元阪神の藤井栄治選手を知ってますか? 1962年 ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギ

元阪神の藤井栄治選手を知ってますか? 1962年  ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギ

元阪神の藤井栄治選手を知ってますか? 1962年 ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギュラー・クラス用のロッカーの奥、若手選手のたまりという感じだ。横地がニヤニヤしながらいった。「火の出るような当たりだったな」逆転打になった藤井のタイムリーはワン・バウンドで前進守備の須藤の頭を抜いた第一級のヒットとはおせじにもいえないもの。「エヘヘヘ」とテレくさそうに笑いながら藤井は説明。「無死二、三塁だったでしょう。外野フライを打てればと思っていたんです。それが打ったら内野ゴロ、会心の当たりなんていばられへんわ。いくらあつかましくてもね。ストレートだったと思います。ようわからへん。インパクトのときにやけくそみたいにパッと力を入れたのがよかったんでしょう」歯切れの悪いいい方で、口のなかでモグモグ。ハデさなどツメのアカほどもない選手だ。「打ったときはこれはとられたと思いましてん。しかし走っていると大きなバウンドで須藤の頭を越えたのがみえた。あんなときはなにも感じないものですわ。これで逆転したなんて感じはなんにもない。意識がなくなったみたいです。ボーッとしながら一塁へ走っただけです。中村はそう速いという感じはなかった。ただ2-1になってから高目のストレート二球ファウルして、なんだかいけそうな感じがしていましたけれど・・・」ニックネームを聞いたらはずかしそうな顔をして「それはだれかに聞いて下さい」と逃げ出した。同じルーキーの安藤に聞いたら「鉄仮面というんです。顔の感じが似てるでしょう。ぼくらは名前を呼んで鉄仮面とはいわないけど・・・」色が黒く、造作のいかつい藤井にピッタリのニックネーム。「とうとうバレたか。関大のときにつけられましてね。ぼくにはうれしくない呼び名ですよ」という藤井に横から櫟コーチが「いいアダ名じゃないか。鉄仮面のごとく強くたくましい選手になればいい」と妙なほめ方をした。藤井はニヤニヤしながら下を向いていた。「村瀬はどうしたんだろう。なんだかいつもの元気がないようやった。くさらずにがんばれといっておいてくれませんか」と一人になった藤井は、関大時代の二年後輩、巨人の村瀬のことを心配していた。趣味はなにもない。ヒマなときは寝ころんで野球の放送を聞いているのが一番いいというあくまで地味な存在だ。

知らなかったので調べました。 登美丘高校では投手だったが、関西大学進学後は打力を買われて打者に転向。 関西六大学リーグでは1年次の秋季リーグから出場し、2年次の春季リーグからレギュラーに定着。 在学中3度優勝。 リーグ通算68試合に出場し、213打数64安打、打率.300、0本塁打、29打点。 4年次の1961年に春季リーグで優勝し、首位打者を獲得。 その直後の日本選手権では、エースの村瀬広基を擁して決勝に進出するが、日大の宮田征典に抑えられて敗退。 1962年に阪神タイガースへ入団。東京六大学出身の安藤統夫・室山皓之助が同期で、ライバル心を燃やす。 左中間に伸びる打撃と勝負強さを武器に1年目から活躍し、球団史上初のリーグ優勝に貢献。外野守備にも優れ、鎌田実によれば、二塁走者がいる時はわざと打球をライトを守る藤井の所に抜けさせ、本塁を突いた走者を藤井の送球でアウトにしていたほどであった。 セ・リーグの外野手最多連続守備機会無失策記録の保持者でもある(817連続守備機会、67.9.17~73.7.15 ※パ・リーグ移籍後820機会まで継続した)。 1963年には同年のベストナイン(外野手部門)に選出され、打率.300でベストテン7位にランクイン。1968年にはカークランド入団でセンターへコンバートされると、1970年にはバレンタインが入団。 球団の若返り策で守備位置を奪われたほか、大学の先輩である村山実監督と懇意であったため、村山引退後は後任の金田正泰監督との確執が生じる。 1973年の春季キャンプでは片手捕球をしたことをナインの前で酷評され、激怒して詰め寄り途中で帰り、金田監督との溝が深まった。 このような確執から、1974年に阿部良男との交換トレードで太平洋クラブライオンズに移籍。 藤井が自ら移籍を志願し、かつて阪神のマネージャーだった青木一三代表が獲得に動いた。 1976年オフに戦力外となり、大学の先輩である上田利治監督の強い要望で阪急ブレーブスへ無償トレードで移籍。 1977年は代打の切り札として活躍し、高橋直樹を得意とした。他球団からは右の高井保弘と共に恐れられたが、1978年限りで現役を引退。 引退後は西武(1979年 - 1981年一軍打撃コーチ)、近鉄(1982年 - 1983年一軍外野守備コーチ, 1984年一軍打撃コーチ, 1993年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、阪神(1988年一軍打撃コーチ, 1989年二軍監督)で監督・コーチを歴任。 西武時代には立花義家・石毛宏典、阪神時代には和田豊・大野久・中野佐資・亀山努・星野修を育てた。 監督・コーチ業の合間を縫って、サンテレビ解説者(1985年 - 1987年, 1994年 - 2003年)・スポーツニッポン評論家(1990年 - 1992年)を務めた。1993年、監督に就任した鈴木啓示からの要請で、近鉄にヘッド兼打撃コーチとして復帰するが、開幕して5試合目の4月20日、体調不良により退団した。 2008年からは江坂ベースボールセンターにてマンツーマンのバッティング教室を開講。 通算1650試合出場 5173打数 1344安打 73本塁打 545打点 打率.260 ベストナイン:1回 (1963年) オールスターゲーム出場:3回 (1963年 - 1965年) 背番号 19 (1962年 - 1973年、1977年 - 1978年) 9 (1974年 - 1976年) 68 (1979年 - 1981年) 73 (1982年 - 1984年) 72 (1988年 - 1989年、1993年) 覚えておかなければならない選手ですね。

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元阪神の藤井栄治選手を知ってますか? 1962年  ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギ

元阪神の藤井栄治選手を知ってますか? 1962年 ロッカーへ帰ってきた藤井に若手の連中が声をかけた。そのロッカーはレギュラー・クラス用のロッカーの奥、若手選手のたまりという感じだ。横地がニヤニヤしながらいった。「火の出るような当たりだったな」逆転打になった藤井のタイムリーはワン・バウンドで前進守備の須藤の頭を抜いた第一級のヒットとはおせじにもいえないもの。「エヘヘヘ」とテレくさそうに笑いながら藤井は説明。「無死二、三塁だったでしょう。外野フライを打てればと思っていたんです。それが打ったら内野ゴロ、会心の当たりなんていばられへんわ。いくらあつかましくてもね。ストレートだったと思います。ようわからへん。インパクトのときにやけくそみたいにパッと力を入れたのがよかったんでしょう」歯切れの悪いいい方で、口のなかでモグモグ。ハデさなどツメのアカほどもない選手だ。「打ったときはこれはとられたと思いましてん。しかし走っていると大きなバウンドで須藤の頭を越えたのがみえた。あんなときはなにも感じないものですわ。これで逆転したなんて感じはなんにもない。意識がなくなったみたいです。ボーッとしながら一塁へ走っただけです。中村はそう速いという感じはなかった。ただ2-1になってから高目のストレート二球ファウルして、なんだかいけそうな感じがしていましたけれど・・・」ニックネームを聞いたらはずかしそうな顔をして「それはだれかに聞いて下さい」と逃げ出した。同じルーキーの安藤に聞いたら「鉄仮面というんです。顔の感じが似てるでしょう。ぼくらは名前を呼んで鉄仮面とはいわないけど・・・」色が黒く、造作のいかつい藤井にピッタリのニックネーム。「とうとうバレたか。関大のときにつけられましてね。ぼくにはうれしくない呼び名ですよ」という藤井に横から櫟コーチが「いいアダ名じゃないか。鉄仮面のごとく強くたくましい選手になればいい」と妙なほめ方をした。藤井はニヤニヤしながら下を向いていた。「村瀬はどうしたんだろう。なんだかいつもの元気がないようやった。くさらずにがんばれといっておいてくれませんか」と一人になった藤井は、関大時代の二年後輩、巨人の村瀬のことを心配していた。趣味はなにもない。ヒマなときは寝ころんで野球の放送を聞いているのが一番いいというあくまで地味な存在だ。

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