合気道の創始者が鉄砲の弾避けたなんてウソやろう? 鉄砲の弾をよける 1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎と共に、宗教国家の建設を意図し満州・モンゴルに赴く。数々の死線を通じて銃弾を避けられるようになった。盛平自身の説明では「敵の銃弾より先に赤い光が飛んでくるので、それを避けると後から銃弾が飛んでくる」のだという。また剣を相手にしたとき、まず白いモノが振り下ろされ、それを避けると必ずそのあとに本物の剣が振り下ろされたという。(以下、塩田剛三の証言) 陸軍の砲兵の方が、鉄砲の検査官を連れてきた時、その人達を前にして演武を行った植芝先生が「ワシには鉄砲は当たらんのや」と言い、私と湯川さんのお供で大久保の射撃場で試すことになりました。一人ではなく六人がかりです。用いた銃はピストルでした。その有効射程距離は25メートルです。射撃場では人形の代わりに植芝先生が的の位置に立つことになりました。そして、六人の検査官がピストルを構えました。「1, 2, 3, 」で六つの銃口が一斉に火を吹きました。砂ぼこりがもうもうと舞い上がったと思うと、次の瞬間、六人のうち一人が宙に舞ったのです。先生はいつの間にか六人の後ろ立って、ニコニコ笑ってるではありませんか。狐に抓まれたような気分とはこのことです。いったい何が起こったのか、私にはまったく理解出来ませんでした。私ばかりではありません。その場にいた誰もが、ただ驚くばかりで言葉を失っています。これはもう、まぎれもなく神技としか思えません。 — 塩田剛三著「合気道修行」(竹内書店新書) https://wkp.fresheye.com/wikipedia/%e6%a4%8d%e8%8a%9d%e7%9b%9b%e5%b9%b3?guid=on