「国民総参加のスポーツを目指す」とか「国民1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会に」とか

「国民総参加のスポーツを目指す」とか「国民1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会に」とか

匿名さん

「国民総参加のスポーツを目指す」とか「国民1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会に」とかというスポーツ関係者や政治家は『共産主義者』ですか?? 学校の『体育』の教科で行われるスポーツは「教育」ですが、それ以外の一般的な『スポーツ』は、数ある娯楽の中の1つです。
誰がどのような娯楽を楽しむかは、人それぞれの価値観によります。
また、娯楽である以上、好きになれる人と好きになれない人がいることは、当たり前です。
これだけ価値観が多様化し、娯楽が溢れている世の中で、「国民総参加」だとか「1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会」なんて、目指したって自由な社会では無理だと思います。
上記のように『スポーツ』は、娯楽の1つであって特別なものではありません。
それを特別扱いして、国民を何らかの形で参加させるようにしたり、国民生活に近付けてやらせようとしていくのは、特定の価値観の押し付けになるのではないでしょうか。
一例が学校の部活動ですが、文科省の学習指導要領では、教育課程(教科)ではなく、生徒の自発性に基づく「課外活動」と規定されているのに、全国6割の公立中学や、学習指導要領の適応外ですが2割の公立高校でも、生徒の部活動への参加義務化が行われていて、しかも、男子の場合、文化部の選択肢が極度に減らされていて、運動部に所属せざるを得ないことが少なくありません。
これは「子供や若者は『スポーツ』をやるものなんだ、『スポーツ』やスポーツ選手から『夢』を貰うものなんだ」という価値観を上から押し付けているのではないでしょうか。
『スポーツ』が娯楽の1つである以上、競技団体等がそれを好きになってもらえるように努力をして、プレーヤーとしてだけでなく、応援、協力を含めてやるかどうかは、1人1人の自発性に任せるのが、本来の『スポーツ』であり、好きになれる人となれない人がいるのは、仕方がありません。
また、特性として運動能力のない人はあまり上手くなれず楽しめません(ましてや、公立中高の部活動の半数で顧問を務めているような競技未経験の指導者では)。
『スポーツ』という統一した価値観を上から植え付けようとするのは、自由主義ではなく共産主義なのではないでしょうか??

ゆとりの落ちこぼれの、トンチンカンで恥晒しな主張は、いつまで続くのかね? 先の回答者が指摘している通り、共産主義と全体主義とは異なる。
ここが、君の主張の1つ目の間違い。
スポーツは娯楽という面だけではない。
精神衛生も含めた「健康・体力の維持」という面も大きく、それは中高年の年代では「スポーツする目的」に占める割合も高い。
政治家が推し進めたい、「国民総参加」や「1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会」というのは、娯楽の提供を主たる目的とはしていないのだよ。
国民1人1人が健康を「自分で維持出来る社会」を実現しようというのが主旨なのだ。
豊かな社会生活をおくる上で、精神面も含め健康であることは大切なことであり、それは、否定されることではないはずだ。
また、限られた国家予算の中で、肥大化し続ける医療費を抑制するためにも重要である。
政治家などの唱えることは、そのための環境を整えること課題として取り組もう、ということなのだよ。
しかし、先の回答で記した通り、GDP1位のアメリカを含め「国民全員が自分の好きなスポーツに、自由に参加出来る社会環境の国」など存在しない。
世間知らずのゆとり様は「自由な社会では無理」だと言っているが、たとえ価値観が統一された全体主義であろうと、環境が整わなければ不可能なことなのだ。
「子供に運動やスポーツは必要か?」という問いに対し、98%以上の親が「そう思う」と回答している。
いわば、例外の極々僅かな「統一された価値観」と言える。
しかし、その理想に反し、実際に「体育以外のスポーツを定期的に行っている子供」の割合は、半数くらいになってしまっている。
これは、「世帯収入が低いほど顕著」になり、世帯年収400万円以下と800万円以上とでは、20%ほどの開きがある。
このことから「スポーツをやってほしい・やらせたい」と親は願っても、収入がネックとなり「出来ない家庭」が多いということが分かる。
それだけでなく、年収400万以下の家庭と800万以上の家庭では、子供のスポーツにかける金額に約3倍もの開きがある。
運動やスポーツに必要性や有意性を感じるが、収入によってスポーツ・運動習慣に差が出ているのは「社会人も同じ」である。
「国民総参加」や「1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会」とは、誰もが必要性を感じている運動やスポーツを、誰もが出来る社会ということだ。
それはつまり、年収格差があってもスポーツが「出来る」社会環境の実現とも言える。
また突き詰めれば「誰もがスポーツが出来る収入」である「豊かな国」を築くことになるのだ。
君は「部活は使命を終えた」だの、「競技未経験者の指導者では上手くならない」と主張するが・・・・ 費用が少なくても競技が出来るという点で、部活動は非常に優位性が高いものである。
学校の体育館やグランド等の施設、専門知識は劣るが「指導の仕方の基本は学べている教師」を、そのまま使える部活は、校外施設に比べコストパフォーマンスははるかに優れているのだ。
より高度なスキルを受けたいのならば、専門的なプロの指導者を求めることとなるが、それには「受ける方の資質」「それなりの費用」も求められることになる。
中学の部活は、校外クラブに比べ金銭的負担も小さい、セレクションで落とされることもない。
より多くの子供にスポーツの機会を与えるためには、国土の狭い日本では不可欠なものといえる。
前にも述べたが、部活と校外クラブでは「役割と目的が異なる」のだよ。
ここまででも、君の主張の論点がズレてることは明白なのだが、落ちこぼれの間違いは根本的な部分にもある。
スポーツは、娯楽だけではない。
鍛錬・修練でもあり、それを目的としていることも多いのだ。
ようするに「スポーツやってる人が全て好きでやっているわけでない、楽しんでいるわけではない」のだよ。
それどころか、「苦しくて辛くて全然楽しくない」と思いながらも続けている人も多いのだ。
ではなぜ、好きでもない、楽しくもないのにやっているか?だが、それは「必要性に迫られて」「達成感を得るため」等々、人によって異なる。
成人のスポーツ・運動習慣がある人の意識調査では「健康維持・体力維持のため」との回答が約70%を占める。
必ずしも楽しんでいるわけではないのだ。
中高生の部活動では、練習嫌いの人の方が多いだろう。
上を目指す人であっても、というか上を目指している人ほど「練習は厳しくなる」ものだから、それを楽しめる人など極僅か。
苦しい、キツイ、止めたい、楽したい、そう思うのは全国レベルの選手も同じこと。
それでも止めないのは、「練習は嘘をつかない」の言葉があるように、頑張れば上達したり勝ったり等の達成感や満足感を得られるからである。
それを得たいがために、楽しくなくても続けている人が多いのだよ。
運動能力が低くても、練習すれば成果が出るのがスポーツというもの。
その練習量の必要量に個人差が大きいというだけのことである。
頑張れば何かしらの成果は得られる。
上手くならないのは、指導者の責任だけではない。
むしろ、個人の責任が大きい。
同じ指導者の下で差が出るのは、そのためである。
これは、残念ながら君のように、成果が出て達成感を得るまで、頑張らなかった人には分からんこと。
出来ないこと、やらないことを、自分の責任ではなく他人や環境の責任とするのは、落ちこぼれのすることである。
知性の無い者が、知性を語れるはずもない。
批判をする前に、自分の足らなさを自覚しなさいなw

義務化に関する回答

【動画】車・バイクニュース

【動画だから100倍楽しめる】YouTube車・バイク動画(すべて見る)

見て楽しむニュース

【動画だから100倍楽しめる】見て楽しむ車・バイクニュース(すべて見る)

【速報】車・バイクニュース

完全無料で話題の車・バイクニュースがすぐに読める(すべて見る)

【話題】今話題の動画

SNSで1000いいね!以上の話題の動画(すべて見る)

この質問に答えてみる

「国民総参加のスポーツを目指す」とか「国民1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会に」とか

匿名さん

「国民総参加のスポーツを目指す」とか「国民1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会に」とかというスポーツ関係者や政治家は『共産主義者』ですか?? 学校の『体育』の教科で行われるスポーツは「教育」ですが、それ以外の一般的な『スポーツ』は、数ある娯楽の中の1つです。
誰がどのような娯楽を楽しむかは、人それぞれの価値観によります。
また、娯楽である以上、好きになれる人と好きになれない人がいることは、当たり前です。
これだけ価値観が多様化し、娯楽が溢れている世の中で、「国民総参加」だとか「1人1人の暮らしとスポーツが密接な社会」なんて、目指したって自由な社会では無理だと思います。
上記のように『スポーツ』は、娯楽の1つであって特別なものではありません。
それを特別扱いして、国民を何らかの形で参加させるようにしたり、国民生活に近付けてやらせようとしていくのは、特定の価値観の押し付けになるのではないでしょうか。
一例が学校の部活動ですが、文科省の学習指導要領では、教育課程(教科)ではなく、生徒の自発性に基づく「課外活動」と規定されているのに、全国6割の公立中学や、学習指導要領の適応外ですが2割の公立高校でも、生徒の部活動への参加義務化が行われていて、しかも、男子の場合、文化部の選択肢が極度に減らされていて、運動部に所属せざるを得ないことが少なくありません。
これは「子供や若者は『スポーツ』をやるものなんだ、『スポーツ』やスポーツ選手から『夢』を貰うものなんだ」という価値観を上から押し付けているのではないでしょうか。
『スポーツ』が娯楽の1つである以上、競技団体等がそれを好きになってもらえるように努力をして、プレーヤーとしてだけでなく、応援、協力を含めてやるかどうかは、1人1人の自発性に任せるのが、本来の『スポーツ』であり、好きになれる人となれない人がいるのは、仕方がありません。
また、特性として運動能力のない人はあまり上手くなれず楽しめません(ましてや、公立中高の部活動の半数で顧問を務めているような競技未経験の指導者では)。
『スポーツ』という統一した価値観を上から植え付けようとするのは、自由主義ではなく共産主義なのではないでしょうか??

※未入力の場合「乗り物好き」として匿名で回答できます。







※未入力可能

全角10文字以上4000文字以内