元東映の久保田治投手を知ってますか? 1962年 アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのように

元東映の久保田治投手を知ってますか? 1962年  アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのように

元東映の久保田治投手を知ってますか? 1962年 アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのようにぐっしょりだ。久保田はチームでも一、二を争う汗っかきである。「オールスター戦中練習らしい練習はしなかったので、いつもの倍は汗をかきました」プロ入り八年生なのに言葉づかいはすごくていねい。試合前のことだが大毎の若生、上条らが「こんちわ」と久保田にあいさつすると「アッ、これは、こんにちわ。暑いですね」と腰を低くかがめた。久保田の方が先輩である。話し合いはこんなふうにバカていねいなだけでなく、話すスジもちゃんと通っている。「外野を走っているときはこの暑さでしょう。どうなることかと思いましたが、マウンドで投げたらこれはいけると思いました。球威がありました」-完投できると最初から自信があった?「二回投げて自信がわきました。おそらく投球数は八十前後だと思います。ぼくの場合、一イニング十球のペースでは完投できません。外角へはずし内角シュートで勝負したのですが球威があったのでねばられずにすみました。一回八球、二回は九球でした。いままでも完投したときは必ず八十前後のはずです」言葉どおり投球数は七十八。ある記者が聞いた。「今夜は安打二本打たれたが・・・」みなまでいわせず「いいえ三本です」と訂正した。すべてこの調子である。オールスターに選ばれながら久保田は平和台でも広島でも投げなかった。博多に着いたとき水原監督に「おまえは投げさせんぞ」と引導をわたされたそうだ。「広島にはおやじもきていたので投げたかったですね。ペナント・レースの方がそりゃ大切なんでしょうけど・・」その広島で土橋が打たれ、この夜第二試合もみじめだった。「これからがぼくのシーズンです」という久保田をオールスターであえて使わなかったのは水原監督の深い読みがあったとみていていいようだ。久保田は冷蔵庫で冷やしたコンブのエキスを毎日欠かさず飲んでいる。「コンブの小切りを水につけるだけですが、塩が適当にとけておいしいです」これが夏の活躍を維持する秘けつだそうだ。

以前学習しましたね。 知ってます。 島根県立浜田高等学校から豊川高等学校に移り駒澤大学へ進学。 東都大学リーグで通算10勝13敗。 1955年、大学4年生の時に中退して東映フライヤーズに投手として入団。 高校の同級生には中日ドラゴンズで投手として活躍した伊奈努がいる。 土橋正幸と並ぶ東映のエース格として、1961年には25勝を挙げた。 翌1962年には16勝を挙げ、防御率は2.12で最優秀防御率に輝き、東映のパシフィック・リーグ初優勝および日本一に大きく貢献する。 1966年には読売ジャイアンツに移籍するも、1勝挙げたのみで引退した。 サイドスローからのスライダー、カーブ、シュートが武器。 引退後セントラル・リーグ審判部に入局。審判員になった年齢は遅いが、ファームでは最優秀審判賞を受賞、早い時期から巨人戦の球審も任され、1974年に日本シリーズ初出場を果たし、1978年のヤクルトスワローズがリーグ初優勝決定試合での球審など順調にキャリアを積み重ね、2852試合に出場、日本シリーズ・オールスターゲームはともに7回出場した。 1995年の日本シリーズを最後に引退、審判指導員として後任の指導に当たっていたが2001年に退職した。 現在はプロ野球マスターズリーグで審判を務めている。 審判員袖番号は12(1988年初採用から2001年引退まで。 専任指導員に転じた1996年以降もつけていた。 その後2007年新採用の坂井遼太郎が引き継いだ)。 1992年には湯舟敏郎がノーヒットノーランを達成した試合や、八木裕が放った「幻のホームラン」で公式戦では最長の6時間26分となった試合の球審を務めている。 また、公式戦ではないが、1975年の川上哲治引退試合(巨人の監督勇退時)に球審を務めていた。 プロ野球選手として一流の成績を残した後に審判に転進した、最後の人物といえるだろう(タイトルホルダーの現役審判としては、1990年にゴールデングラブ賞受賞経験のある柳田浩一がいる)。 平光清・三浦真一郎とともに早くからインサイドプロテクターを採用していた。 やや打者の内角寄りに身体を傾けて構え、ストライクのコールはその状態から右腕を真上に上げていた。 また、打者が見逃し三振をした時のポーズも特徴的であった(真上に手を挙げた後、打者と反対側の方を向いてストライクアウトのポーズを取る)。 性格は温厚で、多芸多才、動物好きである。 通算307試合登板 80勝58敗 防御率2.83 最優秀防御率:1回 (1962年) オールスターゲーム出場:2回 (1961年、1963年) 背番号 62 (1955年) 26 (1956年 - 1965年) 19 (1966年)

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元東映の久保田治投手を知ってますか? 1962年  アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのように

元東映の久保田治投手を知ってますか? 1962年 アンダーシャツを三枚とりかえた。どれもいま水からあげたばかりのようにぐっしょりだ。久保田はチームでも一、二を争う汗っかきである。「オールスター戦中練習らしい練習はしなかったので、いつもの倍は汗をかきました」プロ入り八年生なのに言葉づかいはすごくていねい。試合前のことだが大毎の若生、上条らが「こんちわ」と久保田にあいさつすると「アッ、これは、こんにちわ。暑いですね」と腰を低くかがめた。久保田の方が先輩である。話し合いはこんなふうにバカていねいなだけでなく、話すスジもちゃんと通っている。「外野を走っているときはこの暑さでしょう。どうなることかと思いましたが、マウンドで投げたらこれはいけると思いました。球威がありました」-完投できると最初から自信があった?「二回投げて自信がわきました。おそらく投球数は八十前後だと思います。ぼくの場合、一イニング十球のペースでは完投できません。外角へはずし内角シュートで勝負したのですが球威があったのでねばられずにすみました。一回八球、二回は九球でした。いままでも完投したときは必ず八十前後のはずです」言葉どおり投球数は七十八。ある記者が聞いた。「今夜は安打二本打たれたが・・・」みなまでいわせず「いいえ三本です」と訂正した。すべてこの調子である。オールスターに選ばれながら久保田は平和台でも広島でも投げなかった。博多に着いたとき水原監督に「おまえは投げさせんぞ」と引導をわたされたそうだ。「広島にはおやじもきていたので投げたかったですね。ペナント・レースの方がそりゃ大切なんでしょうけど・・」その広島で土橋が打たれ、この夜第二試合もみじめだった。「これからがぼくのシーズンです」という久保田をオールスターであえて使わなかったのは水原監督の深い読みがあったとみていていいようだ。久保田は冷蔵庫で冷やしたコンブのエキスを毎日欠かさず飲んでいる。「コンブの小切りを水につけるだけですが、塩が適当にとけておいしいです」これが夏の活躍を維持する秘けつだそうだ。

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