かなり有名な投手ですね。
知ってます。
中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部。
その後に進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。
入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。
最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。
同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける。
3年次の1957年にはエース、四番打者として夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、成田高に敗れ甲子園出場はならなかった。
1958年に高校を卒業し、佐原一高の先輩である北川芳男の誘いにより、日本麦酒に入社。
最初の2年間は北川と高橋栄一郎の影に隠れて出番がなかったが、1960年の産別対抗で16回2/3を投げて19奪三振、自責点0と好投し頭角を現す。
翌1961年はサン大会で38回を投げて防御率0.95、都市対抗でも勝ち星を挙げた。
プロ入りにあたって、巨人と大洋を始め11球団から勧誘を受け、全球団の監督が城之内の実家に押し寄せたともされるが、1962年に巨人へ入団。
入団早々の春の宮崎キャンプでは投手陣の中で最も球速があり、城之内が投球練習を始めると、藤田元司・堀本律雄・中村稔ら主力投手が投げるのをやめてしまうほどであったという。
オープン戦で4勝0敗、防御率0.27を挙げ、新人ながら開幕投手を務める。
キャンプから肩の調子が悪く、5月下旬まで2勝5敗であったが、5月末から肩が復調すると1ヶ月で5勝を稼ぐなど前半戦で8勝を重ね、後半戦は16勝と快調に飛ばし、24勝12敗、防御率2.21(リーグ8位)で新人王を獲得する。
翌1963年は17勝と伊藤芳明(19勝)に次ぐ勝ち星を挙げると、以降18勝、21勝、21勝と入団から5年で101勝を挙げる。
入団から5年で100勝に到達した投手は両リーグ分裂後6人目で、城之内以降は現れていない。
1964年から1967年まで4年連続でチームで最多の勝星を稼いで、V9時代の初期におけるエースとして活躍し、エースのジョー(宍戸錠のニックネームにあやかる)の愛称で呼ばれた。
しかしながら、1964年防御率2位、1965年・1966年勝利数2位と、惜しくもタイトルには恵まれなかった。
また、1966年の日本シリーズでは3試合に登板して2勝を挙げ最優秀投手賞に選ばれている。
1967年は開幕試合に先発して敗れると、以降1ヶ月の間勝ち星から見放されるが、7月から9月にかけて9勝1敗と好調で9月末には17勝目を完封で飾る。
その後腰痛が再発して2試合連続でノックアウトされ、さらに10月8日の阪神戦で遠井吾郎の打球を受けて胸骨にひびが入って閉幕まで欠場し、勝ち星を伸ばすことができなかった。
しかし、日本シリーズには間に合って2勝を挙げ、2年連続で最優秀投手賞を獲得した。
1968年も開幕から腰の調子が思わしくなく肩も痛めて球威が落ち、5月末にようやく3勝目をあげるも、6月に入ると早いイニングで打ち崩されるケースが続き、6月下旬に二軍落ちした。
7月後半に一軍に復帰すると、8月末から9月末にかけて4試合連続完投勝利を含めて5連勝するが、10月に入ると連敗するなど好不調の波が激しいままシーズンを終える。
年間では11勝7敗、防御率3.06と成績を落とすものの、7年連続で2桁勝利を記録した。
またこの年の5月16日の大洋戦では(後楽園球場)でノーヒットノーランを達成している。
1969年になると腰痛が悪化して球威が落ちた上に、腰への負担を避けるために投球時に左足をアウトステップするようになって、シュートの曲がりが悪くなり、わずか4勝に終わる。
この年の10月10日の中日戦では、先発して3-1とリードした5回にベンチの指示で金田正一にマウンドを譲り降板。
金田はそのままリードを守って勝利投手となり通算400勝を達成した。
1970年は腰の状態が回復してシュートの切れが復活し、8月半ばまでに7勝を記録する。
しかし、この年ある試合でノックアウトされたのち、ベンチに残らず球場の風呂に入ってそのまま帰宅したことを首脳陣に咎められ、以降シーズン終了まで登板の機会が与えられなかった。
1971年には腰痛が回復し球威も全盛期に近い状態まで戻っていた(本人談)が、春のベロビーチキャンプの参加メンバーから漏れ、シーズンに入ってもチームの若返り方針もあってごくたまの敗戦処理に甘んじた。
シーズン終了後に巨人を戦力外となり、コーチのポストも準備されなかった。
東映と西鉄の2球団から誘いを受けたともいうが、巨人の城之内で終わりたいという本人の希望もあり、12月3日に任意引退となった。
引退後は文化放送「ジャイアンツナイター」解説者(1972年 - 1973年)となる。
ロッテの取材で東京スタジアムに行った際に、巨人時代の同僚であった金田監督と遊び半分でキャッチボールをしたことをきっかけに、1974年に1シーズンだけロッテで現役に復帰する。
オープン戦では好投を見せたものの、シーズンに入ると通用せず5試合の登板に終わった。
二度目の引退後はロッテの二軍投手コーチ(1975年 - 1976年)・スカウト(1977年 - 1983年)を経て、古巣の巨人でスカウト(肩書は編成部専任次長, 1984年 - 2003年)を務めた。
ロッテスカウト時代は落合博満・愛甲猛を入団させた。
一旦打者に背を向け横に首を振りながらのサイドスローという豪快な投球フォーム(野茂英雄の「トルネード投法」の先祖ともいうべきスタイル)から投げ込む重い速球と曲がって落ちるシュートを武器とした。
一方で、守備や牽制は苦手としていた。
非常に無口で、あるときヤクルトの三原脩監督と対談したが、会話録に城之内の発言が全くなかった。
スカウト時代は口説き文句は一切言わない物静かなスカウトらしくないスカウトで、その寡黙さにある種の信頼感さえあったという。
麻雀が非常に好きで、先発投手を務める日には完投すると宿舎に戻るのが遅くなるため、先にほかのメンバーで麻雀を始められないように、ユニフォームのポケットに麻雀牌を1枚忍ばせてマウンドに上がったという。
歌手の城之内早苗の大叔父。
また俳優の地井武男とは親戚関係(城之内の兄と地井の姉が夫婦) 通算359試合登板 141勝88敗 防御率2.57 新人王(1962年) 日本シリーズ最優秀投手賞:2回 (1966年、1967年) オールスターゲーム出場 4回(1963年、1965年 - 1967年) ノーヒットノーラン:1回(1968年5月16日、対大洋ホエールズ戦、後楽園球場) ※史上39人目 背番号 15 (1962年 - 1971年) 12 (1974年) 86 (1975年 - 1976年) テレビ出演 土曜ワイド劇場「いのちある限り 燃えろ!熱球」(1977年、テレビ朝日)