匿名さん
元南海の上田卓三投手を知ってますか? 1966年 新チームの練習に参加して、毎日バッティング投手をかって出ている。
一人二十本ぐらい、十七、八人が入れかわりたちかわり打つ。
黙々と投げる上田。
バッターが打ちそこねて、帽子をとってあやまっても、打球がからだのすぐ横を通り抜けても、声も出さない。
まるでピッチング・マシンのようだ。
だが球は速く、二年生、一年生は相当苦しんで打っている。
速球を内外角あるいは高低にゆさぶるように投げているからだ。
「フリー・バッティングのピッチャーができない投手は一人前の投手になれないのではないですか。
西鉄の稲尾さんがコントロールをつけるのはバッティング・ピッチャーをやるに限るといってますね。
そのとおりだと思って毎日投げているのです」自分でも「コントロールとスピードには自信がある」といい切るのも決して強がりばかりではない。
毎日、考え考えて練習をくり返し、力をたくわえていった自信がいわせるのだ。
約一時間半をぶっつづけで投げる。
胸幅とシリだけは大きいが、ほかに肉らしきものはついていない。
ヒョロッとしたからだの、どこにこんな馬力があるのだろうか。
上田が馬力のあることを実証したのは昨年二年生の夏だった。
60㌔の体重が56㌔まで落ち、ビタミン剤を注射しながら予選を投げぬき野球部創立以来初めて甲子園出場をきめた。
そのうえ初出場で初の全国優勝までなしとげてしまった。
このとき上田は一人で投げ切った。
このタフさに原監督までが「驚いてしもうた」と舌を巻いた話は有名だ。
そして昨年の秋からことしの春にかけて自宅(大牟田市歴木=くぬぎ)近くの大開山(標高500㍍、傾斜40度)の片道3㌔の山道を毎朝走った。
「一ケ月ぐらいは歩き歩き登ったのですが、二か月ぐらいになると平気で走れるようになりました」という。
さらに「からだが一番こわばっている朝早く走る方が効果があると思って」朝ばかり走った。
上田の考え方は「自分にプラスになることならなんでもやる」ということだ。
原監督は「別に技術的なアドバイスはしなかった。
ただランニングだけはやかましくいっていた」が上田はすぐ実行に移したわけだ。
「野球は死ぬまでつづけたい」と大まじめでいうほど打ち込んでいる。
家庭環境も野球をするにはめぐまれていた。
長兄進一郎氏(31)=大牟田市役所勤務=は三池高時代、外野手として大牟田市から初めて甲子園に出たときの選手。
父親進氏(55)=三井グリーンランド・ゴルフ場勤務=と母親一子さん(51)は上田の試合にはたとえ練習試合でも弁当持参で応援にかけつけるほどの熱心さだ。
父親進氏は「六人兄弟の末っ子だし、甘えて育ったところもあるが、自分がこうと決めたらいちずに打ち込む性格だ。
日ごろはおとなしいが、いざとなったとき非常にがんばりを出す男だ」と自慢にしている。
「ことしの県大会で小倉工の打たれたのは全部カーブでした。
スピードボールには自信があるのですが、できるだけ体力をたくわえようと変にカーブを投げたのが失敗だった」と反省。
「これからスピードをつけるため、また山に登る」という。
「南海と西鉄が一位にランクしてくれたのが大きな励みになりました」最初は東海大に進学の気持が強かったが、最近「投手は高校から直接プロにはいった方が有利だ」と南海入りの決心をかためた。
しかしプロ入りは「一生の問題だから少しでも有利な条件ではいりたいです」変にいじけたところがなく、いいたいことははっきりいい、もらうものはちゃんともらうというちゃっかりした現代っ子でもあるようだ。
三池工・原監督「大学なら一年からでもすぐ通用する。
だがプロにいくとなればスピードは心配ないが、カーブにコントロールがないのが気にかかる。
どんどん走り込んでもっと下半身を鍛えることが必要だ。
からだはまだ細いが、いままで背たけだけ伸びてきたので、これからからだはできてくる」