自宅トレーニング初心者です

自宅トレーニング初心者です

匿名さん

自宅トレーニング初心者です。
ダンベルフライを積極的に行っていますが、どの書籍やネット情報にも「肩甲骨を寄せることを意識する」とあります。
ウェイトを持たずに仰臥位で寝ると、なるほど肩 甲骨を寄せて両肩甲骨間の背中がベンチから浮いているのを実感できますが、いざウェイトを持って腕を開いていくと意識していてもあっという間に肩甲骨は開いてしまいます。
また、腕を閉じて胸の前までもっていく時には解剖学的に肩甲骨を寄せるのは無理なんじゃないかと思うのですが、何かコツはありますでしょうか?ウェイトは少しでも肩甲骨を寄せれるように軽めの10kg×2でやっています。
自身の8RMは片手15kg位です。
よろしくお願いします。

負荷を小さくしてなさいませ。
それこそ、5㎏とかでしっかりと体勢、軌道を確認しながら行いましょう。
フライは終点で腕を寄せすぎないことも、胸の緊張を解かないために大切です。
逆の手の指で胸を指しながら空荷で型腕だけをフライし、指で緊張が抜ける場所を確認し、終点を決めると良いでしょう。
ついでながら8回で限界を迎えるような重さでは負荷が大きすぎます。
少なめの負荷で15回程度なさることをお奨めします。
8回限界の負荷は、プレスで扱いましょう。

解剖に関する回答

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匿名さん

自宅トレーニング初心者です。
ダンベルフライを積極的に行っていますが、どの書籍やネット情報にも「肩甲骨を寄せることを意識する」とあります。
ウェイトを持たずに仰臥位で寝ると、なるほど肩 甲骨を寄せて両肩甲骨間の背中がベンチから浮いているのを実感できますが、いざウェイトを持って腕を開いていくと意識していてもあっという間に肩甲骨は開いてしまいます。
また、腕を閉じて胸の前までもっていく時には解剖学的に肩甲骨を寄せるのは無理なんじゃないかと思うのですが、何かコツはありますでしょうか?ウェイトは少しでも肩甲骨を寄せれるように軽めの10kg×2でやっています。
自身の8RMは片手15kg位です。
よろしくお願いします。

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解剖に関する質問

整体院などで「右足と左足の長さが○cmも違いますよ。
」などと脅されることがありますが。
信憑性はありますか。
現在60を越えましたがランニングのトレーニングは継続している陸上歴55年の男性です。
現役のころほどのトレーニング内容はとても無理ですが楽しんで走っています。
故障もほとんどありません。
若いころは様々な障害でカイロ、整体、外科…ひどいときは噂で聞く「神様のお告げ」をする人の所まで行って、治療(?)してもらったことがあり、カイロ、整体、鍼灸、高圧酸素…あらゆる「いい」と言われるもは経験したつもりです。
でも、一応私も中、高の保健体育教師として勤務し、運動学、生理学、解剖学など基礎的な単位も取得し、何よりも自分の体と運動経験によりいろんな不都合(股関節症、膝関節痛、五十肩、ねんざ、肉離れ、足底筋膜炎、長脛靱帯炎ほか)を自分なりに緩和、除去して現在も運動を楽しんでいます。
前置きが長くなりました、ここで質問です。
いろいろな治療院では、まず最初 体の左右のずれ 「右足の方が○cm、長いですよ」 などと、患者に説明し 「だから、こういう治療をしましょうね。
」 という流れで、ある意味、患者に不安感を持たせて治療に移るような気がします。
持論ですが、そもそも利き腕、利き足のある人間ですので 左右のバランスがとれている状態というのはあり得ないし、くずれたバランスを補完するような機能が人間の体には備わっていると思うのです。
このように 手足の長さ、肩の左右の高さ、首の傾きなどを大げさに指摘して治療につなげる手法はどう思いますか。
また、逆に左右の筋肉の付き方、関節の可動範囲がまったくイコールの人っているのでしょうか。

解剖 に関する質問

可動範囲などの角度を測ってビフォーアフターを説明した方が納得する人が多いからそういう商法を使う施術者もいるでしょうね。
施術者と患者の信頼関係がちゃんと築けていれば「わざとらしい」と感じる説明を受けることもないでしょう。
足の長さなどの左右差よりも可動性の方を重視する施術者ならそのような説明の仕方もしないと思います。
「合わない」「おかしい」と感じるならそういう無資格整体には通わず、解剖学を熟知してちゃんと治療してくれる、最低限国家資格くらいは持っている施術者のいる治療院に通って下さい。

解剖に関する回答

解剖に関する質問

元国鉄の田原基稔投手を知ってますか? 1950年 最初見た時は手をつけられないように思っていたが、この頃ではその進歩の度合いの早さに驚いている。
従っていまここで分析することも、時期尚早の事なきを得ないが、敢えて解剖する。
上京した当時は、球の投げ方も分からず、監督を驚かせたということであるが、持って生まれた資質は、三カ月を出てずして芽をふき出してきた。
重い腰ではあるが、球に引かれるように投げている姿からはごく自然なバーバリスチックなものが感じられて気持ちがいい。
このままではまだウエイトが残るように思うし、腰の回転も十分とはいい得ないが、まずまず上の部である。
打者の欠点が開口にあるという考えに従って、整球の方法を教わったらしく、どうも球が高目に行きすぎるようである。
このためとかく早目に球を放す癖がつきぐしているのではあるまいか、このピッチングを続けると、カーブにしろ低目のスウィフトにしろ、どうしても球にウエイトが完全にのらなくなり、球速も落ちてしまうものである。
またモーションにも鋭さが欠けてくるし、球の切れ具合も悪くなる。
従って田原投手はやはり一応オーソドックスなピッチングフォームを完全にマスターするために、軸足から腰にかけての最も基本的なものをネジと心得て、このネジが十分巻かれ、そのためには尻の部分が右から左について回るようにつとめる。
一方、上半身の、特に胸部の筋肉の開閉、左腕の後方への引っぱり等を十分考えて球を投げることである。
このように試みると体にかくされていた部分で、今まで知らなかったものが随時自分のものとして甦ってくるので、面白いように球にスピードが出て来るしまたカーブ、ドロップにも威力を増してくる。
とかく今までの投手にしても、まだ自分の持てるものを十二分に発揮しているとはいえないのであって、一人前の投手とみられる人も少ない。
田原投手は未開の分野に勇敢に突進むことである。
おそらく新人投手中これ位の大物は珍しい。

解剖 に関する質問

知らなかったので調べました。
北海中から札幌鉄道局を経て、1950年に新たに創立された国鉄スワローズに参加。
1年目は56試合に登板し、負けは22敗と多かったものの勝ち星は4完封を含める13勝を挙げ、チーム投手陣の中で1番の成績だった。
1951年は31試合に登板するが4勝12敗と成績は振るわなかった。
1952年は完封勝利の1勝しか挙げられず、1953年は1軍での登板が無かった。
1954年は中日ドラゴンズでプレーするが1軍登板は1試合に終わり引退した。
1955年から1956年は社会人の札幌スターズでプレーした。
通算106試合登板 18勝38敗 防御率4.06 背番号 19 (1950年 - 1953年) 28 (1954年)

解剖に関する回答

解剖に関する質問

この論文に出てくる世界チャンピオンとは誰のことでしょうか? 筋肉関係の研究を調べていて、事故死した現役スポーツ選手の解剖で得られた所見を報告した論文を見つけました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspfsm1949/29/1/29_1_45/_pdf さて、この中の被験者の一人が21歳で死亡したボクシング選手なのですが、18才でデビュー、20才5ヶ月で世界チャンピオン、死亡年齢21才6ヶ月、と書かれています。
世界チャンピオンにまでなった選手なら個人を特定できそうに思ったのですが、日本人プロボクサーの中には該当する選手はいませんでした。
外国人選手も含めると私には調べがつかないのですが、おわかりになる方がおられましたらご教示ください。
なお、解剖は東京都監察医務院で行われていますから、外国人選手だとしても日本国内で死亡しているはずです。
また1980年の論文なので、それ以前に死亡しています。

解剖 に関する質問

回答にならずに申し訳ありませんが、ボクシングの主要四団体で80年以前にあったのはWBAとWBCだけです。
55キロと言うと今でいうスーパーバンタム級にあたるかと思いますが、歴代王者でその歳で亡くなっている方はいません。
その下のバンタムでも。
世界王者と言ってもマイナー団体やアマチュアも含まれますので、少なくとも有名なボクサーではないのではないでしょうか。

解剖に関する回答

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自宅トレーニング初心者です。
ダンベルフライを積極的に行っていますが、どの書籍やネット情報にも「肩甲骨を寄せることを意識する」とあります。
ウェイトを持たずに仰臥位で寝ると、なるほど肩 甲骨を寄せて両肩甲骨間の背中がベンチから浮いているのを実感できますが、いざウェイトを持って腕を開いていくと意識していてもあっという間に肩甲骨は開いてしまいます。
また、腕を閉じて胸の前までもっていく時には解剖学的に肩甲骨を寄せるのは無理なんじゃないかと思うのですが、何かコツはありますでしょうか?ウェイトは少しでも肩甲骨を寄せれるように軽めの10kg×2でやっています。
自身の8RMは片手15kg位です。
よろしくお願いします。

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負荷を小さくしてなさいませ。
それこそ、5㎏とかでしっかりと体勢、軌道を確認しながら行いましょう。
フライは終点で腕を寄せすぎないことも、胸の緊張を解かないために大切です。
逆の手の指で胸を指しながら空荷で型腕だけをフライし、指で緊張が抜ける場所を確認し、終点を決めると良いでしょう。
ついでながら8回で限界を迎えるような重さでは負荷が大きすぎます。
少なめの負荷で15回程度なさることをお奨めします。
8回限界の負荷は、プレスで扱いましょう。

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解剖に関する質問

元巨人の山崎正之投手を知ってますか? 1961年 ベンチ裏の通路。
グラウンドでは国鉄のシート・ノックが始まったばかり。
一服つけている山崎の肩を別所コーチがたたいた。
「きょうは腕のみせどころだな。
国鉄の三、四番はお前と同期生じゃないか。
クセは十分知っているだろう。
思いきっていけよ」山崎はテレくさそうに帽子に手をやりながら「はあ、はあ」とうなずく。
「きょう負けたらお前の責任だぞ」ともう一度別所コーチにポンと肩をたたかれた山崎は「わかってます。
あの二人だけは・・・」ここまでいってブルペンへ走った。
「山崎の身上はコントロールと心臓」という佐々木信也氏に六回クリーン・アップをかんたんに料理したところを中心に解剖してもらおう。
杉本 4球で三振。
杉本はどちらかといえば内角が強いから、まず外角でストライクをとり、次にシュートを内角低目へきめて、から振りさせてから外角へ得意のスライダーを二つ。
三振させた最後の球はプレートいっぱいにスライダーをきめた。
バッターはプレートの左端をふんでサイドから投げられるとどうしても腰がひけがちになるものだ。
徳武 5球で三振。
外角のストレートとスライダーで2-1としてから外角へスライダーのボールを投げておいてインコースの落ちるシュートで三振させた。
町田 5球で二飛。
外角のストレート、外角カーブで泳がせてから内角シュートでとった。
この夜はカーブにしてもシュートにしても1球もど真ん中へ投げていない。
球威はそれほどないのでストレートばかり投げたのでは打たれる。
だから適当にボールをまぜているが、そのまぜ方が非常にうまい。
これは森の好リードによるものだろう。
最後の打者平岩を三振にとってベンチへ引きあげてきた山崎を、二十名近い報道陣がワッととりこんだ。
マイクに押されてあとずさりしながら「きょうはいままででいちばんスピードがありました。
でも最初は高目へ浮いてちょっと苦しかったですが・・・。
後半は低目へきまりましたから」少しどもり気味、口からはアワが吹き出る。
「この前の阪神戦のこと(九回にくずれる)を意識しなかった」ときかれた山崎は「ええ、すこしね。
だから九回は1球1球に力がはいりました。
採点ですか?夢中で投げましたからわかりません。
別所さんか森さんにしてもらってください」ここではじめてタオルで汗をぬぐった。
報道陣の質問は杉本、徳武のことばかり。
-二人をだいぶ意識していたようだね。
「いやあ・・・。
二人のクセはそりゃあよく知っていますけどこちらだってそれだけ知られていますからね」-六回、杉本、徳武を三振させた球は?「・・それだけはかんべんしてください。
それだけは・・・」この球がどうやら山崎の秘密兵器らしい。
佐々木信也氏は「スライダーだ」といっていたが・・・。

解剖 に関する質問

知らなかったので調べました。
1938年埼玉県に生まれる。
法政第一高校から法政大学へ入学し、東京六大学リーグにおいて1960年春のシーズンに優勝、自身もベストナインに選ばれるなど法大のエースとして活躍。
リーグ通算36試合12勝8敗、防御率2.50、87奪三振。
同期に山本一義、鈴木孝雄がいる。
卒業後の1961年に読売ジャイアンツへ入団。
1年目から、先発・リリーフでフル回転した。
一軍では40試合登板し、9勝を挙げた。
巨人はV9時代の前で、エースの藤田元司が全盛期を過ぎていたなど、投手陣が手薄だったことが活躍につながった。
5月27日のイースタン・リーグの対大洋ホエールズ戦では完全試合を達成している。
しかし肩を壊し、翌1962年は0勝に終わる。
1963年から得意な打撃を生かして外野手に転向し、しばしば代打本塁打を打った。
1965年に東映監督の水原茂に請われて東映フライヤーズに移籍し、1965年には再び投手に戻り3勝を挙げる。
1966年に引退。
引退後は実業家(衣料品チェーン店経営)に転進し成功した。
1991年11月20日、脳卒中のため急死。
妻と二人の子息がいて、長男は筑波大学附属駒場高等学校から東京大学にを卒業し、メガバンク富士銀行に入行した。
次男は、東海大相模高卒、アラバマ大学中退ではあるが、のちに家業をつぎ社長になった。
両者とも父親似の美男子であったという。
通算66試合登板 12勝6敗 防御率2.61 211打数 45安打 8本塁打 19打点 打率.213 背番号 17 (1961年 - 1962年) 38 (1963年 - 1964年) 9 (1965年 - 1966年) イースタン、ウェスタン二軍両リーグ通じて、ノーヒットノーランを含めて初の無安打無得点試合となったそう。

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解剖に関する質問

元巨人の伊藤芳明投手を知ってますか? 1963年 首すじにたまった汗がカクテル光線にキラキラ光った。
4勝目、二試合連続で今シーズン三度目の完封勝ち(リーグ最高)した伊藤は差し出される何本もの太い腕の中で笑っていた。
「調子がよかったものね。
三振も初めからずいぶんとったけど、五回にあきらめちゃったよ。
北さん(北川)に注意されたんだ。
ガラじゃないし、年を考えろだってさ。
ごもっともさまで・・・」底抜けに明るい。
好調伊藤は、ここでも自分のペースで話を進める。
聞かれるままに自分のピッチングもていねいに解剖してみせた。
「このごろコントロールが非常にいいんだ。
それにスピードがある。
それも投げれば投げるほど出るといったぐあい。
金沢(十五日、広島戦)のとき最高だったと思ったけど、きょうの方がもっとよかったものね。
それにカーブやドロップがストライクかボールかというきわどいコースへきまっているのもいいんじゃないかな。
落ちるシュートだってそうだ。
だから打たれたってそうはとばないよ。
でもいまの阪神は元気がなさすぎるね」自分の左腕をすっかり信頼し切っている。
「この自信こそオッチャン(伊藤)好調の秘密だ」といいきる人もある。
ピッチング担当の中尾コーチだ。
「たしかにオッチャンはスピードが一段とついたし、カーブやドロップのコントロールがとてもよくなっている。
しかしそんなことよりいざマウンドを頼んたときにこれならいける。
絶対もらったという気持ちに心のそこからなれるということが大きいのだ。
それにローテーションどおりに使えばオッチャンほど調子のもっていき方のうまい投手はみあたらないよ」ピッチング・コーチに真顔でほめられた伊藤はこんなことをいってテレた。
「調子をくずさないのは規則正しい生活をしているからでしょう。
エッ?もちろん結婚してからですよ。
へへへ」しかし好調の原因はほかにもある、といった。
それは馬皮ボールだ。
「いままでの牛皮だとどんなに砂をこねつけてすべっちゃうんだけど、馬皮はその点実にしっくりいくんだ。
みんななんとかいっているけど、ぼくは馬皮がすきだよ。
採用してくださったコミッショナーさまさまですよ」馬皮ボールはよくとぶこんな定評があるのも調子のいい伊藤には少しも気にならないようだ。
女房役の盛りも快調をすなおに認め「このごろではあまりよすぎてリードも定石どおりでOK。
ぜんぜん頭をつかわせてくれないんだ」とボヤいていた。
オッチャンは見方まで悩ませているらしい。

解剖 に関する質問

伊藤芳明投手「1983年、巨人スカウト時代」 ・平均的な成績を残しながら長くプレーを続けるのも野球人生なら、一度、激しく燃えて輝き、そのまま燃え尽きてしまうのも野球人生。
伊藤は後者の部類に属するプレーヤーだったろう。
38年、きらりと光る活躍を見せ、二度目の輝きは訪れることはなかった。
10完封を含む19勝「8敗」、沢村賞受賞。
エースとして投げ、ペナントレース終盤、激しく追い込んできた中日とのデットヒートに終止符をうったのも伊藤の左腕だった。
伊藤が前年度のような4勝どまりの投手だったら、川上監督二度目の優勝は確実になかった。
前年度、巨人史上初のBクラスに落ち、内外から批判を浴びていた川上監督、二年連続で優勝を逃していたならば・・・。
川上監督なくして 巨人の9連覇は・・・。
1年だけの活躍だったが、伊藤もまた、巨人の歴史に大きなかかわりあいを持つ人物となっている。
「あの年のオフ、銀座をブラブラしていたら偶然、川上さんと遇ってね。
オイ、好きなものを選べ、とネクタイを1本プレゼントされた。
沢村賞でもらった金杯とあのネクタイ、いい思い出だね」「38年の働き、あれだけがボクの誇りだ。
優勝後の行事、いつもОNとボクが主役だった。
ОNと同等に扱ってもらったり、一緒にカメラに収まったり、そんなのはあのときだけだった」 あと1勝、つまり、20勝はトライすればできたはず、という。
「川上さんが、オレが20勝と認める、だからもう勝ち星を稼ぐ必要はない、日本シリーズ用の調整をしろ、といってね。
そのときは川上さんの認定で満足したが、いまになって悔やまれるね。
20勝したことのない悲しさ。
19勝と20勝との間にある大差を痛感するよ。
もし、今の時代に、20勝のチャンスを奪ったりしたら大変だろうね」 翌年のキャンプで左足に肉離れをおこしたのがたたり、11勝、2勝と急激に成績が落ち、東映に移籍後も4年間で5勝に終わった。
「左足にウェートをかけて投げるタイプだったから故障はこたえた。
ゴツゴツした感じのフォームで荒れ球、自滅か完封か、といった投法が、おだやかな投球に変わってしまった。
投手にとって下半身の故障は致命傷となる場合がある。
だから、現在の江川が心配でねぇ」 ノンプロ球界最高の左腕として入団したときの秘話。
「関西全球団から誘われたけど、広島の契約金800万円という条件が飛びぬけてよかった。
だから広島入団を決めてたんですが、スカウトが契約書をそのとき持っていなくて、一度、広島に帰ったんです。
その夜、巨人から入団要請を受けた。
巨人を断る口実として、1千万円以上をくれたら、とまあホラを吹いたんですよ。
ボクにそんな大金を出すわけないと思ったからね。
そうしたら、いいとも、とばかり1千万を超える提示。
翌朝、巨人との契約書にハンコを押しちやった。
あの年はね、王、村山、桑田、江藤、坂東ら大物新人がいっぱいプロ入りしたんだが、なんとボクが3番目に高い契約金をもらっちゃった。
契約書に見合う働きをしたかなあ」 巨人のスカウトとして活動しているいま、もちろん、交渉に契約書を忘れることはない。

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