元広島の藤井弘選手を知ってますか? 1963年 毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる

元広島の藤井弘選手を知ってますか? 1963年  毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる

匿名さん

元広島の藤井弘選手を知ってますか? 1963年 毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる。
最近までの目ざまし役に夫人の宣子(たかこ)さんだったが、どうしても起きなかった。
そこで宣子さんが考えたのは靖代ちゃんを使うことだ。
「パパを起していらっしゃい」ママの伝令だ。
「靖坊のかわいい声で起こされては、いくら眠くても起きないわけにはいかない。
でも十時はちょっと早すぎるぞ」それまで寝たいだけ寝ていた藤井は、奥さんのからくりを見破ったときは強く抗議したそうだが、宣子さんは受けつけなかった。
「ナイターでも午前一時には床につけるでしょう。
そうすれば十時に起きても九時間は熟睡できるはずです。
それ以上は寝てもムダです」早起きが今シーズン好調のバッティング(十日現在三割八厘=五位、打点23=三位)に結びついた。
十時起床はキャンプから帰ってから始まったが、それからは欠かさず毎朝食事前のトレーニングをつづけている。
ぐっしょり汗をかくまで庭でバットの素振りだ。
「まだもうひとつピンとこないものがあるが、一応三割を打っていられるのは早起き、つまり素振りのおかげでしょう」器用な選手ではない。
からだが堅く練習を積み重ねて初めてエンジンのかかる方だ。
このことは自分でも承知している。
「足がおそく、守備もまずい。
自分の生きる道は打つことしかない。
そのためには人と同じ練習ではダメなんだ」公式戦の始まる前、白石監督から「もし、おまえが昨年の不振(二割三分)から抜け出せないなら、一塁は横溝を使う」といい渡された。
これまでチームの中心打者として働いてきた藤井に、この言葉はカチンときたようだ。
「よし、意地でもクリーンアップを打って、一塁はだれにも渡さないぞ。
そのためには打点をかせがなければダメだ。
ここ一発を打てる打者。
監督の信頼はそこから始まるんだ」ムクムクとファイトがわいてきた。
九日の対中日戦ダブルヘッダー第一試合で、六回板東の速球を左翼席へ2ランしてとどめを刺した。
試合後、一番先に藤井に握手を求めたのは白石監督だ。
「うまく打ったぞ」前半、毎回走者を出して不安定だった池田も脱帽した。
「藤井さん、どうもありがとう」藤井は満足そうだった。
「チームのために全力をつくせば、それが自分の成績にもつながるんだ。
昨年のいまごろは本塁打を八本打っていたが、打率の方はサッパリだった。
ことしはまだ五本だが、ツユがあければ長いのをとばす自信はある。
とにかく、ことしは自分の記録を更新するチャンスだ。
本塁打二十五本、打率二割八、九分が目標だ。
三十四年は本塁打が二十本だった。
打率の方は二割七分が最高だったが、何年だったかな・・・」そばで宣子さんがいう。
「それは結婚した年の三十六年ですよ。
私との約束をすぐ忘れるのもムリないわ。
きょうの約束も忘れているんでしょう」「いや、覚えているよ。
練習が終わってから、祭りにいくことだろう」十一日からの対国鉄四連戦にそなえて十日の広島の練習はたっぷり三時間。
藤井を見ながら白石監督はこういった。
「下半身の堅いのも、腰の回転が鈍いのも、だんだんよくなっている。
これからは本塁打も多くなるだろう。
もちろん打率はいまのままでいけるさ」

知らなかったので調べました。
盈進商業高校卒業後、倉敷レイヨンに入社。
1954年に八幡製鉄から移籍の話があり、内密でグラウンドの見学に行くなどして藤井自身は乗り気となるが、同じ社会人野球のライバルチームへの移籍にクラレから猛反対を受ける。
この状況の中で広島カープから入団の打診があり、プロ野球ならやむなしとしてクラレも反対せず、八幡側も加藤喜作監督が白石勝巳監督の先輩だったことで了承し、1955年に広島カープへ入団の運びとなる。
一発強打の打撃力を買われての入団であったが、不器用でプロのカーブが全く打てず、長い二軍生活を送った。
その苦しみは他人の想像を遙かに超えており、遠征の帰路、船上から海に飛び込もうとしたほどであった。
それを通りかかった野崎泰一二軍監督に見つかり、「死ね、死んだつもりで頑張ってみろ」と諭され奮起する。
入団3年目の1957年に持ち前の長打力が開花し、三番・一塁手のレギュラーを掴む。
全試合出場を果たして17本塁打(リーグ5位)、62打点(リーグ3位)を記録し、オールスターゲームにも出場。
以降は中軸打者として1967年まで主にクリーンナップを務め、興津立雄・大和田明・古葉竹識らと共にチームの打撃陣を支える。
1963年には、キャリアハイとなる打率.280(リーグ12位)、20本塁打(リーグ7位)、80打点(リーグ5位)を記録した。
現役時代は金田正一を苦手としていたが、1960年の国鉄戦ではその金田から特大ホームランを放ち、チームの64イニング無得点にストップをかけた。
1961年7月16日には同じく金田から球団初の逆転サヨナラ本塁打も放っている。
1969年に引退。
引退後も広島に残り、二軍打撃コーチ(1972年 - 1977年)・一軍打撃コーチ(1978年 - 1983年)・二軍監督(1984年 - 1988年)を歴任。
中軸打者として活躍する一方で、反面、守備はあまり得意ではなかった。
一塁側に内野フライが上がると観客は静まりかえったと言う。
そこで見事にキャッチすれば大拍手、取り損なっても拍手と、とにかく素人臭い守備はコミカルなアクションとなって観客を魅了した。
平松政次をよく打ち"平松キラー"とも呼ばれた。
また"サヨナラ男"の異名を持ち、通算サヨナラ安打12本は球団記録となっている。
シーズンによって好不調の波が激しいのが特徴でもあった。
1958年9月19日、この当時巨人のルーキーだった長嶋茂雄が、一塁ベース踏み忘れにより本塁打を取り消される(記録はピッチャーゴロとなる)ということがあったが、この時に一塁を守っており、藤井が鵜狩道夫投手から送球を受け一塁塁審の竹元勝雄にアピールしたことでアピールプレイが成立、長嶋はアウトとなった。
後に長嶋を特集したあるラジオ番組で『長嶋がベースを踏まなかったのを確認した時に塁審と目が合ったが、彼も見逃してなかった』ということを語っていたことがあった。
1964年5月5日に、王貞治が5打席連続本塁打に挑んだときのラインドライブの打球を捕った一塁手でもあった。
通算1504試合出場 4343打数 1035安打 177本塁打 603打点 34盗塁 打率.238 オールスターゲーム出場:3回 (1957年、1958年、1962年) 通算1000試合出場 1964年8月18日(90人目) 背番号 5 (1955年 - 1969年) 54 (1972年 - 1974年) 77 (1975年 - 1988年)

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元広島の藤井弘選手を知ってますか? 1963年  毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる

匿名さん

元広島の藤井弘選手を知ってますか? 1963年 毎朝十時になると、ふとんを頭までかぶって寝ている藤井の上に一人娘の靖代(やすよ)ちゃんがのっかり「パパ」「パパ」とゆさぶる。
最近までの目ざまし役に夫人の宣子(たかこ)さんだったが、どうしても起きなかった。
そこで宣子さんが考えたのは靖代ちゃんを使うことだ。
「パパを起していらっしゃい」ママの伝令だ。
「靖坊のかわいい声で起こされては、いくら眠くても起きないわけにはいかない。
でも十時はちょっと早すぎるぞ」それまで寝たいだけ寝ていた藤井は、奥さんのからくりを見破ったときは強く抗議したそうだが、宣子さんは受けつけなかった。
「ナイターでも午前一時には床につけるでしょう。
そうすれば十時に起きても九時間は熟睡できるはずです。
それ以上は寝てもムダです」早起きが今シーズン好調のバッティング(十日現在三割八厘=五位、打点23=三位)に結びついた。
十時起床はキャンプから帰ってから始まったが、それからは欠かさず毎朝食事前のトレーニングをつづけている。
ぐっしょり汗をかくまで庭でバットの素振りだ。
「まだもうひとつピンとこないものがあるが、一応三割を打っていられるのは早起き、つまり素振りのおかげでしょう」器用な選手ではない。
からだが堅く練習を積み重ねて初めてエンジンのかかる方だ。
このことは自分でも承知している。
「足がおそく、守備もまずい。
自分の生きる道は打つことしかない。
そのためには人と同じ練習ではダメなんだ」公式戦の始まる前、白石監督から「もし、おまえが昨年の不振(二割三分)から抜け出せないなら、一塁は横溝を使う」といい渡された。
これまでチームの中心打者として働いてきた藤井に、この言葉はカチンときたようだ。
「よし、意地でもクリーンアップを打って、一塁はだれにも渡さないぞ。
そのためには打点をかせがなければダメだ。
ここ一発を打てる打者。
監督の信頼はそこから始まるんだ」ムクムクとファイトがわいてきた。
九日の対中日戦ダブルヘッダー第一試合で、六回板東の速球を左翼席へ2ランしてとどめを刺した。
試合後、一番先に藤井に握手を求めたのは白石監督だ。
「うまく打ったぞ」前半、毎回走者を出して不安定だった池田も脱帽した。
「藤井さん、どうもありがとう」藤井は満足そうだった。
「チームのために全力をつくせば、それが自分の成績にもつながるんだ。
昨年のいまごろは本塁打を八本打っていたが、打率の方はサッパリだった。
ことしはまだ五本だが、ツユがあければ長いのをとばす自信はある。
とにかく、ことしは自分の記録を更新するチャンスだ。
本塁打二十五本、打率二割八、九分が目標だ。
三十四年は本塁打が二十本だった。
打率の方は二割七分が最高だったが、何年だったかな・・・」そばで宣子さんがいう。
「それは結婚した年の三十六年ですよ。
私との約束をすぐ忘れるのもムリないわ。
きょうの約束も忘れているんでしょう」「いや、覚えているよ。
練習が終わってから、祭りにいくことだろう」十一日からの対国鉄四連戦にそなえて十日の広島の練習はたっぷり三時間。
藤井を見ながら白石監督はこういった。
「下半身の堅いのも、腰の回転が鈍いのも、だんだんよくなっている。
これからは本塁打も多くなるだろう。
もちろん打率はいまのままでいけるさ」

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