元太平洋の藤井信行選手を知ってますか? 1974年 実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ

元太平洋の藤井信行選手を知ってますか? 1974年  実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ

匿名さん

元太平洋の藤井信行選手を知ってますか? 1974年 実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。
「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。
それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。
そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。
ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。
ある日、青木専務は担当コーチに質問した。
いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。
答えは「同じようなものです」だった。
「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。
九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。
思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。
チームの連敗は5で食いとめることが出来た。
そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。
翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。
スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。
堂々たるものだ。
「あいつはまじめな男。
野球に取り組む姿勢がいい。
十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。
この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。
もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。
山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。
当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。
ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。
左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。
太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。
湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。
しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。
「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。
やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。
四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。
母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。
「代打ではタマを見ている余裕がない。
その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。
「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。

知らなかったので調べました。
徳山工業高校を卒業後、協和醗酵工業へ入社。
1968年ドラフト会議では近鉄バファローズから11位指名を受けるも、プロ入りを拒否し協和醗酵工業へ残留。
ノンプロ時代、三年間で三割四分、13ホーマーをマークしている。
1969年ドラフト会議で、ロッテオリオンズから6位指名され入団した。
オリオンズでは控え外野手として起用され、1971年にはジュニアオールスターに出場した。
その後、1972年オフに、甲斐和雄との交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍。
1974年はシーズン中盤に一番打者に抜擢され、26試合に先発出場するが打撃面で結果を残せなかった。
1975年限りで引退した。
現在は、周南市で活動するソフトボールクラブチーム「周南クラブ」の会長をつとめる。
通算101試合出場 172打数 34安打 5本塁打 16打点 打率.198 背番号 30 (1970年 - 1972年) 26 (1973年 - 1975年)

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匿名さん

元太平洋の藤井信行選手を知ってますか? 1974年 実は最近の稲尾監督、故障者続出にネを上げながらも、一方では一つの楽しみを味わっていたようだ。
「故障者が多くてどうしてようもないんだが、逆に若い選手からみれば、飛び出すチャンスなんだ。
それをどうつかんでいくか・・・」伊原、米山、鈴木、楠城、若菜、真弓、川野、吉村・・・つぎつぎチャンスを与えてきた。
そのチャンスという釣り糸に、ガップリ食いついてきたのが藤井信。
ビュフォードの故障と東田の不振であいた左翼の穴。
ある日、青木専務は担当コーチに質問した。
いまの東田と藤井信を比べてバッティングはどちらが上か、と。
答えは「同じようなものです」だった。
「それなら藤井信を使ってみたら」この提案が藤井信を日の当たるところへ引き出た。
九日の近鉄ダブルヘッダー第二試合。
思い切って先発メンバー(左翼、六番)に入れたら、これが第一、第二打席の連続ホームラン。
チームの連敗は5で食いとめることが出来た。
そしてトップバッターに起用した十二日の日本ハム戦でサヨナラヒット。
翌十三日には逆転の二塁打と、貴重な安打を飛ばした。
スタメン出場7試合の成績は24打数8安打、本塁打2、二塁打2)4得点、8打点、打率・333。
堂々たるものだ。
「あいつはまじめな男。
野球に取り組む姿勢がいい。
十八日(日本ハム戦)だって、ヒットはなかったが、四死球で二度出塁しているからねえ。
この調子を続けてほしいなあ」と期待するのは鬼頭ヘッドコーチ。
もちろん、本人もうまくつかみ取ったレギュラーポジションを守り抜こうと必死。
山口県の徳山商からノンプロの協和酸酵で四番を打ち、四十五年ドラフト六位でロッテに入団。
当時二軍監督だった大沢氏は、そのパンチ力に目をつけ、その後、四十七年、ロッテの監督になるや、藤井信に一軍キップを与えようとした。
ところが、鹿児島キャンプで打球を追って選手同士の衝突。
左ヒザを骨折、せっかくのチャンスをつかみそこねた。
太平洋にトレードされた昨年も、外野フェンスにぶつかって、同じ左ヒザを痛めた。
湿布と電気治療を欠かさず、注射で薬を注入している。
しかし、藤井信は、ヒザのハンディに負けていない。
「ロッテの時にもチャンスがあったのに、自分でつかみきれなかった。
やっぱりぼくらは試合に出て打っていくらですからねえ」過去に苦い経験を持っているだけに、チャンスの意味を十分に知っている。
四十七年に父親が亡くなって、徳山市内に住む母親と妹への責任が重くなった。
母親のミサ子さんは「もう野球をやめて帰ってこい」とやかましく言ってきていたが、ここへきて、やっと「いや、野球は続ける」と胸を張って答えることが出来るようになった。
「代打ではタマを見ている余裕がない。
その点、スタメンから出場出来るとタマがよく見えますから、でも、いまは思いきって打っていくだけです」タイミングとグリップの構えに注意しているという藤井信に、田中久コーチも打撃の進歩を認める。
「左肩がすぐ開くので外角が打てなかったが、最近はよくなってきた」二十日の南海戦からは、藤井信に続けとばかり若菜らの若手がベンチ入りするー。

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