元近鉄の阿南準郎選手を知ってますか? 1968年 「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか

元近鉄の阿南準郎選手を知ってますか? 1968年  「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか

元近鉄の阿南準郎選手を知ってますか? 1968年 「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか」阿南は鎌田にささやいたという。鎌田は一、三球目にバントをやり、わざとファウルにして十イニング目にはいった池永をじらした。そのあと三遊間を破ったが「あまり打てそうな気がしなかったので意地悪をした」のだそうだ。三十路の鎌田と三十一の阿南の呼吸がここで合う。「シュートのかけそこないみたいだった。内角のいい球だったよ」阿南の左中間を抜いた打球で鎌田がかえった。いま一つ見のがせないのは一塁の岩本コーチのところに一球目がきたあと足を運んだこと。「いや、なんでもなかったんだ。池永にポンポンと投げさせたくなかったからね」池永は合計六十一歳のベテラン二人の知恵にやられたともいえる。この阿南、このところフル回転だ。遊撃の安井がケガ(左手首打撲)しているので本職の三塁を若手に譲って遊撃をやったり、二塁の守備にもつく。一週間に七試合やるようなハード・スケジュールではフル出場は四回ぐらい、と三原監督がいったこともあるのに、年齢を忘れたような活躍ぶり。「疲れないといったらウソになる。チームの調子が悪いときなんで、いけるとこまでいくよ」とめがね越しに笑う。プロ野球の選手には珍しく趣味は読書。移動の汽車や飛行機の中では静かに本を広げる。石川達三のファンだそうだ。チームの状態を分析してこういった。「集中打が出ないのが苦戦の原因やね。ヒットが途切れるということは本調子ではない証拠だ。最低のときになんとかこうして勝っているのだから、これからは徐々にのぼり調子になっていくだろう」そうすれば10連勝ぐらいまででもいけるだろうと冗談。昨年までとの違いは負けたときの気持ちだそうだ。「去年は、ああ負けたか、でみんな終わりだった。ところがことしは負けたときのくやしさを、あすの勝利のために生かそうとみんな真剣だよ」若い力がつまずいているいま、ベテランの活躍で勝った意味は大きい。「たまにこんなこともないと・・。だってぼくはまだ三十一歳の若さなんだから、これからまだひとあばれしようと思っているくらいだもん」優勝出来るかどうか、の質問には「そんなことに答える時期じゃない」とあっさりいったが「残り五十試合ぐらいを、とにかく全力でやっている」と結んだ。

あぁ…、 有名な方ですね。 小学生時代、当時教師だった漫画家の富永一朗から教えを受けていた。 佐伯鶴城高では、1955年夏の甲子園県予選で優勝、東九州大会に進出するが、出水高に惜敗し、甲子園出場はならなかった。 1956年に広島カープへ入団。内野が手薄だったため、入団1年目から遊撃手として活躍。 1960年には三塁手の興津立雄が一塁手に回り、その後継となる。 「守備の職人」として遊撃手の古葉毅とともに鉄壁の三遊間を形成し、ガッツあふれた守備でファンを魅了した。 1962年には興津が三塁手に復帰するが、その後も内野の準レギュラーとして活躍する。1964年に「潤一」から「準郎」に改名。 同年は小坂佳隆に代り二塁手の定位置を獲得、生涯唯一の規定打席(24位、打率.246)に達する。 しかし翌年から古葉が二塁手に回り、その後は内野のユーティリティプレイヤーとして起用された。1968年近鉄バファローズに移籍。 ここでも三塁手として活躍するが、1970年限りで引退し、その後は近鉄の二軍内野守備コーチ(1971年)・一軍守備コーチ(1972年 - 1973年)を務めた。 1974年、森永勝也監督の要請で広島にコーチとして復帰。 1975年、球団創立25年での初優勝の際はシーズン当初は二軍コーチを務めていたが、ジョー・ルーツ監督の辞任により古葉が監督に昇格すると一軍コーチとして招聘され、初優勝に貢献した。 1986年、古葉の後を受け継いで監督に就任。 山本浩二が監督に就任するまでのつなぎ役と見られていたが現役時代に育んだガッツあふれた采配と手腕を発揮させ、就任1年目の1986年後半戦開始時点での、読売ジャイアンツとの5.5ゲーム差をひっくり返し、セ・リーグ優勝をなしとげた。 その後もAクラスを持続させ1988年勇退。フロント入りし、取締役育成部長、常務取締役球団本部長兼連盟担当、取締役相談役を歴任した。 ユニフォームの名前の表記が「ANAN」だったため、有名女性ファッション誌になぞらえて「アンアン監督」と呼ぶファンもいた。 通算1415試合出場 3426打数746安打 34安打 254打点 背番号 50 (1956年 - 1959年) 25 (1960年 - 1967年) 5 (1968年 - 1970年) 51 (1971年) 73 (1972年 - 1973年) 75 (1974年 - 1988年) 名将古葉竹識監督が退任したとき、 後任が当時、さほど有名だはなかった阿南準郎…。 あぁ、これでカープも終わったな。 と思ったら…。 なんとまぁ、いきなり優勝。 名選手名監督にあらずという言葉を認識しました。

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元近鉄の阿南準郎選手を知ってますか? 1968年 「カマちゃん、ここらでいっちょう年寄り同士で勝負を決めようじゃないか」阿南は鎌田にささやいたという。鎌田は一、三球目にバントをやり、わざとファウルにして十イニング目にはいった池永をじらした。そのあと三遊間を破ったが「あまり打てそうな気がしなかったので意地悪をした」のだそうだ。三十路の鎌田と三十一の阿南の呼吸がここで合う。「シュートのかけそこないみたいだった。内角のいい球だったよ」阿南の左中間を抜いた打球で鎌田がかえった。いま一つ見のがせないのは一塁の岩本コーチのところに一球目がきたあと足を運んだこと。「いや、なんでもなかったんだ。池永にポンポンと投げさせたくなかったからね」池永は合計六十一歳のベテラン二人の知恵にやられたともいえる。この阿南、このところフル回転だ。遊撃の安井がケガ(左手首打撲)しているので本職の三塁を若手に譲って遊撃をやったり、二塁の守備にもつく。一週間に七試合やるようなハード・スケジュールではフル出場は四回ぐらい、と三原監督がいったこともあるのに、年齢を忘れたような活躍ぶり。「疲れないといったらウソになる。チームの調子が悪いときなんで、いけるとこまでいくよ」とめがね越しに笑う。プロ野球の選手には珍しく趣味は読書。移動の汽車や飛行機の中では静かに本を広げる。石川達三のファンだそうだ。チームの状態を分析してこういった。「集中打が出ないのが苦戦の原因やね。ヒットが途切れるということは本調子ではない証拠だ。最低のときになんとかこうして勝っているのだから、これからは徐々にのぼり調子になっていくだろう」そうすれば10連勝ぐらいまででもいけるだろうと冗談。昨年までとの違いは負けたときの気持ちだそうだ。「去年は、ああ負けたか、でみんな終わりだった。ところがことしは負けたときのくやしさを、あすの勝利のために生かそうとみんな真剣だよ」若い力がつまずいているいま、ベテランの活躍で勝った意味は大きい。「たまにこんなこともないと・・。だってぼくはまだ三十一歳の若さなんだから、これからまだひとあばれしようと思っているくらいだもん」優勝出来るかどうか、の質問には「そんなことに答える時期じゃない」とあっさりいったが「残り五十試合ぐらいを、とにかく全力でやっている」と結んだ。

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