元巨人の菅原勝矢投手を知ってますか? 1974年 巨人・菅原が、十八日、退団届けを球団に出した。三年前の阪神戦(札幌・円山)で左目に打球を受け、完治しかかった翌年に、今度は練習で同じ左目にタマを当てた。二重の不運でとうとう、引退までに追い込まれたものだ。「体には自信があるんですが、もうこれ以上苦しむのは・・・」と菅原。今後の身の振り方は球団に一任することになったが、それにしても、直径約70㍉の小さな白球は、あまりにも菅原に非情な結果を招いた。球団本部の応接室。菅原は佐伯常務に医者からもらってきた診断書を差し出した。その後、小声で「野球をやめます」とつけ足した。言葉にすればたった一息だったが、この言葉をいうために、どれだけ苦しみ、悩んだかしれない。「ときどき、夢を見るんですヨ。マウンドで投げている姿を・・・」途中で目がさめて、何度もくちびるをかんだ。順天堂病院に始まって慶應病院、東京労災、慈恵医大・・・。人から「あの病院がいい」と聞くと、幾つもの病院を訪ねた。しかし、どの病院でも「野球をやっているかぎり・・・」と冷たい宣告を受けた。「ことしの夏ごろ、吐き気とめまいで一人で歩けなかった。そのころ、もう野球はダメだとあきらめました」不運といえばあまりにも不運だった。三年前の夏、札幌・円山球場で阪神・安藤の打球を左目に受けた。そのままだったら、野球生命も断たれなかっただろう。それが翌年、また左目・・・。「二度目のタマが当たらなければ・・・」と菅原は嘆く。視力は右目が1・5。左目は裸眼で0・3。なんとか視力は回復しているが、目につながっている神経を痛めたのが、引退につながった。東京・阿佐谷の自宅には、美代子夫人と一粒種の真美ちゃん(三つ)がいる。左目を痛めていらい、家族三人の苦しみが始まった。「女房にどれだけ迷惑をかけたか・・。こどもにパパお仕事は?と聞かれるのが一番辛かった」本もテレビも新聞も見られない二年半。一時、左目が回復、ことしの宮崎キャンプで一軍入りしたとき、菅原は目にいっぱい涙をためて喜んだ。しかし、それもほんのつかのまの喜びだった。捕手の出すサインがダブって見えた。そのことをコーチに内証にしていた。どうしても、もう一度、マウンドにあがりたかったからだ。「41年にサンケイ(現ヤクルト)戦で初先発、初完封をしたのが一番思い出に残っています。三年前のあれがなければ」どうしても、一つのボールが頭から離れない。プロ入り13勝をあげ、さあ、これからというときのアクシデントだからなおさらだ。「今後の身の振り方は球団にお願いしてきました。なんとくれると思うんですが・・・」球団側では正力オーナー、佐伯常務が話し合って、いまのところ球団職員で採用する予定だ。選手契約でもらっていた年棒三百十万円(推定)も、十二月で切れる。「給料のほどんどは治療費で消えました。本当に神にすがりたい気持ちです」-。引退届を出した菅原の言葉は弱々しかった。