オリンピックのイメージとして、崇高な祭典、平和、開催地のお国柄、民族友和、季節感(冬季か夏季か)だと思います。
視認性や機能というよりも、理念の部分が優先されるものと思います。
これらのイメージを的確にかつオリジナリティを持って意匠することは、思いつきではなかなかできないのではと思います。
デザインの仕事で一番むつかしいのは、公共広告や公共のサインなどです。
表す形が特定の主張などを「絶叫」しない、「特定の個人を不快にさせない」ことが鉄則です。
その上で、オリジナリティを出すむつかしさは、形を表す手法に熟達した経験を積んだデザイナーにしかできないと思います。
求められる形が普遍的であるなら、おとなしい形や、ありふれた形を選択してしまう恐れがある。
その結果、陳腐化した形や、盗作を疑われる問題になることがある。
そう感じさせない「匠」という深い洗練された感性が参加するデザイナーに求められるのです。
話はそれますが、今回の五輪シンボルの選定過程があまりに不透明で公平性がないと言われていますが、上記のようなデザインの「責任」の部分を考えると素人が参加できるような気がしません。
受賞を重ねた人が参加資格があるという意味は、デザインの世界で「責任を甘受して仕事ができる人」という意味でもあると思います。
ですから、私は、一連の不正疑惑の問題に対して、IT化時代であるからこそ、栄誉ある仕事は、参加ハードルをもっと高くすべきだと考えます。
ただし、そこに主催者がもっと「責任の重み」を主張するべきなのです。
逆に、不正をした人間は、もうプロとして通用しない覚悟を持たせるべきなのです。
その覚悟が参加者どころか主催者になかったという気がします。
そのくらい重い仕事であるのなら、1964年のオリンピックシンボルの選定方法が、数人のデザイナーの指名コンペであったということは、十分正しい話だと考えます。
逆に、デザインを選ばれずノミネートされただけでも、十分な栄誉だと考えます。
彼らにとってもまさしく「メダル獲得」なのでしょう。