かなり有名な選手ですね。
少年時代は家業のサトウキビ畑で働く。
俊足を買われ、1947年にフェリントン・ハイスクールからアメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に入団。
しかし度重なる怪我に見舞われて現役続行を断念し、1950年に野球に転向。
マイナーリーグAAA級サンフランシスコ・シールズ傘下のC級ソルトレイクシティ・ビーズに入団した。
現役時代 1951年、前年松竹ロビンスにリーグ優勝を奪われ戦力強化を急いでいた読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日し、入団。
日本プロ野球では戦後初の外国人選手となった。
来日初打席では杉下茂からいきなりセーフティバントを決める。
1イニング3盗塁(日本タイ記録)や併殺崩し、本塁でのクロスプレーなどで本場仕込みの走塁技術を発揮し、同年シーズンは規定打数(現在でいう規定打席)不足ながら打率.354を記録した。
翌1952年にはリーグ2位の打率.344・38盗塁を残し、オールスターゲームにも初出場を果たす。
オールスターには以後8年連続で選出された。
この年までは、中堅手であった3番打者・青田昇の存在があり、与那嶺は主に左翼手を務めていたが、青田の移籍に伴って1953年以降は中堅手を務めるようになった。
同年シーズンもリーグ5位の打率を残し、1954年には打率.361という自己最高の成績で自身初の首位打者を獲得。
1955年もリーグ4位の打率を記録するなど活躍した。
1956年、球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打を放つ(その後に巨人で記録した選手は2003年の清水隆行、2007年の高橋由伸)。
同年は打率.338で2回目の首位打者となり、リーグ5位の13本塁打を残した。
翌1957年には打率.343で3回目となる首位打者を獲得し、MVPに選出される。
1958年からは左翼手になり、1959年まで2年連続でリーグ3位の打率を残したが、長打力が落ち始め、35歳のシーズンとなった1960年には打率.228と成績が急降下した。
同年オフに自由契約となり、中日ドラゴンズに移籍。
その巨人を相手にした1961年の開幕戦では9回に決勝ホームランを放つ。
中日では2年間プレーし、1962年に現役引退した。
巨人時代はベストナインを通算7回受賞するなどの活躍で第2期巨人黄金時代を支えた。
1番・与那嶺、2番・千葉茂は当時球界屈指の1・2番コンビであり、4番打者の川上哲治とは首位打者を争うライバルであった。
引退後 引退後は中日(1963年 - 1966年一軍打撃コーチ, 1970年 - 1971年ヘッドコーチ, 1972年 - 1977年監督)、東京・ロッテ(1967年 - 1969年一軍打撃コーチ)、巨人(1978年 - 1979年二軍外野守備・走塁コーチ、1980年一軍打撃コーチ)、南海(1981年一軍打撃コーチ、1982年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、西武(1983年二軍打撃コーチ、1984年一軍守備・走塁コーチ)、日本ハム(1985年一軍守備・走塁コーチ、1986年ヘッドコーチ、1987年 - 1988年一軍ヘッド兼打撃コーチ)で監督・コーチを歴任。
東京・ロッテコーチ時代は池辺巌・山崎裕之・有藤通世を育てた。
中日監督時代の1974年には古巣・巨人のV10を阻止し、1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。
外国生まれで解説者をつとめる自信がなかったこともあるが、この長期間切れ目のない指導者生活は異例であり、球界での厚い信望を示している。
1987年のオフにフジテレビ系『プロ野球ニュース』の企画「特別出前表彰式」に出演。
都内の自宅にて、やや困惑した顔で中井美穂から表彰状を受け取っていた。
1988年シーズンを最後にアメリカ合衆国へ帰国。
1994年、野球殿堂入り。
日本プロ野球で活躍したアメリカ人選手は数多いが、その中でも殿堂入りを果たしたのは現在与那嶺ただ一人である。
1998年にハワイ高校体育協会に20万ドル寄付した。
以降故郷のハワイ州で悠々自適の日々を送っていたが、2006年にプロ野球マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。
2009年にはオリックス・バファローズの招きで7月16日の対ロッテ戦で始球式をおこなったなど80歳を超えても元気な姿を見せたが、前立腺がんのため2011年2月28日にハワイ州ホノルルのシニアホームで死去。
満85歳没。
死去から3ヶ月後の2011年5月27日、東京都港区六本木の六本木教会(生前通っていた)にて『お別れの会』が催され、長嶋茂雄や王貞治、中日監督時代の教え子で1974年優勝時の投手だった星野仙一ら400人が参列し、故人との別れを惜しんだ。
王は「全てを教えてくれ、野球人生が大きく変わった。
与那嶺さんの加入は、プロ野球発展の節目の一つ」とスピーチした。
また楽天監督を務める星野は「ウォーリーは生きています。
私が『ウォーリーイズム』を楽天で作っています。
必ずいい地盤を築き、ウォーリーに報告したい」[9] と挨拶し、最後は盛大な拍手と大歓声に包まれた。
お別れの会は当初3月22日に千代田区麹町の聖イグナチオ教会で行う予定だったが、11日前に発生した東日本大震災により延期されていた。
出身地であるハワイ州のホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。
通算1219試合出場 4298打数 1337安打 82本塁打 482打点 打率.311 首位打者:3回 (1954年、1956年 - 1957年) MVP:1回 (1957年) ベストナイン:7回 (1952年 - 1958年) 日本シリーズ技能賞:1回 (1953年) 日本シリーズ最高打撃賞:1回 (1952年) 日本シリーズ本塁打王賞:1回 (1953年) 野球殿堂競技者表彰(1994年) オールスターゲーム選出:8回 (1952年 - 1959年) シーズンホームスチール:5回(1951年)※日本記録 通算ホームスチール:11回 ※日本記録 1イニング3盗塁 ※日本タイ記録 通算1000試合出場:1959年10月20日(52人目) 背番号 7 (1951年 - 1960年) 37 (1961年 - 1962年、1965年 - 1966年、1972年 - 1977年) 35 (1963年 - 1964年) 55 (1967年 - 1969年、1985年) 61 (1970年) 64 (1971年) 76 (1978年 - 1980年) 71 (1981年 - 1982年) 87 (1983年 - 1984年) 85 (1986年 - 1988年) https://www.youtube.com/watch?v=RJvVKkE5lus