元東映の宮原務本選手を知ってますか? 1963年 右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくない

元東映の宮原務本選手を知ってますか? 1963年  右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくない

元東映の宮原務本選手を知ってますか? 1963年 右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくないスタイルで宮原はベンチを出た。「ぼくボール係なんですよ。三年たったのにまたボール。重いんですよ」あわれっぽい声が出た。キャンプ中は尾崎と新人にボール係をゆずったのにシーズンにはいるとまたボール係。ピッチャーには持たせられないんですって。おはちがぼくにまわってきたんだ」ナインの中で最年少の宮原がまたバックをかつぐことになった。「三年目なのに・・・」と口をとがらし、バッグを引きずりあげる。取りかこむ報道陣も、バットとバッグをぶら下げた宮原に近寄れない。首をのばして「打った球のコースは?」と聞く報道陣にやっとバッグをおろし「カーブだったと思うのですが!」とたよりない返事だ。「なにしろ今シーズン四度代打に出て四回とも投ゴロなんですよ。ヒットははじめて」と急に顔を赤らめた。「代打は予想していました。島田さんはもう出たあとでしょう。こんどはぼく」かたわらを通り抜ける土橋が「サンキュー。バッティングのコツ教えてやろう」と冗談をいうとまた顔を赤らめ、帽子をぬいでゾウキンのようにしばりつけてテレる。まだ高校生気分が抜けないようだ。昨シーズン前半に痛めた右足の故障が尾を引いてことしのキャンプを棒に振っているが「まだほんとうの当たりではありません。左中間にとんだしょう。ミートした瞬間腰が落ちてしまって変な方にとんでしまった」としきりに頭をかく。ほんとうの当たりというのは一塁ベース・キャンバスを抜くライナーだそうだ。入団一年目の三十六年のペナント・レースではこの当りで島田につぐ第二の代打要員の地位をがっちりつかんでいる。「やはりキャンプに出なかったのが響いています。公式戦になると練習できないでしょう」バッティング練習はいつもあとまわしだ。バックをかつぎバスへ走りながら「でもいいんです。東京にいるときは昼間イースタンでやれますからね」といった。イースタン・リーグにいけば四番バッターなのである。去年は全然パッとしなかったから、その分まで取り返さなければ・・・」バスのタラップにぶらさがって小声でこういった。参加報酬をもう三万円あげてもらってイギリス製の背広をつくりたいのだそうだ。

知らなかったので調べました。 長生一高では、1960年の第11回春季関東地区高等学校野球大会に千葉県代表として出場し、チームを初優勝に導く活躍を見せる。 同年夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、関根知雄のいた銚子商に敗退。 1961年に東映フライヤーズへ入団。当時の東映の外野手には張本勲、毒島章一、白仁天といった実力者が揃っており、宮原には厳しい環境だった。 その中でも四番手の外野手や代打の切り札として起用され、1964年から5年間、準レギュラーとして好成績を残す。 1968年には、当時の大下弘監督に打撃を評価され、主にクリーンアップ、右翼手として重用された。 しかし1969年には打撃低迷によって出場機会が減り、1970年にヤクルトアトムズへ移籍する。 ここでも代打や控え外野手として実績をあげるが、1971年途中に近鉄バファローズへ、1973年には大洋ホエールズへと移籍が続く。 大洋では打撃成績も振るわず、この年限りで引退した。 引退後は西武ライオンズのスカウトを務めていたが、在職中の1994年3月21日、脳内出血のため死去。 51歳没。 通算916試合出場 1507打数 388安打 23本塁打 170打点 .257 背番号 57 (1961年) 25 (1962年 - 1969年 1971年) 36 (1970年) 22 (1971年 - 1972年) 4 (1973年) 登録名 宮原 務本 (みやはら つもと、1961年 - 1968年) 宮原 秀明 (みやはら ひであき、1969年 - 1973年) 四度代打に出て四回とも投ゴロ… これまた凄い記録だ。

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元東映の宮原務本選手を知ってますか? 1963年 右手にバット・ケース、左手にボール・バッグ。およそヒーローらしくないスタイルで宮原はベンチを出た。「ぼくボール係なんですよ。三年たったのにまたボール。重いんですよ」あわれっぽい声が出た。キャンプ中は尾崎と新人にボール係をゆずったのにシーズンにはいるとまたボール係。ピッチャーには持たせられないんですって。おはちがぼくにまわってきたんだ」ナインの中で最年少の宮原がまたバックをかつぐことになった。「三年目なのに・・・」と口をとがらし、バッグを引きずりあげる。取りかこむ報道陣も、バットとバッグをぶら下げた宮原に近寄れない。首をのばして「打った球のコースは?」と聞く報道陣にやっとバッグをおろし「カーブだったと思うのですが!」とたよりない返事だ。「なにしろ今シーズン四度代打に出て四回とも投ゴロなんですよ。ヒットははじめて」と急に顔を赤らめた。「代打は予想していました。島田さんはもう出たあとでしょう。こんどはぼく」かたわらを通り抜ける土橋が「サンキュー。バッティングのコツ教えてやろう」と冗談をいうとまた顔を赤らめ、帽子をぬいでゾウキンのようにしばりつけてテレる。まだ高校生気分が抜けないようだ。昨シーズン前半に痛めた右足の故障が尾を引いてことしのキャンプを棒に振っているが「まだほんとうの当たりではありません。左中間にとんだしょう。ミートした瞬間腰が落ちてしまって変な方にとんでしまった」としきりに頭をかく。ほんとうの当たりというのは一塁ベース・キャンバスを抜くライナーだそうだ。入団一年目の三十六年のペナント・レースではこの当りで島田につぐ第二の代打要員の地位をがっちりつかんでいる。「やはりキャンプに出なかったのが響いています。公式戦になると練習できないでしょう」バッティング練習はいつもあとまわしだ。バックをかつぎバスへ走りながら「でもいいんです。東京にいるときは昼間イースタンでやれますからね」といった。イースタン・リーグにいけば四番バッターなのである。去年は全然パッとしなかったから、その分まで取り返さなければ・・・」バスのタラップにぶらさがって小声でこういった。参加報酬をもう三万円あげてもらってイギリス製の背広をつくりたいのだそうだ。

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