ミハエル・シューマッハとは?

ミハエル・シューマッハとは

ミハエル・シューマッハ

ミハエル・シューマッハ(, 1969年1月3日 - )は、ドイツの元F1ドライバーである。愛称はシューミ ()、マイケル (Michael)。日本語表記は「ミハエル・シューマッハー」やドイツ語の発音に近い「ミヒャエル・シューマッハ」もある。

ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオン。最多優勝91回、チャンピオン獲得7度などF1の主な個人記録を更新した。2006年に一度引退したが2010年に復帰し、2012年に再度現役を退いた。

その冷徹で正確なドライビングから、日本では「ターミネーター」、日本国外では「サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ在籍期には、フジテレビのF1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。

6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハはウィリアムズなどで6勝を挙げた元F1ドライバー。息子のミック・シューマッハも現役のレーシングドライバーである。

1969年1月3日、ドイツノルトライン・ヴェストファーレン州ケルン近郊のフュルト・ヘルミュールハイム (-)で生まれる。4歳の時、煉瓦職人の父から贈られた“原動機付きペダルカー”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したため、心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。このカート場は1961年に事故死したF1ドライバー、ヴォルフガング・フォン・トリップスの家族が所有しており、父はそこの管理を兼業するようになった。

1975年には次男のラルフ・シューマッハが誕生。1980年、カート場の移転にともない一家はケルペン・マンハイム (-) に転居し、父はカート場の管理人とレンタルカート屋、母はカート場の軽食スタンドで働くようになった。

1983年に国内カートライセンスを取得し、1984年・1985年にはドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツとヨーロッパのカートチャンピオンとなった。彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。だが、恩師ユルゲン・ディルク(F1ドライバー時代にはファンクラブ会長を務めた)の支援により、十分な環境とは言えないもののレースを続けた。
中学卒業後は自動車販売店に入社し、整備士の資格を取得する。1988年、ジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・ケーニッヒとフォーミュラ・フォードに参戦。ドイツF3選手権に参戦するWTSレーシングのオーナー、ウィリー・ウェーバーに見初められ、マネージメント契約を結ぶ。

ドイツF3では1989年に2勝を挙げ、チャンピオンのカール・ヴェンドリンガーに1ポイント差のシリーズ3位。1990年には5勝してチャンピオンとなった。同年のマカオGPでは本命と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下して優勝した。その1週間後、日本の富士スピードウェイで初開催されたインターF3リーグにも参戦し、F3の国際レースで2週連続優勝した。

1990年、メルセデス・ベンツが立ち上げた若手育成プロジェクトにカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェンとともに選出された。3名は世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) のザウバー・メルセデスチームに加わり、ベテランのヨッヘン・マスのパートナーとして交代で参戦した。シューマッハは4戦出場してドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコで初優勝した。

1991年はスポーツカー世界選手権 (SWC) に8戦出場し、ル・マン24時間レースでは5位入賞。ワークス最後のレースとなった日本(オートポリス)ではヴェンドリンガーと組んで優勝した。ドライバーズ選手権は9位。これらの好走がTWR・ジャガーチームのトム・ウォーキンショーとロス・ブラウンの目に留まり、同年のベネトン移籍に繋がることになる。また、この2年間にはドイツツーリングカー選手権 (DTM) にも数戦出場したほか、1991年には全日本F3000第6戦・菅生にスポット参戦し2位を獲得した。

メルセデスはF1にワークス参戦を予定しており、シューマッハも起用される予定だったが、メルセデスの計画修正(ザウバーにエンジンのみ供給)によりこの時は実現しなかった。
当初はスポット参戦後も全日本F3000への継続参戦を予定していたが、1991年8月、ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデスが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、第11戦ベルギーGPでガショーの代役として同チームからF1に初参戦した。

ベルギーGPの週末、シューマッハは自ら持ち込んだ折り畳み自転車でサーキットを周回し、独力でスパ・フランコルシャンのコースを学習した。
シューマッハは初の予選で7位に入り、F1関係者に強い印象を与えた。予選7位という結果はジョーダンにとってシーズンの最高順位タイであり、11年目のベテランであるチームメイトのアンドレア・デ・チェザリスを上回った。F1ジャーナリストのは予選後の報告で、「ドイツ人のモータースポーツ・ジャーナリストは皆、この『ステファン・ベロフ以来最高の才能』について話している」と述べた。7番グリッドからスタートした決勝レース、シューマッハはクラッチの故障により1周目でリタイアした。

決勝は0周リタイアに終わったものの大型ルーキーとして注目され、FOCA会長バーニー・エクレストンの根回しでベネトンとメルセデスが接触した。ジョーダンは訴訟を起こして抵抗したが、結果的にロベルト・モレノとトレードする形でシューマッハのベネトン加入が決定した。移籍後最初のイタリアグランプリでチームメイトのネルソン・ピケを上回って5位初ポイントを獲得し、続く2戦でも6位に入賞した。第15戦日本GPでは、予選中130Rで大クラッシュを喫した。この時は何事もなく再出走したが、数年後検査した際、脊椎数箇所を損傷していたことが判明した。

シーズン開幕前、 翌1993年からメルセデスの支援下でF1に初参戦するザウバーは、シューマッハの契約にはメルセデスがF1に参戦する際にそのドライバーとなることを義務付ける条項が含まれていると主張した。最終的にはシューマッハが1993年以降もベネトンにとどまることで合意がなされ、ザウバー代表のペーター・ザウバーは「(シューマッハは)我々のためにドライブしたくないと言っていた。ならば、それを強いることはできなかった。」と語った。

1992年のF1は、強力なルノーエンジンに加えセミオートマチックトランスミッションおよびアクティブサスペンションを搭載するウィリアムズ・FW14Bによって支配された。シューマッハが乗るベネトン・B192はFW14Bと比べて旧来型のマシンだったが、1992年メキシコグランプリでは3位に入り、初めて表彰台に立った。ドライからウェットへ移行する難しいコンディションとなった第12戦ベルギーGPではウィリアムズ勢を戦略で破り、デビュー18戦目でF1初勝利を達成した。(これはマニュアル・シフト車の最後の勝利でもあった)初優勝の地であるスパ・フランコルシャン・サーキットについて、シューマッハは2003年に「飛び抜けて好きなコース」と評価している。1992年、シューマッハは53ポイントを獲得してドライバーズ選手権で3位となり、2位のリカルド・パトレーゼとは3ポイント差だった。

過熱するハイテク競争の中でB193Bの信頼性不足により、決勝は表彰台に登るかリタイアという両極端な成績の一年になった。マクラーレンがフォードエンジンにスイッチしたため、セナとの対決はフォードワークスの主導権争いという側面もあった。開幕戦南アフリカGPではセナを追撃中にセナの強引なブロックに遭い単独スピンした。モナコGPではトップ独走中にマシンが炎上してリタイアし、セナが優勝した。

シーズン中はなかなか勝利に手が届かなかったが、第14戦ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップに立ち、アラン・プロストの追撃をしのいでF1通算2勝目を獲得した。ランキングは前年より1つ下げ選手権4位で終えた。

シーズン、シューマッハは自身初のドライバーズタイトルを獲得したが、この年のF1はサンマリノGPで起きたラッツェンバーガーおよびセナの死亡事故‎と、いくつかのチーム(特にシューマッハが所属するベネトン)のマシンが技術規定に違反していたという疑惑によってダメージを受けた。

ベネトンの1994年型マシンであるB194は、設計者ロリー・バーンがのちに「ベネトン時代の最高傑作」と評した車であり、車両特性もシューマッハーのドライビングスタイルに合致していた。シーズンが開幕すると、シューマッハは最初の7戦中6勝を挙げた。唯一勝利を逃した第5戦スペインGPでもギアボックスの故障で5速ギア以外使えなくなるまでは首位を走行し、トラブルにもかかわらず2位に入った。

第3戦サンマリノGP後、ベネトン・フェラーリ・マクラーレンの3チームはFIAによる電子制御の使用禁止に違反しているとの嫌疑で調査を受けた。当初ベネトンとマクラーレンは使用しているソフトウェアのソースコードの提出を拒絶し、のちにFIAが提出されたソースコードを検証したところ、両チームのソフトウェアには隠された機能があることを発見したが、それらがレース中実際に使用されたと証明することはできなかった。ベネトンとマクラーレンは当初調査に協力しなかったとして10万ドルの罰金を科された。マクラーレンのソフトウェアに見つかった自動シフトチェンジ機能は合法と判定された一方で、ベネトンのソフトウェアには明確に禁止されている「ローンチコントロール」的な機能(ドライバーが完璧にスタートを決めること可能にする)が見つかったものの、このソフトウェアが使用されたことを示す証拠は存在しなかった。

第8戦イギリスGPでは、フォーメーションラップでヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったため25,000ドルの罰金を課された。さらに、7月26日に行われたFIAの世界モータースポーツ評議会に召還され、そこでイギリスGPの失格と2レースの出場停止、ベネトンチームへの50万ドルの罰金という厳罰が科された。ベネトンはこの出来事がレーススチュワードとチームの間のコミュニケーション不良の結果であると主張した。ベネトンは評議会の処分を不服として抗議を行い、その聴聞が8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(ドイツGP、ハンガリーGP、ベルギーGP)への参戦が認められた。ベルギーGPでは1位でゴールしたものの、スキッドブロックの規定違反により再び失格となった。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には出走することができなかった。ベルギーGPの失格を受け、ベネトンはシューマッハがスピンした際に縁石に乗り上げたことでスキッドブロックが削れたものであるとして裁定に抗議していたが、FIAはブロックの削れ方を理由に抗議を却下した。

シューマッハとベネトンがトラブルに見舞われる中、選手権2位のデイモン・ヒルは1位シューマッハとのポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPを迎えた時点でのシューマッハのリードは1ポイントまで減少していた。オーストラリアGPの36周目、首位を走るシューマッハはコースを外れてアウト側のガードレールに接触し、直後に付けていたヒルはその間に追い抜きを試みたが、コース上に戻ってきたシューマッハ車と接触して2台共にリタイアする結果となった。両者リタイアによってチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸したが、この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得した。
シーズン、シューマッハはドライバーズタイトルの防衛に成功し、チームメイトのジョニー・ハーバートと共にベネトン・フォーミュラに初のコンストラクターズタイトルをもたらした。ドライバーズ選手権を連覇したことにより、シューマッハは(当時)史上最年少の複数回のドライバーズチャンピオンとなった。

シーズン序盤は単独クラッシュを喫するなど出遅れたが、第5戦スペインGPでの勝利からペースを掴み、第9戦ドイツGPでは母国初優勝を果たした。第15戦パシフィックGPにて2年連続のドライバーズチャンピオンを確定させた。最終的に17戦中9勝を挙げ、ナイジェル・マンセルが1992年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並んだ。ヒルとはこの年もイギリスGP・イタリアGPで接触して両者リタイアとなった。ベルギーGPでは予選16位から路面状況を読み取って優勝したが、ヒルへのブロックで執行猶予付き出場停止処分を受けた。

シーズン中にベネトンとの契約を延長しないことを表明し、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの移籍が噂されたが、長くタイトルから見放されている名門フェラーリへの移籍を選択した。
前年度のチャンピオンとして、シューマッハはカーナンバー「1」とともにフェラーリへ加入した。ルカ・ディ・モンテゼモーロ社長とジャン・トッド監督の下、「今年(1996年)はチャンピオン争いは不可能だが、年間3勝を目標にする」としてチームの再建に取り組んだ。

シーズン序盤のフェラーリ・F310には信頼性の問題があり、シューマッハは全16戦中6戦で完走できなかった。それでも雨のレースとなった第7戦1996年スペイングランプリでは4位以下の全ドライバーを周回遅れにして勝利し、フェラーリでの初優勝を果たした。このレースでシューマッハは19週目に首位に立つと、難しいコンディションの中ライバルよりも5秒速いラップタイムで周回し、後続を引き離した。スペインGPでのシューマッハのパフォーマンスを評して、スターリング・モスは「それはレースというよりも、素晴らしい才能の実演というべきだった」と述べた。

第9戦フランスGP予選でシューマッハはポールポジションを獲得したが、レース開始前のフォーメーションラップでエンジン故障が発生しリタイアした。その後、第13戦ベルギーGPと第14戦イタリアGPでも勝利し、公約通りシーズン3勝を挙げてティフォシの信頼を得た。シューマッハは1996年のドライバーズ選手権を3位で終え、フェラーリはベネトンを上回ってコンストラクターズ選手権で2位となった。

ベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発に拍車がかかり、ウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴと激しいチャンピオン争いを展開した。第16戦日本GPでシーズン5勝目を上げ、ヴィルヌーヴを1ポイントリードして最終戦ヨーロッパGPに臨んだ。

ヨーロッパGPではスタートからレースをリードしたが、48周目にヘアピンでオーバーテイクを仕掛けてきたヴィルヌーヴをブロックして接触。コース外にはじき出されてリタイアとなり、3位でゴールしたヴィルヌーブに逆転されてタイトルを逃した。このブロックに関して、FIAはシーズン終了後の11月11日にシューマッハを召喚。重大な過失と判定し、1997年のチャンピオンシップからシューマッハを除外し、ドライバーズランキング2位を抹消した。なお、ヴィルヌーヴとは偶然にもこの年に一度も同じ表彰台に立つことはなかった。
モンテゼーモロが「王座奪回の年」と宣言。ロリー・バーンがゼロから設計したニューマシンF300を、ジャン・トッドの指揮でテストも十分に重ね、満を持して臨んだが、開幕2戦はマクラーレンのミカ・ハッキネンが連勝。

それでも前年に引き続きエディ・アーバインのサポート、上方排気システム及びロングホイールベースへの変更をしたF300及び前輪をワイドトレッド化したグッドイヤータイヤの進化、ロス・ブラウンの戦略が結集され、シューマッハの成績も向上。こうした後押しを受けてポイント首位のハッキネンと熾烈な争いを展開し、フェラーリ地元である第14戦イタリアGPでは ポールトゥーウィンで6勝目をあげ、ポイントでも80対80と同点で並んだ。第15戦ルクセンブルクGPと最終戦日本GPでは共にポールポジションを取り、いよいよ王座奪回かと期待させたが、両決勝ではハッキネンに逆転優勝を許し、2年連続最終戦でタイトルを逃した。

カナダGPやハンガリーGPで作戦を遂行するために果敢な走りを見せた反面、モナコGPではアレクサンダー・ヴルツ(ベネトン)とペドロ・ディニス(アロウズ)への接触とヌーベルシケインでスピン、オーストリアGPではハッキネンと首位争いしていた17周目のヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウトと、ミスが目立ったシーズンでもあった。
第3戦サンマリノGP、第4戦モナコGPで勝利し、シリーズをリードしていた。しかし、第6戦カナダGPではトップ走行中に「チャンピオンズ・ウォール」と呼ばれる最終シケインの壁に激突してリタイア。ハッキネンから8ポイントのビハインドで第8戦イギリスGPを迎えた。

スタートで出遅れたシューマッハはハンガーストレートでアーバインをパス。しかし、ストウ・コーナーへのアプローチで減速できず、コースアウトしてタイヤバリアに真っ直ぐ突き刺さった。ブラックボックスの記録では衝突時の速度は107km/h、マシンには瞬間的に50Gが懸かっていた。
シューマッハはモノコック内部に足を強打し、ヘリコプターで病院に緊急搬送され手術を受けた結果、「右足の脛骨と腓骨の骨折」により自身のレースキャリアで初めての負傷欠場に追い込まれた。事故状況についてシューマッハは「どんどんブレーキが効かなくなった。なんとかスピードを落とそうとしたが駄目だった」と述べ、病院で自身がクラッシュする瞬間のレースの映像を見て「(今自分が)生きていられるのは幸運」と語った。フェラーリは事故原因を「リアブレーキキャリパーのトラブル」と発表した。

なお、このレースはスターティンググリッド上で動けない車を撤去するためスタート15秒後にレース中断が決定されており、シューマッハの事故は無線連絡で各車がスピードを緩めている最中に発生した。フェラーリピットからの伝達が事故の3秒前と遅れたことに加え、シューマッハがアーバインとのバトルに集中していてコースサイドの赤旗を見落とした可能性もあった。この時、シューマッハは「アーバインをパスするから、道を開けてくれ」と無線で言っていた。

残りの全レースを欠場するという選択肢もあったが、自身の代役としてドライバーズタイトルを争う事となったアーバインのサポートと、チームのコンストラクターズタイトル獲得のため、6レース欠場後に第15戦マレーシアGPから、自身のF1キャリアで初となる「セカンド(ナンバー2)ドライバー」として復帰した。予選ではポールポジションを獲得し、決勝でもアーバインに次ぐ2位に入り、「ナンバー2ドライバー」としてアーバインをサポートした。最終戦日本GPでもポールポジションを獲得し、決勝ではスタート時にミカ・ハッキネンのブロックをすることができず、2位入賞。アーバインのドライバーズタイトル獲得には最終的には貢献できなかったが、フェラーリのチームとして、1983年以来となるコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。

1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、代わりにF1-2000の開発を進めていったことが功を奏し、開幕3連勝を含めて8戦5勝のハイペースでポイントリードを築いた。

しかし、第9戦以降3連続リタイアを喫し、ハッキネンとの熾烈な戦いにもつれ込む。第13戦ベルギーGPではハッキネンに「世紀のオーバーテイク」を決められて敗れたが、続くイタリアGPから連勝し、第16戦日本GPでのマッチレースを制して自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーではのジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。

イタリアGPではセナの勝利数(41勝)に並び、このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続ポール・トゥ・ウィンを記録した。
プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟ラルフ、2位・兄ミハエル)。なお、ミハエルは開幕戦の共同記者会見で「僕はもうグランプリ・ドライバーとして(これ以上)成長することはないと思う。これから先も勝てるとすれば、それは(自分自身が成長したわけではなく)フェラーリが進化、成長することを意味する」と印象的な発言をした。

ファンジオに並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台(決勝では全レースで1位・2位・3位のいずれかでフィニッシュ、リタイアは一度も無し)と言う離れ業を成し遂げた。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。

シーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、マクラーレンのキミ・ライコネンやウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。第4戦サンマリノGPの決勝日に母を亡くした。このレースでポール・トゥ・ウィンを果たしたが、記者会見ではミハエル・シューマッハの代理でインタビューに応じたジャン・トッドはミハエルのことを「ドライバーとしてじゃなく、1人の男としてすごいことを成し遂げてくれたと思う」と答えた。最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の通算1,000ポイントを獲得した。
前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の鈴鹿が弟のラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。

新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。サンマリノGPで首位を走っていたフェルナンド・アロンソを追い回すなど見せ場を作ったレースもあったが、優勝はおろか表彰台にすら上がれないレースが続いた。ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。ハンガリーGPではシーズン唯一のポールポジションを獲得したが決勝はライコネンに逆転され2位。しばしば表彰台に上ることはあったが結果的にはアメリカGPの1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座をアロンソに明け渡した。
開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がセナと並び、第4戦サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんでフェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。同年のフランスGPにおいて68回目のポールポジションを獲得し、決勝では優勝とファステストラップを記録して結果的にハットトリックを果たした。

第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたキミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。

次の第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦日本GPでは、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番グリッドからスタートすることとなった。決勝ではジャンカルロ・フィジケラと接触、左リヤタイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でチェッカーを受けた。結局アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。

2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督であるジャン・トッドや、ドライバーのフェリペ・マッサとライコネンなどを見守ることとなった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハーは祝福の電話をライコネンにかけた。この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦のスペインGPであった。モナコGPでは、前年までのライバルだったフェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツのフランクフルトモーターショーではフェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハはブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。

スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちというタイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、このことで2輪レースに対する興味が湧いたのか、2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダ・CBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。

2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。同年のシーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。

その後、2009年用のスリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々F2008を走らせている。

2009年のハンガリーGP公式予選走行中、フェリペ・マッサが事故により頭部を負傷、復帰まで時間がかかることがわかった。その代理としてヨーロッパGPからF1に復帰すると発表されたが、2月のバイクレースで転倒した際に負った首の痛みのために万全の体調で臨めないため、ドクターストップが掛かり復帰を断念した。
2009年12月23日、メルセデス・グランプリから4シーズンぶりにF1に復帰することが発表された。3年契約を結んでいる。

開幕戦から第4戦中国GPまで、チームメイトであるニコ・ロズベルグに予選・決勝ともに負けていたが、第5戦スペインGPでシューマッハの要望に応えた改良型のシャシーが投入されると初めて全セッションでチームメイトを上回り、決勝でも今シーズン自己最高となる4位入賞を果たした。しかし、それ以降ロズベルグが改良マシンの特性を掴んでいくとレースでは再びロズベルグの後塵を拝するレースが増えた。第8戦カナダGP以降は、7戦中6戦で予選Q2で脱落しており、速さを取り戻せずに苦戦が続いた。

シューマッハがF1にデビューした当初のチーム代表エディ・ジョーダンは、再三に渡ってシューマッハは解雇されるべきだと主張してきたが、第15戦シンガポールGP後には成績内容があまりにも悪いため、チーム代表のロス・ブラウンからも「ミハエルでなければ解雇する」と言われた。
このようにさまざまな方向からの批判が強まっているが、シューマッハ自身はカムバックを後悔したことはなく、自信を失ったことは一度もないと述べている。

第16戦日本GPでは、決勝で非凡な走りを見せ徐々にではあるが復活の兆しを見せた。さらに第17戦韓国GPではウェット状態でセーフティカー先導でスタートし、4周目で赤旗中断となる荒れたレースであったがその間にチームが機転を利かせてマシンセットアップを雨用に変更し、レース再開直後、晴れ用セットの状態であったマクラーレンを操るジェンソン・バトンをオーバーテイクし4位でフィニッシュした。しかし最終戦アブダビGPではレーススタート直後にスピンを喫し、後続のリウッツィが避けきれずに接触、1周も走ることができずにリタイアという不本意な結果で最終戦を終えた。

結局フル参戦したシーズンの中で初の未勝利及び未表彰台に終わり、142ポイントを獲得したチームメイトのロズベルグに対し、自身は72ポイントと倍近い大差を付けられ、期待外れな復帰初年度となった。ランキングは9位。

2011年もメルセデスから参戦。チームメイトのロズベルグが開幕から毎戦で予選Q3に進出したのとは対照的に、開幕から3戦連続で予選Q2敗退が続いた。

第4戦トルコGPでは予選こそ今期初のQ3進出を果たしたものの、決勝レースでは全くペースが上がらずに次々とオーバーテイクされ、ペトロフにインを突かれた際には幅寄せした挙句に接触するミスを犯し、結局ポイント圏外でレースを終えた。レース後には、「レースが楽しくない」とモチベーションの低下を感じさせる発言をしたことが物議を醸した。

第6戦モナコGPでは今期初めて予選でチームメイトのロズベルグを上回ったが、決勝はマシントラブルでリタイアに終わった。

第7戦カナダGPは、雨の中断後2位走行という目覚ましい走りを見せた。結果は復帰後タイの4位フィニッシュ。表彰台まであと一歩届かなかったが今後の期待が高まる走りだった。

第12戦ベルギーGPでデビュー20周年を迎え、ヘルメットのデザインを変更した。予選では、第1セッションでピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突、ノータイムで終えたことにより最後尾の24位からのスタートになった。決勝では19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュ。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントしている。

第1戦オーストラリアGPと第2戦マレーシアGPではそれぞれ予選で4位と3位になり復帰後自己最高位グリッドを獲得したが、決勝ではそれぞれリタイヤと10位に終わっている。

第3戦中国グランプリでは、予選でチームメイトのロズベルグに続く2位とフロントローを独占するが、決勝ではピットストップでのタイヤ交換ミスによりコース復帰後すぐにマシンを止めリタイアとなった。

第6戦モナコGP予選では、復帰後自身初のポールポジションを獲得するが、第5戦スペインGPでのペナルティの影響で決勝レースは6番手スタートとなった。

第8戦ヨーロッパGPでは混乱したレースを冷静に攻略し、3位表彰台を獲得した。(シューマッハが表彰台に登るのは2006年中国GP以来。)

第10戦ドイツGPでは6年ぶりにファステストラップを記録した。

第15戦日本GPにて2012年末をもって二度目の引退をすると記者団に発表した。第17戦インドGPでは、走行周回数においてバリチェロを抜き、歴代1位となった。

二度目の引退レースとなった最終戦ブラジルGPではレース序盤のパンクにより一時最後尾に落ちるものの、雨天のなか力強い走りを披露。このレースでドライバーズタイトル3連覇を決めたベッテルに続く7位入賞を果たした。

2度目の現役引退後の2013年8月、ドイツの投資会社社が、新たにシューマッハと2100万ユーロで7年間のスポンサーシップ契約を結んだことが報道された。

2013年12月29日、シューマッハは当時14歳の息子ミックと共にフランス南東部のスキー場でスキーを楽しんでいたが、2本のスキーコースに挟まれた未整備のコース外エリア(オフピステ)を滑走中、シューマッハは転倒して岩に頭を打ち付け、ヘルメットを装着していたにもかかわらず深刻な頭部外傷を負った。治療を担当した医師によれば、ヘルメットがなかった場合シューマッハは死亡していた可能性が高い。負傷したシューマッハはヘリコプターでスキー場からに搬送され、2回の外科的処置が施された。

シューマッハには外傷性脳損傷が認められたため、彼は人工的な昏睡状態に置かれ、2014年3月7日には担当医によって容体が安定していることが報告された。2014年4月4日、シューマッハの代理人は彼には「意識のある瞬間」があり、人工的昏睡からゆっくりと回復していることを報告し、3月にシューマッハの親族によって伝えられた「小さな明るい兆候」の存在を裏付けた。

2014年6月16日までに、シューマッハは意識を回復し、リハビリのためスイスのに転院した。2014年9月9日、シューマッハはローザンヌ大学病院を退院し、さらなるリハビリを行うため自宅に戻された。
2014年11月、元F1ドライバーのフィリップ・ストレイフによる情報として、シューマッハが「麻痺のため車椅子を使用している」こと、また「喋ることができず記憶障害がある」ことが報道された。2015年5月に公開されたインタビュー動画の中で、シューマッハのマネージャーであるサビーネ・ケームは、彼の容体が「負傷の深刻さを考慮すれば」徐々に改善してきていると述べた。

2016年9月、シューマッハ家の弁護士フェリックス・ダムはドイツの法廷で、シューマッハが「歩くことができない」と述べた。ダムの発言は2015年12月のドイツ誌『Die Bunte』による、シューマッハが「数歩だけ歩くことができる」という虚偽の報道を受けてのものだった。かつてフェラーリのテストドライバーを担当したルカ・バドエルは、シューマッハの妻・コリーナから定期的な面会を許されている数少ない人間である事を明かした上で「家族は周囲に秘密を保つ事を望んでいて、僕はご家族の意志を完全に尊重している。ご家族はマイケルのためにできる事すべてをしているんだ」と語っている。

そのキャリアにおいて様々なF1の歴代記録を塗り替えた、F1史上に残るドライバー。ベネトンに加入後、4シーズン目にチャンピオンを獲得した。フェラーリに移籍後には、ベネトン時代に一緒に働いたロス・ブラウン、ロリー・バーンらを招聘し、2000年には1979年以来のドライバーズチャンピオンをもたらした。シューマッハ加入前の数年にはシーズン1、2勝で過ごしてきたベネトンとフェラーリを、結果としてチャンピオンに導いている。特にフェラーリにおいては、移籍後から2006年に最初の引退をするまで毎年優勝を飾っており、1997年 - 2006年まで、数戦を負傷欠場した1999年と不調に終わった2005年を除く全てのシーズンでタイトル争いをしている。

チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。テスト無制限時代における贅を尽くしたデータ回収、スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に順位を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、2006年にチームメイトとして組んだフェリペ・マッサはその存在を否定している一方で、1995年にベネトンでチームメイトだったジョニー・ハーバートは自身の引退後に待遇差があったことを認める発言をしている(シューマッハはハーバートの全ての走行データを自由に見られるが、ハーバートはシューマッハのデータを見ることはできなかった)。エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった」と述べている。1995年サンマリノGPでは、シューマッハがリタイアした後、チームメイトのハーバートがレース続行中であったにも関わらず、チーム代表のフラビオ・ブリアトーレはサーキットから去った。1999年のイギリスGPでは事故を起こした際、命に別状はなかったにも関わらず、チームを指揮する立場のトッドが決勝レースを離れて手術に立ち会った。これらの出来事は、チーム内におけるシューマッハの立場を示している。一方で、シューマッハのフェラーリ時代最後のチームメイトであったマッサは「彼は常に僕に親切にしてくれたし、僕の先生だった」とも語っている。

他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否か見解が分かれるが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては公式に故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。引退後には、シューマッハ自身も「F1キャリアにおいて取り消すことができる場面があるとすれば、それはヘレスでしょう」と、“南ドイツ新聞 (Süddeutsche Zeitung)”のインタビューの中で語っている。これらの出来事に関しては、後にフェルナンド・アロンソが『F1史上最もスポーツ精神に反するドライバー』だと痛烈に酷評しており、デビッド・クルサードなどもこれに同調している。
2006年10月、インディペンデント紙のインタビューで、元F1ドライバーのニキ・ラウダ、スターリング・モス、ジャック・ヴィルヌーヴ、ハンス・シュトゥック、マーティン・ブランドルおよびF1ジャーナリストのデイヴィッド・トレメインの6人がシューマッハについて語っている。『英雄か、それとも悪人か?』という問いには、ラウダが「英雄」、シュトゥックも「もちろん、疑いなく英雄だ」と答えているのに対し、ヴィルヌーヴはシューマッハの本性が見えていないのが問題だ(すなわちこの問いには答えるまでもない)として彼の走法や人間性を酷評。そのほか、モスは「両方」、ブランドルは「英雄だが悪人の部分を持つ」、トレメインは「アンチヒーローと呼ぶのがいちばんいいだろう」と回答している。また『最も偉大なドライバーか?』との問いに対しては、ラウダは「YES」、モス、シュトゥックは他者との比較において「NO」、トレメインはライバルの少なさを理由に「NO」、ヴィルヌーヴ、ブランドルははっきり「NO」と回答している。

レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りや、再給油が認められていた頃は少ないガソリン量でスパートをかけるピット戦略で前に出ることが多かった。ロス・ブラウンとの二人三脚でのレース作戦は度々語り草になるほどである。

他人の走行に対するブロックは露骨で危険なものとして、非難の対象となることが多い。F3マカオGPでのハッキネンとの対決では、ストレートでスリップストリームからオーバーテイクにかかったハッキネンの進路をふさぎ接触、1995年のベルギーGPでは何度もラインを変えてデイモン・ヒルの進路を阻んで接触、1997年のヨーロッパGPでのジャック・ヴィルヌーブとの接触では、完全に前に出たヴィルヌーブのマシンのサイドポンツーンに、自身のマシンのフロントタイヤをぶつけている。復帰後の2010年ハンガリーGPでは、背後からホームストレートで横に並んだバリチェロをコンクリートウォール直前まで幅寄せし、危険な行為として次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。これに対してシューマッハ自身はレース直後に、「何も悪いことはしていない」とコメントしていたが、後に自身のホームページ上で非を認めるコメントを掲載した。シューマッハとは家族ぐるみの間柄であるジャン・アレジでさえ、「ドライビングスタイルには敬意を持っているが、レースに関してはアイルトンほど好きではない。アイルトンとはリスクを感じずにレースでバトルができる。しかし、ミハエルを本気で追い越そうとすると、彼はなんらかのことをやってきて、接触することになるからね。ミハエルは自分が抜かれるという事実を認めることができないから、ジグザグに走ったりするんだ。ジグザグ走行というものをF1に持ってきたのは、ほとんど彼と言っていい」と語っている。そのアレジ自身も実際に、1995年のオーストラリアGPでシューマッハと接触してリタイアを余儀なくされた経験がある。

開発能力は、ブリヂストンの浜島裕英によると「(タイヤに関して)他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい」等と語っている。浜島曰く「テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義とデビッド・クルサードくらいである」という。しかし「セッティングはうまくなかった」とチームメイトであったエディ・アーバインは証言し、「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから」と語っている。

オーバーステア傾向のセッティングを好むとされ、浜島裕英は「前がかなり食いついていないとダメなドライバー」と述べ、「他のドライバーがシューマッハのセッティングで走ると、みんなオーバーステアで乗れないと思う」と語っている。事実、シューマッハがフェラーリに移籍した後、入れ替わりでベネトンに加入したジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーは「シューマッハスペシャル」のピーキーなマシンに苦しみ、思うような結果が出せなかった。メルセデス時代はアンダーステア傾向のマシンに苦しんだ。

デビッド・クルサードは、「ミハエルは決してプレッシャーに強いタイプではない、彼は追い込まれると文句ばかり言う。人が文句を言う時は、何かに脅威を感じているからなんだ」と評している。現在のF1のレギュレーションは、シューマッハがフェラーリに乗っていた時代の常識とは完全にかけ離れており、どこからどこまでがシューマッハの実力であったのか疑問視するメディアは多い。

以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。シューマッハ自身はF1デビュー20周年(2011年)のインタビューにおいて2000年日本GPをベストレースに挙げ、その他のランキングには1994年ブラジルGP、1994年スペインGP、1995年ベルギーGP、1998年ハンガリーGP、2006年ブラジルGPを挙げている。
ミカ・ハッキネンとは1984年にフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権で初対決している。ハッキネンはスタートが悪かったうえに燃料系のトラブルを抱え3番手で頑張っていたが、イタリア人のロベルト・コルチアーゴに接触されてスピンしてしまい、シューマッハがこのレースで優勝した。このレースにはその後のCARTで走っていたポール・トレーシーも出場していた。以来F3、F1とバトルし続けてきた。彼らは親しい友人ではないかもしれないが、お互いに最大にして最高のライバルであるという考えは一致している。

ハッキネンは「出会った最初から、ミハエルは強力なライバルだと思ってきた。才能、スピード、モチベーションといったチャンピオンに必要な要素を全て兼ね備えた男だ。侮ることのできないドライバーであり、マシンドライブの腕前もチームとのやりとりも、偉大なドライバーと呼ぶにふさわしいと思っているよ。彼の性格を好む人はことのほか好むけど、そうでない人はむしろ徹底的に嫌いになるみたいだね。彼とワールドチャンピオンシップを競うようになってからは、できることならこんな速い奴が相手でなければいいと思ったけど、そうなってしまった以上は仕方がない。ミハエルとはフェアプレーに終始したし、互いに尊敬の念を失うこともなかった。彼のドライビングは危険だと言われるけど、僕たちのバトルはいつも自制していてフェアだった。1998年の第10戦オーストリアGP、第15戦ルクセンブルクGPでは長い間、テール・トゥー・ノーズ、ホイール・トゥ・ホイールの状態だったけど、ミハエルは全く危険なことなどしなかった。確かに彼はたとえ1インチだって譲らない情け容赦ない奴だが、それがトップドライバーというものだろう。他のドライバーの仕事を楽にするために、高給をもらっているわけじゃない。だから、自分自身との闘いを別にすれば、どんなレースでもまずミハエルに打ち勝たなければ、勝利はあり得ないこともわかっている」と語っている。

一方でミハエルも「ミカのことはとても高く評価しているし、尊敬している。彼とのバトルはコース上でいつも限界ギリギリで戦っていた。他のドライバーとはレース後も争いが続いてしまうことがあったりしたけど、ミカとのバトルは違った。彼はとても優秀で、誠実で、卓越したドライバーだった」と評し、自身の引退会見でも「過去16年のF1シーズンを振り返って、もっともタフな競争相手やライバルは誰を思い浮かべるか」の問いに、「ミカとは最初から最後まで素晴らしいバトルをしてきた。常に高いレベルの争いで、非道な部分がなく、純粋にレースをしていた」と答えている。このようにトップドライバーの確執が多い中ミハエルとミカは、出会った頃から引退までお互いを「最強の敵であり最高のライバルである」として認め合っていた。

デビュー当時のシューマッハは権威に楯突く生意気な若者とみなされ、アイルトン・セナら大物ドライバー達との間に摩擦があった。1992年の第3戦ブラジルGPではペースの上がらないアイルトン・セナに前を塞がれ、レース後「アイルトンの行為はチャンピオンに値しない」と批判。第8戦フランスGPのオープニングラップではセナに追突して、レース中断中にセナから説教された。その後ホッケンハイムリンクで行われたテスト走行でも、進路妨害をしたとしてセナと乱闘寸前になった。それでも、互いに主張しあうことでふたりの関係は良好になっていった。

1994年サンマリノGPでは、眼前でセナがコースアウトして事故死する場面に遭遇。至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けた。サンパウロで行われたセナの葬儀に参列しなかったことを批判されたが、それは何者かより「ブラジルに来たら殺す」という殺害予告を受けていたためであった。フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語り、タイトル決定後の記者会見では「チャンピオンを何としても獲得して、アイルトンに捧げようと誓っていた」と語った。

2000年イタリアGPのレース後会見では「これで勝ち星(41勝)がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と聞かれ、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん…」と語った後、突然号泣し始めて周囲を驚かせた。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた。

デイモン・ヒルに対しては自分と同レベルの才能を持っていると考えておらず、そのヒルが自分より優れたマシンをドライブすることが気に入らなかった。1995年の第8戦イギリスGPの接触では「ヒルは本来あそこにいるはずのないアマチュアだ」と言い、第11戦ベルギーGPではウェットコンディションで、ウェットタイヤのヒルをスリックタイヤのミハエルが抑え切り、レース後の記者会見でも公然とヒルを嘲り、第12戦イタリアGPの接触でもヒルのコクピットに歩み寄り、彼のドライビングに対する厳しい見解を告げたことで両者の嫌悪は一層深まった。ミハエルは「これら2件(イギリスGPとイタリアGP)とも前年の最終戦オーストラリアと同様に、わざとマシンをぶつけて遠慮しないヒルのドライビングの典型だ」と言い放った。一方のヒルは「公衆の面前でここまで侮辱されて、なぜ反駁しないのか」と尋ねられ「(反論することは)自分のスタイルではないからだ」とだけ答えた。実はミハエルはこのヒルのスタイルこそが気に入らず、ヒルには才能もなければガッツもないというのが、ミハエルの下した最終結論だった。ただし1997年のハンガリーGPでは自らポールポジションを取るも、この年のアロウズ・ヤマハを駆るヒルに予選3位からピタリと後ろに付けられ、次第にダイヤのブリスターに苦しみ出し、11週目に第1コーナーでヒルに抜かれ、その後もペースが伸びずに4位に終わっている(ヒルはその後も独走態勢に入るも、油圧トラブルでファイナルラップにジャック・ヴィルヌーヴに抜かれ2位に終わる)。

ヒルに対しては一片の敬意も抱いていなかったミハエルではあるが、常に限界でマシンをドライブするジャック・ヴィルヌーヴのことは高く評価すると同時に、自分と共通する精神を感じ取っていた。1996年の第15戦ポルトガルGPで、ミハエルを最終コーナーのアウトからオーバーテイクしたときには「ジャックがすぐ後ろに付いていることは知っていたが、仕掛けてくるとすればホームストレートだろうと思っていた。あんなところで仕掛けるドライバーがいること自体、驚きだったが、それが成功するなんて全く予想外だったよ。でも、あの行為は僕たちの間に互いを尊敬し合う気持ちがあったからこそ、惨事にならなかったのであって、幸運の結果に過ぎないことを忘れてもらっては困る。はっきり言って、危険極まるシチュエーションだったのだから」と語る。ミハエルの勝利への意志やステアリングを握ったときの完璧な献身などに、匹敵するメンタリティを持ったドライバーの一人がヴィルヌーヴであり、決して侮ることができないライバルであることはミハエルも認め、「2000年のライバルは?」という質問に対し、「ミカ・ハッキネン、ハインツ・ハラルド・フレンツェン、ヴィルヌーヴ」の三人を挙げている。また、「ヴィルヌーブはいつも僕を攻撃するけど、僕はお返しをしようとは思わないよ。だから僕らが友達になることはあり得ない。全く別の人種なんだから。だけど、ドライバーとしての彼は素晴らしく速い。予選でもレースでもね」とも語っている。

タイトル争いをする前にはフェルナンド・アロンソと一緒にサッカーを楽しむなど良好な関係を続け、ドライバーとしての速さも認めていた。しかし既述の通り、2006年のモナコGPの予選以降は、タイトル争いをしていることもあり、互いに批判し合うこともあった。スペインのラジオにおいて、シューマッハを「F1史上最もスポーツマン精神に欠けるチャンピオン」と酷評していた。それでもミハエルが引退を発表した時にアロンソは「彼は、F1の歴史においては比類のない存在だった。きっと、彼の記録は誰にも破れないはずだ。彼とのレースは非常に楽しかったよ。僕は彼ほど長く現役を続けることはないと思う」とコメントした。またアロンソが2015年に、最も厳しいライバルは誰か?という質問をされた際には、ミハエルの名前を回答している。

父ロルフと母エリザベートの間に生まれた長男で、元F1ドライバーのラルフ・シューマッハは実弟。両親は離婚しているが、ロルフが再婚後にもうけた異母弟もレーサーとなっている。

2003年サンマリノGP決勝の数時間前、母エリザベートが死去し、ミハエルは腕に喪章を巻き、ラルフは黒いヘルメットでレースに臨んだ。このレースでは前日の予選でミハエル・ラルフがフロントローを独占し、決勝でもスタートでラルフが先行。レース中盤まで兄弟でトップ争いを演じた。最終的にミハエルは優勝、ラルフは4位入賞を果たした。

妻はコリーナ・シューマッハ(旧姓ベッシュ)。コリーナはメルセデス・ジュニアチームのミハエルの同僚だったハインツ=ハラルド・フレンツェンの恋人だったが、フレンツェンとの関係が破局し、ミハエルに慰められるうちに交際するようになった。1995年、ふたりの結婚式がドイツ中部ので4日間に渡って行われ、結婚式最終日の8月1日にミハエルの地元ケルペンで入籍した。ペーターズベルクは中世の城を活かしたリゾート地で、小高い山の上の古城ホテルやレストランなどがある。ドイツきっての2人のF1レーサーを巻き込んだ恋の鞘当ては、当時のマスコミの格好のネタであったため、ペーターズベルクの山頂への道を一切シャットアウトして結婚式が行われた。

その後、1997年に長女ジーナ=マリア、1999年に長男ミックの2子を儲けている。ミックは2008年にカートレースデビューし、2015年にADAC・F4選手権に参戦。2016年はADAC・F4とイタリアF4選手権に参戦し両方とも2位の成績を収め、2017年はヨーロッパF3へステップアップした。

シューマッハ一家はドイツではなく、プライバシー保護(および税金優遇措置)のためF1ドライバーに人気のあるスイスに居住している。2007年にはジュネーブ湖湖畔に居住面積700平方メートルの新居が完成した。1996年から2006年まではウィンタースポーツを楽しむため、ノルウェーに別荘を持っていた。静かな生活を希望するシューマッハ家族のために、この別荘の持ち主の名前は長らく隠されており、ノルウェーの地元住民にもあまり知られていなかった。F1を引退した後、このノルウェーの別荘は売られ、その代わりにフランスのリゾート地クールシュヴェルに別荘を購入している。
本項ではシューマッハが樹立した記録を最初に更新または並んだドライバーのみ達成順に記載する。
下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)

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