元近鉄の岩木康郎選手を知ってますか? 1969年 年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円

元近鉄の岩木康郎選手を知ってますか? 1969年  年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円

元近鉄の岩木康郎選手を知ってますか? 1969年 年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円ぐらいといわれる岩木が出るようになってから近鉄の快進撃がはじまった。この男が先発メンバーにはいったときの近鉄は、なんと22勝4敗。三原監督が「孝行むすこ」といった話は、もう有名だ。自分のバットで勝利をきめたことはなかったが、この試合ではそれをやってのけて、文字どおりヒーローになった。「スライダーを失敗してファウルになったので、なんとしてもヒットを打ちたかった」ねばったすえの決勝打はボテボテの当たりでゆるく中前に抜けていった。なにがそんなによくて勝利を呼ぶのだろうか。投手陣は「考えもつかない球を要求してくる」と笑いながらも、そのリードにまかせている。岩本コーチは「強気の攻めが生きている。攻め口を読まれるようになったら苦しくなるかもしれないけど、それまでにまた一歩進歩させればいい」という。四月下旬から五月はじめにかけてチームが9連敗と苦しんだとき、児玉、木村に代わって起用された。苦しまぎれから生まれた正捕手ともいえる。がむしゃら。チームが弱いときマスクをかぶっていないので、コンプレックスがあまりないのもこの男の財産だ。ナインに「チビ」と呼ばれる小物選手(1㍍70、70㌔)だが、研究熱心はすごい。この日も先発の清がKOされると、一回の攻撃が終ったときロッカーまで帰ってきて「スマン」と泣きだしそうな顔。得津に右中間三塁打された場面で、阿南が「あそこはカーブでかわす手もあったな」というと、考え込んでいたが「もう一球ついたれ」と内角速球のサインを出したそうだ。生まれてはじめての連日の試合出場で生キズがたえない。死球を受けた右手甲ははれているしスパイクされた右足親指のツメは浮きあがったままだ。浪速高出の六年生。昨年までは「カベ」といわれるブルペン捕手だった。野球にみきりをつけて競輪選手に職業がえをしようと真剣に考えたこともあるし、シーズン・オフには小づかいを用具代をかせぐためにデパートの荷物運搬のアルバイトもやった。一流選手になるためには、一流の道具を使いたいと考えて、年間二十万円の用具代を使う。昨年までの年棒は月給五万円の勘定で六十万円。ほかに用具代として月額五千円の計算で六万円をもらっていたらしいが、とてもたりるわけがない。「いろいろ引かれて月給袋に三千円しかはいっていなかったこともある」そうだ。年棒の査定をやる中村常務は「ことしはうんとあげてやりますよ」といっている。やっとバイトをやらないシーズン・オフを迎えることができそうだ。

知らなかったので調べました。 浪速高校では1963年夏の甲子園府予選準決勝に進出するが、和田徹捕手のいた明星高に敗れ甲子園出場を逸する。 明星高は甲子園で優勝。 1964年に近鉄バファローズへ入団。 二軍暮らしが長かったが、1969年に正捕手に抜擢され104試合に出場。 しかし翌年には、移籍してきた辻佳紀に定位置を譲る。 その後も辻とレギュラーを争うが、1974年に梨田昌孝が台頭したこともあって出番が減り、一軍出場は1974年が最後となった。 1977年から3年間は二軍コーチ兼任で選手を続けたが、1979年限りで選手を引退し、翌年からは二軍コーチ補佐となり、代わって木村貴臣が選手兼任捕手となった。 その後は、スカウト、スコアラー、バッテリーコーチ等を歴任し、2006年まで、近鉄を長きに渡り陰から支えた。 1971年9月9日に鈴木啓示投手がノーヒットノーラン(対西鉄戦、日生)を達成した時にバッテリーを組んでいた。 (選手名鑑に想い出の試合として記載) 1977年9月20日、後楽園球場での日本ハムとのダブルヘッダー第1試合(後期11回戦)において、この試合では登録外でブルペン捕手を務めていた岩木は、5回表の本塁上クロスプレーによる乱闘に参加し、日本ハム選手に暴行を加えたことにより、球審の五十嵐洋一から退場を命じられた。 登録外の選手が退場処分を受けるのは稀である。 なお、岩木は現役時代、405試合に出場し退場処分はないが、ウエスタン・リーグで1度退場処分を下されている。 通算405試合出場 727打数145安打 10本塁打 43打点 通算打率.199 背番号 69 (1964年 - 1965年) 39 (1967年 - 1976年) 64 (1977年 - 1982年) 81 (1986年 - 1987年、2000年 - 2002年) 80 (1991年 - 1992年) なんと22勝4敗… 今の日本ハムみたいな勢いですね。

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元近鉄の岩木康郎選手を知ってますか? 1969年  年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円

元近鉄の岩木康郎選手を知ってますか? 1969年 年棒一千万円をはるかに越える南海・野村とはえらい違いだ。年棒九十万円ぐらいといわれる岩木が出るようになってから近鉄の快進撃がはじまった。この男が先発メンバーにはいったときの近鉄は、なんと22勝4敗。三原監督が「孝行むすこ」といった話は、もう有名だ。自分のバットで勝利をきめたことはなかったが、この試合ではそれをやってのけて、文字どおりヒーローになった。「スライダーを失敗してファウルになったので、なんとしてもヒットを打ちたかった」ねばったすえの決勝打はボテボテの当たりでゆるく中前に抜けていった。なにがそんなによくて勝利を呼ぶのだろうか。投手陣は「考えもつかない球を要求してくる」と笑いながらも、そのリードにまかせている。岩本コーチは「強気の攻めが生きている。攻め口を読まれるようになったら苦しくなるかもしれないけど、それまでにまた一歩進歩させればいい」という。四月下旬から五月はじめにかけてチームが9連敗と苦しんだとき、児玉、木村に代わって起用された。苦しまぎれから生まれた正捕手ともいえる。がむしゃら。チームが弱いときマスクをかぶっていないので、コンプレックスがあまりないのもこの男の財産だ。ナインに「チビ」と呼ばれる小物選手(1㍍70、70㌔)だが、研究熱心はすごい。この日も先発の清がKOされると、一回の攻撃が終ったときロッカーまで帰ってきて「スマン」と泣きだしそうな顔。得津に右中間三塁打された場面で、阿南が「あそこはカーブでかわす手もあったな」というと、考え込んでいたが「もう一球ついたれ」と内角速球のサインを出したそうだ。生まれてはじめての連日の試合出場で生キズがたえない。死球を受けた右手甲ははれているしスパイクされた右足親指のツメは浮きあがったままだ。浪速高出の六年生。昨年までは「カベ」といわれるブルペン捕手だった。野球にみきりをつけて競輪選手に職業がえをしようと真剣に考えたこともあるし、シーズン・オフには小づかいを用具代をかせぐためにデパートの荷物運搬のアルバイトもやった。一流選手になるためには、一流の道具を使いたいと考えて、年間二十万円の用具代を使う。昨年までの年棒は月給五万円の勘定で六十万円。ほかに用具代として月額五千円の計算で六万円をもらっていたらしいが、とてもたりるわけがない。「いろいろ引かれて月給袋に三千円しかはいっていなかったこともある」そうだ。年棒の査定をやる中村常務は「ことしはうんとあげてやりますよ」といっている。やっとバイトをやらないシーズン・オフを迎えることができそうだ。

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