2年連続20勝投手として聞き覚えありますね。
調べてみました。
中京商業高校では、同期の加藤克巳(巨人)とバッテリーを組み、エースとして甲子園に4回出場。
1953年の春の選抜では、1回戦で「瀬戸内少年野球団」のモデルとなった洲本(大会の優勝校)に敗退。
同年の夏の選手権では準決勝まで進むが、大会準優勝校の土佐に敗退。
1954年の春の選抜、1回戦で坂崎一彦を擁する浪商に敗退。
夏の甲子園では順調に勝ち進み、決勝で松浦三千男・興津達男を投打の柱とする静岡商と対戦。
松浦との投げ合いを3-0で制して優勝を飾る。
1955年に中日ドラゴンズへ入団し、1年目から一軍に抜擢される。
左の本格派投手として主に先発として活躍し、1956年・1957年には2年連続で防御率1点台の20勝をマーク。
1956年5月31日の巨人戦(中日)では8回表、川上哲治に日本プロ野球初の2000本安打を打たれる(ショートとレフトの間に落ちるテキサスヒット)。
その後は故障もあって一時低迷したが、フォームをサイドスローに変えて復活。
1963年に9勝、1964年8月18日に巨人戦(中日)でノーヒットノーランを達成。
こうした経緯から「巨人キラー」と呼ばれていたという。
1965年に現役を引退。
その後は中日で一軍投手コーチ補佐(1966年, 1968年)・二軍投手コーチ(1967年, 1971年 - 1976年, 1986年 - 1989年)・一軍投手コーチ(1977年 - 1978年、1984年 - 1985年)を、兄弟では監督(1999年)を務めた。
指導者生活の合間を縫って、東海ラジオ(1969年 - 1970年, 1979年 - 1983年)・CBC(1995年 - 1998年)で解説者を務めた。
2005年には職員を務めていた中京大学のコーチに就任。
通算396試合登板 83勝90敗 防御率2.55 ノーヒットノーラン:1回 (1964年8月18日、対読売ジャイアンツ戦、中日スタヂアム) ※史上31人目 オールスターゲーム出場:2回 (1956年、1957年) 背番号 28 (1955年 - 1960年) 19 (1961年 - 1965年) 67 (1966年 - 1967年) 69 (1968年) 66 (1971年 - 1977年) 65 (1978年) 73 (1984年 - 1989年)