匿名さん
元西鉄の田辺義三選手を知ってますか? 1967年 昨年の十二月十一日、近鉄・山本八郎外野手のサンケイアトムズ入りが決まったときである。
近鉄の球団部長瀬古治さんと、いろいろ山本八郎君の話をしているうちに、わたしは、一人の不幸な男を思い浮かべた。
その名は田辺義三。
ゲーム前の練習中、二十七歳の若さで選手生命を失った元西鉄ライオンズの外野手である。
田辺と山本ー、わたしには、どうしてもこの二人が切り離せない。
昭和三十年は、高校選手の当たり年であった。
前岡投手(新宮高ー阪神)富永投手(立命館高ー東映ーサンケイ)畑投手(小倉高ー西鉄ー中日)米田投手(鳥取・境高ー阪急)坂崎外野手(浪商ー巨人ー東映)らがズラリとそろい、山本(浪商ー東映ー近鉄ーサンケイ)と田辺(桐生高ー西鉄)は、これら一線クラスに名をつらねる高校球界の捕手の双へきであった。
捕手は、野球が高度になればなるほど、むずかしいポジションである。
当時は、プロ野球にも好選手は少なかった。
とくによく打つ捕手は数えるほどだった。
野村(南海)はレギュラーに昇格したばかりで、セでは藤尾(巨人)パではルイス(毎日=現東京)が目につくていどだ。
そこへ出場した打力の捕手ということで、二人は早くからスカウトの注視を浴びたのである。
夏の全国高校野球選手権が終ったあと、参加全選手の中から優秀プレーヤーが選抜され、ハワイへ遠征した。
米田ののぞく前記の選手はすべて選ばれた。
山本は、守備は荒々しいが、長打力があって、むき出しのファイトはいかにもプロ向きである。
田辺は、おとなしいのが気になるが攻守に洗練され、インサイドワークでは山本をしのぐ。
どうにも甲乙をつけがたい二人は、交互に選抜軍の四番にすわり、本塁を守った。
一行がハワイから帰る。
そのときから優しいスカウト合戦の火ぶたが切られ、田辺は西鉄へ、山本は東映へ入団した。
第一線として台頭したのは山本のほうが早かったが、田辺もじりじり迫り、やがては、ともにレギュラーとして対決するようになった。
運命は、おもしろく、奇妙だった。
山本が打力を生かして捕手から一塁手ー外野手とコンバートされるころ、田辺も、打力と足を買われて外野手に転向したのである。
そして、田辺がようやく本領の打力を振いはじめた昭和三十七年、シーズン終了間ぎわになって、その頭部を魔の打球が襲う。
十月七日、西鉄は東京球場でオリオンズとの最終戦を迎えた。
打撃練習で田辺は投手に立った。
あのときのことは、いまもはっきり記憶している。
いつも投げたことのない田辺が、めずらしくバッティング投手を買って出たからである。
左打者伊藤光四郎の打球が、猛烈なライナーで飛んだ。
バットからはね返ったのと、田辺の頭に当るのと、ほとんど同時だった。
負傷回復後の田辺は悲惨だった。
後遺症の作用で、ときどきケイレンを起こし、元東京の菅原紀元投手と同じ悲劇に泣いた。
三十九年限りで自由契約となり、傷害補償金二百万円を受けて退団した。
山本と同じように嘱望され、同じような成長過程をたどった同期生でありながら、プロ球人として全うできなかった田辺ー、ケガさえなかったら、いまごろは押しも押されもしない西鉄のベテラン外野手になっていたであろう。
田辺は、いまの桐生市郊外の自宅で西陣織りの家事に精を出している。
野球のことは、忘れようとしているのかも知れない。
ハワイ帰りの田辺が羽田に着いたときから、追いかけたわたしは、当時高校選手としては最高の契約金(四百万円と記憶する)を示したのに、田辺は、なかなか「うん」といわなかった。
条件に不足はなさそうだし、プロ入りの気持もじゅうぶん、どうもおかしいと思ってたぐっていったら、とんでもない障害がひそんでいたのを思い出す。
「ぼくはもう、学校へ行きません」。
くやしそうに訴えた、あのときのことを、おぼえているだろうか。