現アトムズ)にトレードされることになった。正直いってプロ生活にようやく自分の生きがいを見いだした矢先だけにショックであった。それから四年たった現在トレードされた後悔はミジンもない。ザルといわれた内野守備にも自信がついてきた。どんどん打ちまくるだけだ。

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