元大毎の堀本律雄投手を知ってますか? 1963年 最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインが

元大毎の堀本律雄投手を知ってますか? 1963年  最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインが

元大毎の堀本律雄投手を知ってますか? 1963年 最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインがワッととりかこんだ。「おおきに」「おおきに」大きな目をなおいっそう開いて、だれとでも握手をして頭を下げっぱなし。七回二死後、松並を歩かせたあとベンチから伝令がとんだ。だいじょうぶかそう聞く伝令をひとにらみで追いかえしてしまった。「いろいろとデータを調べてパの選手を研究したのだけど、みるとやるとでは大違いだ。じかにハダで感じとらなければ、いくらたんねんいデータを調べてもはじまらないね。一回に3点とられてしまったのは、まだ各打者をじかに知らなかったからだ」なれたらへっちゃらさそんな言葉をぐっとのみ込んだように目を白黒させた。「それにしてもひどいよ。審判の判定が全然なってない」新しいストライク・ゾーンの話になると、ムッとしたように怒りをぶちまける。「わしらは力で押し切るタイプじゃないんだから、コーナーボールをいいかげんに判定されたのではかなわんよ。同じコースがボールだったりストライクだったり・・。そんなあいまいな判定をいつまでもつづけられたのでは商売あがったりだ」そんな不満も初勝利の喜びの方が大きいのか、表情はすぐ笑顔にもどった。「きょうはかなり風があったのでサイドハンドの方がコントロールがつきやすいと思って徹底して横手から投げた。別にフォームをかえたわけじゃない」横手投げを押しとおした理由をこう説明した。五回は米田に同点ホーマーされてくやしそうにグローブをたたきつけた堀本だったが、試合後は「真ん中の直球がスイと高目にはいってしまったんだ。だれでも打てるボールさ」こともなげにそういってのけた。一回三十七球も投げて前途多難を思わせた堀本も、二回以後は例のヒョウヒョウとしたピッチングでスイスイ阪急の各打者を凡退させた。「一回は初登板ということもあってちょっと警戒しすぎていたようだ。二回以後は各打者の心理をのみ込んだ堀本らしい人をくったピッチングにもどって、すっかり阪急打線をケムに巻いてしまった。五回米田にど真ん中のボールを無造作に投げてホームランされたが、その悪いクセがでないかぎりかなりやるだろう」評論家の吉田正男氏のからい点は、かろうじて合格といったところだ。

桃山学院高から立教大学に入学するが、杉浦忠の控え投手であった。 大学卒業後、社会人野球の日通浦和に入部。 1957年の第28回都市対抗野球大会では、決勝戦で熊谷組に敗れたが、3勝を挙げて久慈賞を獲得。 1960年、読売ジャイアンツへ入団。 前年の主戦投手であった藤田元司や安原達佳が故障などで満足に投げられない中、サイドスローからの小気味よい投法で、新人ながら一躍エースとなり、29勝18敗・防御率2.00(リーグ2位)を挙げて、最多勝・沢村賞・新人王のタイトルを獲得。 この年は大洋がセントラル・リーグを制し、巨人は2位に終わったが、もしリーグ優勝していれば最優秀選手の有力候補であった。 前年の酷使がたたって1961年は11勝に終わるが、南海との日本シリーズで2勝を挙げて最優秀投手賞を獲得している。 また、両年ともオールスターゲームに選出されている(1960年は出場辞退)。 しかし、遠慮せずはっきり物事を言う性格であったことから川上哲治監督と反りが合わず、7勝に終わった1962年のシーズンオフに柳田利夫とのトレードでに大毎へ移籍する。 大毎に移籍した初年度の1963年こそ15勝を挙げチームの勝ち頭となるが、翌1964年は1勝のみと急速に衰えを見せ、1965年限りで現役を引退した。 現役引退後は大洋一軍投手コーチ(1977年)・二軍投手コーチ(1978年, 1991年 - 1992年)、日本ハム二軍投手コーチ(1993年 - 1994年)、統一投手コーチ(1997年)を歴任する。 1977年からの大洋コーチ時代(1期目)には、監督の別当薫から下手投げへの変更命令が出ていた遠藤一彦に「上から投げるように」と進言し、遠藤に本格派投手としての一歩を踏み出させている。 1991年からの2期目には斎藤隆・三浦大輔を育て、続く1993年からの日本ハムコーチ時代には岩本勉・島崎毅・今関勝を一軍に送り出した。 また、テレビ中継でのゲスト解説や文化放送・RFラジオ日本の野球解説者を務めた。 晩年は日刊ゲンダイの評論家として活動していたが、長嶋茂雄の大学の1年先輩でもあり、歯に衣着せず巨人批評を行っていた数少ない評論家であった。 2012年1月14日午前8時30分に肺炎のため横浜市内の病院で死去。 76歳没。 立教大学では長嶋茂雄の1年先輩であったことから、巨人へ入団早々、既に球界の大スターであった長嶋に対して「おい、シゲ!たばこ買って来いや」と使いっ走りをさせて、周囲を驚かせた。 新人の頃、登板前日に土砂降りの大雨だったことから試合中止と早合点して、長嶋茂雄を連れて成城にある石原裕次郎の邸宅を訪問して朝までどんちゃん騒ぎをして、水原茂監督に大目玉を食らった。 あるいは、試合を途中で抜け出して、銀座のクラブで飲んでいたところ、試合が終わってやってきた川上哲治監督に鉢合わせた。 など、酒に関する逸話が多いが、夜の街を通じて当時の銀幕スターたちとの華やかな交流があったという。 通算201試合登板 63勝59敗 防御率2.82 最多勝:1回 (1960年) 新人王 (1960年) 沢村栄治賞:1回 (1960年) 日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1961年) 記録 オールスターゲーム出場:1回 (1961年)[6] 背番号[編集] 20 (1960年 - 1965年) 40 (1977年 - 1978年) 73 (1991年) 83 (1992年) 72 (1993年 - 1994年)

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元大毎の堀本律雄投手を知ってますか? 1963年  最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインが

元大毎の堀本律雄投手を知ってますか? 1963年 最終打者太田を遊ゴロにとって初登板を完投勝利でかざった堀本をナインがワッととりかこんだ。「おおきに」「おおきに」大きな目をなおいっそう開いて、だれとでも握手をして頭を下げっぱなし。七回二死後、松並を歩かせたあとベンチから伝令がとんだ。だいじょうぶかそう聞く伝令をひとにらみで追いかえしてしまった。「いろいろとデータを調べてパの選手を研究したのだけど、みるとやるとでは大違いだ。じかにハダで感じとらなければ、いくらたんねんいデータを調べてもはじまらないね。一回に3点とられてしまったのは、まだ各打者をじかに知らなかったからだ」なれたらへっちゃらさそんな言葉をぐっとのみ込んだように目を白黒させた。「それにしてもひどいよ。審判の判定が全然なってない」新しいストライク・ゾーンの話になると、ムッとしたように怒りをぶちまける。「わしらは力で押し切るタイプじゃないんだから、コーナーボールをいいかげんに判定されたのではかなわんよ。同じコースがボールだったりストライクだったり・・。そんなあいまいな判定をいつまでもつづけられたのでは商売あがったりだ」そんな不満も初勝利の喜びの方が大きいのか、表情はすぐ笑顔にもどった。「きょうはかなり風があったのでサイドハンドの方がコントロールがつきやすいと思って徹底して横手から投げた。別にフォームをかえたわけじゃない」横手投げを押しとおした理由をこう説明した。五回は米田に同点ホーマーされてくやしそうにグローブをたたきつけた堀本だったが、試合後は「真ん中の直球がスイと高目にはいってしまったんだ。だれでも打てるボールさ」こともなげにそういってのけた。一回三十七球も投げて前途多難を思わせた堀本も、二回以後は例のヒョウヒョウとしたピッチングでスイスイ阪急の各打者を凡退させた。「一回は初登板ということもあってちょっと警戒しすぎていたようだ。二回以後は各打者の心理をのみ込んだ堀本らしい人をくったピッチングにもどって、すっかり阪急打線をケムに巻いてしまった。五回米田にど真ん中のボールを無造作に投げてホームランされたが、その悪いクセがでないかぎりかなりやるだろう」評論家の吉田正男氏のからい点は、かろうじて合格といったところだ。

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