元国鉄の井上佳明投手を知ってますか? 1953年 金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である

元国鉄の井上佳明投手を知ってますか? 1953年  金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である

匿名さん

元国鉄の井上佳明投手を知ってますか? 1953年 金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である。
八日現在5勝12敗と負越してはいるが、巨人から国鉄唯一の白星をあげ、阪神には2勝のうち1勝、名古屋には3勝のうち2勝を稼いでいる。
大きなモーションのサイドスローから独特のシュート、カーブをコントロールよく配合好調なときにはちょっと手が出ないほどの切れ味を持つ。
二枚腰のような粘り強いピッチングが彼の身上だが、性格も粘り強い。
ほめられたときは顔を赤らめているが、辛らつに批判されたときはまず素直に耳を傾けている。
しかしつっこんでいくと廿歳にしてはしっかりしすぎているほど自分を知り、粘り強くシンを通そうとする。
苦労がそうさせたのかもしれない。
教科書販売を業とする大阪商人の三男として生まれ、天王寺高校で野球を覚えた。
「もともと野球選手になろうとは思わず好きだからやっていた」のが廿五年高校三年のとき23勝3敗の好成績を収めてから、にわかに投球術に興味を深め、和歌山遠征のとき桐蔭の西村(現阪神・伊沢)と三振奪取を競ったり、近畿大会に全国選抜の覇者北野高校をシャットアウトしたりしているうちに野球への情熱がますますたかまっていった。
「元来上手投げだったのが、このころからしらずしらずのうちに横手気味に変わっていった」という。
卒業の廿六年、はじめて人生の岐路に立たされた。
このころの希望は「早大か慶大かに行きたかった。
そして学生野球の味をしりたかった」というがちょうどそのころ家業が次第に思わしくなくなったので「上の二人の兄も亡くなったし、ぼくが大学に入るよりはプロに入った方が両親を喜ばせる途だ」と思いさっそく野球部長に相談した。
家庭の事情を知っていた部長と担任教官は賛成してくれたが、プロの実情を知らない一部教官と一見ひ弱そうに見える彼の体を心配した教官たちは反対した。
両親はなにもいわず黙っていたというが「どうしていいかまったく途方に暮れてしまった。
しかし自分の部屋に閉じこもって考え込んでいたとき母がそばにきて家のことなどお前は心配しなくていいと励まされたとき、やっぱりプロに入ろうと決心がついた」という。
そして近くの氏神様に夜中こっそりと足を運び「一人前の投手になること」を誓ったそうだ。
それまでは小学校時代のニックネーム。
泣虫のカメ(佳明?)どおり弱い性格だったが、プロ入りを転機にすっかり気持ちを立て直し、ひたすらピッチングに身を打ちこんだ。
成田(天王寺鉄道局監督)宇佐美(現国鉄二軍コーチ)の指導を受けたが、高校時代の逸材もプロでは一介にすぎない。
コントロールとピッチング・フォームの矯正に苦しい鍛錬の明け暮れがつづいた。
しかし十七貫、五尺六寸の小柄ながら素質と鍛錬がものをいってぐんぐん伸び、廿六年は大洋に2勝をあげて2勝2敗、廿七年は巨人からは1勝も奪えなかったが阪神、名古屋からそれぞれ勝ち星を拾って7勝7敗。
今シーズンは八事のキャンプで覚えたスライダーが身につき、バネのきいたフォームで安定感も増えてきている。
杉浦監督は「小さいがなかなかよい球をもっている。
ただモーションが大きすぎるが、粘り強いし勝負師的なカンをもっているからもう少し体力さえつければ大成するだろう」といっている。
左打者に対しては自信のないピッチングで打たれたり、走者が出るとカーブの威力が減ったり、若さからの欠点はあるがまだ廿歳。
苦労をものともせず念願の「一人前の投手」をめざすことだろう。

大阪府立天王寺高等学校を卒業後、1951年に国鉄スワローズに入団。
背番号16 同年9月1日、後楽園球場での対大洋ホエールズ戦にてプロ初勝利を挙げた。
翌1952年には、7勝を記録。
1953年には自己シーズン最多の9勝を挙げたものの、セ・パ両リーグ最多の26敗を喫した。
同年5月9日から8月6日にかけて、同一シーズン13連敗というセ・リーグ記録を残している。
以降は成績が低迷し、1957年オフに引退。
1980年6月25日、病のために47歳という若さで急逝。
通算139試合登板 22勝42敗 防御率3.87 完封勝利も1回あります。

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元国鉄の井上佳明投手を知ってますか? 1953年  金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である

匿名さん

元国鉄の井上佳明投手を知ってますか? 1953年 金田が腰の神経痛で休んでいる国鉄投手陣のなかで一番いい選手である。
八日現在5勝12敗と負越してはいるが、巨人から国鉄唯一の白星をあげ、阪神には2勝のうち1勝、名古屋には3勝のうち2勝を稼いでいる。
大きなモーションのサイドスローから独特のシュート、カーブをコントロールよく配合好調なときにはちょっと手が出ないほどの切れ味を持つ。
二枚腰のような粘り強いピッチングが彼の身上だが、性格も粘り強い。
ほめられたときは顔を赤らめているが、辛らつに批判されたときはまず素直に耳を傾けている。
しかしつっこんでいくと廿歳にしてはしっかりしすぎているほど自分を知り、粘り強くシンを通そうとする。
苦労がそうさせたのかもしれない。
教科書販売を業とする大阪商人の三男として生まれ、天王寺高校で野球を覚えた。
「もともと野球選手になろうとは思わず好きだからやっていた」のが廿五年高校三年のとき23勝3敗の好成績を収めてから、にわかに投球術に興味を深め、和歌山遠征のとき桐蔭の西村(現阪神・伊沢)と三振奪取を競ったり、近畿大会に全国選抜の覇者北野高校をシャットアウトしたりしているうちに野球への情熱がますますたかまっていった。
「元来上手投げだったのが、このころからしらずしらずのうちに横手気味に変わっていった」という。
卒業の廿六年、はじめて人生の岐路に立たされた。
このころの希望は「早大か慶大かに行きたかった。
そして学生野球の味をしりたかった」というがちょうどそのころ家業が次第に思わしくなくなったので「上の二人の兄も亡くなったし、ぼくが大学に入るよりはプロに入った方が両親を喜ばせる途だ」と思いさっそく野球部長に相談した。
家庭の事情を知っていた部長と担任教官は賛成してくれたが、プロの実情を知らない一部教官と一見ひ弱そうに見える彼の体を心配した教官たちは反対した。
両親はなにもいわず黙っていたというが「どうしていいかまったく途方に暮れてしまった。
しかし自分の部屋に閉じこもって考え込んでいたとき母がそばにきて家のことなどお前は心配しなくていいと励まされたとき、やっぱりプロに入ろうと決心がついた」という。
そして近くの氏神様に夜中こっそりと足を運び「一人前の投手になること」を誓ったそうだ。
それまでは小学校時代のニックネーム。
泣虫のカメ(佳明?)どおり弱い性格だったが、プロ入りを転機にすっかり気持ちを立て直し、ひたすらピッチングに身を打ちこんだ。
成田(天王寺鉄道局監督)宇佐美(現国鉄二軍コーチ)の指導を受けたが、高校時代の逸材もプロでは一介にすぎない。
コントロールとピッチング・フォームの矯正に苦しい鍛錬の明け暮れがつづいた。
しかし十七貫、五尺六寸の小柄ながら素質と鍛錬がものをいってぐんぐん伸び、廿六年は大洋に2勝をあげて2勝2敗、廿七年は巨人からは1勝も奪えなかったが阪神、名古屋からそれぞれ勝ち星を拾って7勝7敗。
今シーズンは八事のキャンプで覚えたスライダーが身につき、バネのきいたフォームで安定感も増えてきている。
杉浦監督は「小さいがなかなかよい球をもっている。
ただモーションが大きすぎるが、粘り強いし勝負師的なカンをもっているからもう少し体力さえつければ大成するだろう」といっている。
左打者に対しては自信のないピッチングで打たれたり、走者が出るとカーブの威力が減ったり、若さからの欠点はあるがまだ廿歳。
苦労をものともせず念願の「一人前の投手」をめざすことだろう。

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