アントニオ猪木が既に全盛期を過ぎていたからです。
1980年2月8日の東京体育館で猪木はエプロンでスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアットを喰らいリングアウト負けを喫しNWF王座から転落しています。
この試合で私が猪木の全盛期が終ったと感じたのは試合に負けたこともありますが、必殺技アントニオ・スペシャル(卍固め)をハンセンのパワーで外されたからなのです。
この年の末に新日本プロレスはIWGP構想を発表、翌1981年4月にはタイガーマスクがデビュー、5月には全日本プロレスの常連だったアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、9月23日には田園コロシアムを超満員にしてハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの超ヘビー級の肉弾戦を実現、新間寿営業本部長は『今起きているのはプロレスブームではなく新日本プロレスブームだ!』と進軍ラッパを吹き続けます。
ところがこの年の末にハンセンは全日本に引き抜き返され、翌1982年になると猪木が体調不良で夏のシリーズを全休、猪木の糖尿病との闘いが始まります。
翌1983年には当初発表した規模からは大幅に縮小されてIWGPを開催、連日超満員の観客を集めますが、優勝戦で肝心の猪木がハルク・ホーガンに衝撃のKO負け、猪木は翌1984年のIWGPで雪辱を期しますが、今度は長州力の不可解な乱入により観客の大暴動という不始末を起こしてしまったのです。
そんな中で1985年に全日本の常連だったブルーザー・ブロディが新日本に登場したわけです。
身長198cm、体重135kgの超ヘビー級で全盛期にあったブロディを堂々迎え撃つことが出来るレスラーは新日本には存在せず、猪木が最後の砦になって迎え撃つも体力差は歴然としており猪木とブロディの戦いは名勝負には成り得ず、アンドレは既に全盛期を過ぎていて満足に動くことが出来なかったし、WWFとの契約が切れていた新日本がWWF所属のホーガンを来日させることは不可能で、ブロディの新日本参戦はカンフル剤にはならなかったのです。