匿名さん
元阪急の牧憲二郎投手を知ってますか? 1976年 牧憲二郎投手(29)-熱心な野球ファンなら「高鍋高(宮崎)時代に甲子園で活躍、四十年にドラフト一位で南海に入団した、あの選手か」と、すぐにピーンとくる人もいるはずだ。
この二シーズン、阪急のバッティング投手としてV2に貢献した。
だが、シーズン終了後に牧を待っていたのは任意引退の通告だった。
たとえバッティング投手でも「もう一度マウンドに」というひそかな夢を持ちつづけてきた牧にとって、それは大きなショックだた。
普通ならスパッとプロ野球から足を洗うところだろうが、牧は阪急にとどまった。
「野球に未練がある。
選手でなくなったことは寂しいが、阪急の優勝のために役立ちたい」。
球団側の希望もあって専門のバッティング投手として再契約。
第二のプロ野球生活を歩き出した。
牧は南海に四年いて、四十五年に阪急に移籍した。
南海時代は0勝2敗。
阪急では四十七年に3勝3敗。
それ以外は故障で泣かず飛ばずだった。
入団して二年目に右ヒジを痛めたのが命取りとなって大器とさわがれながら大成しないまま十一年間の選手生活にピリオドを打った。
「一線でバリバリ投げていたのなら十一年も短く感じたでしょうが、私の十一年はヒジとの戦いで長かった」阪急は四十九年から野呂瀬、渡辺守、そして牧の三人を選手登録のバッティング投手にしていた。
この三人が「選手にカムバックする夢だけはいつも持っていた」といっている。
オレはバッティング投手だからと決して投げやりな気持ちにはならなかった。
そこには現役選手としての肩書があったからだった。
牧は野呂瀬、渡辺守よりも入団のいきさつからして、夢が捨てきれなかった。
四十七年には日本シリーズのマウンドに立っているとあればなおのことだった。
「バッティング投手は全力投球するわけじゃないし、だからたなみ全力で投げてみると、自分でもびっくりするような球が行くんですね、そんな時はオレもまだやれると、そう考えるんです。
いまの私には日本シリーズで投げたんだという誇りがある」バッティング投手を言い渡されたとき、牧は「二十七歳だったので別の就職口を探そうかと思った」球団にこのことを打ち明けたところ「重要な任務なのでそれなりの保証はする」ということだったので球界に踏みとどまった。
投手出身ならだれでも出来るというものではない。
バッティング投手としてのセンスが要求される。
牧はコントロール、球種ともバッティング投手として一級品だったのだ。
バッティング投手はただマシンのように投げまくるだけ。
時には一時間以上も投げ続けることもあるが、試合前の練習では20分~30分というのが常識。
一日に30分の仕事だと考えると楽なように感じられるが、バッターの調子をチェックしながらのピッチングはかなりの重労働だ。
「自分が調子のいいときなら、自由自在にコースに投げ分けることも出来るが、バッターが不調で私もコントロールが悪いときなどは気疲れする。
時間給なら高給取りですがね」と苦笑する。
Bクラスの待遇をしている。
巨人を破ってV2を達成したときの功労金はAクラス並みの分配だ。
牧がいまやりがいを求めているのは、阪急の縁の下の力持ちとして優勝に貢献することだ。
「渓間社長も理解があるし、上田監督も気を使ってくれる。
監督からご苦労さんと声をかけられると、その日の疲れも吹き飛んでしまいますね」-俊子夫人と結婚して七年になるが子供はまだいない。
八年ぶりに正月を故郷の延岡で迎える。
心の片すみにある選手への未練を断ち切るためかもしれない。