元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1966年 宿舎中島旅館(下関市阿弥陀寺町)をでる前、体温をはかったら三十八度近

元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1966年  宿舎中島旅館(下関市阿弥陀寺町)をでる前、体温をはかったら三十八度近

元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1966年 宿舎中島旅館(下関市阿弥陀寺町)をでる前、体温をはかったら三十八度近くあったそうだ。新潟、秋田遠征(対産経戦=五月三ー五日)でひいたかぜがこじれて、コンディションは最低。試合前「三回でKOされるよ」とマウンドに向かった。しかし大洋はまた池田にひねられた。林のホーマーで三試合連続シャットアウトだけは免れたが、わずか三安打。まるでヘビににらまれたカエルのようだった。試合後の池田はやはり疲れがどっと出たといった顔つき。試合前と同じようにバスタオルを首に巻き、その上からウインドブレーカーを着るとボツリボツリと口を開いた。「六回ごろが一番しんどかった。しかし味方が3点先取してくれたし、八回の大量追加点で大洋にあきらめムードが出たので助かった」「かぜでからだがきつかったが、ほかの投手が巨人戦(十一、十二日)で投げつくしているし、前から登板予定だったので、四、五回まではなんとかがんばろうと思った。風があんなふう(左から右へ6・8㍍)だったので、シュートをかなり使った。それにスライダーもよかったね。林にホームランされたのはフォークボール。コースが真ん中寄りだったが、うまく打ったよ」対大洋戦の連続無失点をストップされた林のホームランでは、相手をほめてニヤニヤした。池田は昨年も大洋から6勝をあげているが、大洋に強いわけは自分でもわからないそうだ。「ただ大洋は大振りする打者が多い。ぼくはコントロールを身上にする投手。そのあたりになにかの原因があるのではないか」捕手の田中も池田の言葉を裏づける。「振りまわす大洋のバッターが、針の穴を通すようなコントロールの池田を打てるはずがない」この絶妙のコントロールは福岡高時代の基礎練習でつちかわれた。当時の監督だった前川さんが、三カ月間も投手板の2㍍も前から毎日投げさせ、一にも制球、二にもコントロールを強調した。池田は当時をふりかえって「いまぼくのコントロールがいいのは前川さんのおかげですよ。あのときは直球とカーブ以外の変化球は投げさせてくれず、おもしろくないと思ったがね」前日下関球場で練習後「初めて投げる球場だから、マウンドの下調べをしておかねばね。いきなりマウンドに立って高低が激しかったりすると、コントロールを狂わすからね」ただいまの首位の広島を引っぱる役のヒーローは、せん細な神経のもち主でもある。

以前学習させていただきましたね。 知ってます。 1962年、広島カープに入団。 「中継ぎタイプで4、5勝できれば」との周囲の評価をよそに、16勝を挙げる。 また、1年目の防御率2.44は、規定投球回数に達した広島の新人投手としては歴代2位の記録。 1位は明大の後輩である野村祐輔(1.98)。 緻密な制球力と投球術、縦に割れるカーブを武器に、1963年にはチーム最多の21勝を挙げエース格となる。 大石清と共に1960年代のカープ投手陣を支えたが、1965年の終盤には肘痛に苦しむ。 1966年には開幕から連続完封勝利を記録し、5年連続2桁勝利を達成。 安定した投球でローテーションの中心だったが、1967年のシーズン開幕直後、東洋工業のグラウンドで二軍の選手と共に調整中だったが、打撃投手が足りないと聞いて買って出る。 しばらくして、外野ノックを受けていた衣笠祥雄の送球がそれて右手首に当たる。 その影響で成績が極端に低下し、2年後の1969年に現役引退を余儀なくされる。 なお1968年からは投手コーチも兼任していた。 その後は同球団の投手コーチとして根本陸夫・別当薫・森永勝也と3人の監督に仕え、佐伯和司・金城基泰・永本裕章を育てた。 1980年~1984年は大洋でコーチを務め、先発の斉藤明夫と抑えの遠藤一彦の役割を交換して二人を蘇らせた。 1987年からは同年監督に就任した星野仙一の懇請で中日の投手コーチを務めた。 投手コーチとしての能力は高く評価されていた(複数球団の投手コーチを比較的長期間務めたことからも窺える)ようで、中日コーチ就任時には星野をして「投手出身の自分が、それでも安心して任せられる人」と言わしめている。 一方の池田は星野を「決断力があり、後輩ながら素晴らしい監督」と評している。 その後、実際に1988年の中日のリーグ優勝に貢献。 山本昌広・今中慎二・与田剛・近藤真一を育て、郭源治をリリーフに転向させた。 1975年~1979年と1985年~1986年には、RCC中国放送で野球解説者を務めていた。 中日コーチ退任後、球団のスカウトを経て、2005年まで広島工業大学の広報課に勤務していた(プロ野球のコーチから大学職員になったケースとして、新山隆史がいる)。 通算251試合登板 83勝82敗 防御率2.83 背番号 11 (1962年 - 1969年) 61 (1970年 - 1974年) 70 (1980年 - 1984年) 65 (1987年 - 1989年) 79 (1990年)

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元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1966年 宿舎中島旅館(下関市阿弥陀寺町)をでる前、体温をはかったら三十八度近くあったそうだ。新潟、秋田遠征(対産経戦=五月三ー五日)でひいたかぜがこじれて、コンディションは最低。試合前「三回でKOされるよ」とマウンドに向かった。しかし大洋はまた池田にひねられた。林のホーマーで三試合連続シャットアウトだけは免れたが、わずか三安打。まるでヘビににらまれたカエルのようだった。試合後の池田はやはり疲れがどっと出たといった顔つき。試合前と同じようにバスタオルを首に巻き、その上からウインドブレーカーを着るとボツリボツリと口を開いた。「六回ごろが一番しんどかった。しかし味方が3点先取してくれたし、八回の大量追加点で大洋にあきらめムードが出たので助かった」「かぜでからだがきつかったが、ほかの投手が巨人戦(十一、十二日)で投げつくしているし、前から登板予定だったので、四、五回まではなんとかがんばろうと思った。風があんなふう(左から右へ6・8㍍)だったので、シュートをかなり使った。それにスライダーもよかったね。林にホームランされたのはフォークボール。コースが真ん中寄りだったが、うまく打ったよ」対大洋戦の連続無失点をストップされた林のホームランでは、相手をほめてニヤニヤした。池田は昨年も大洋から6勝をあげているが、大洋に強いわけは自分でもわからないそうだ。「ただ大洋は大振りする打者が多い。ぼくはコントロールを身上にする投手。そのあたりになにかの原因があるのではないか」捕手の田中も池田の言葉を裏づける。「振りまわす大洋のバッターが、針の穴を通すようなコントロールの池田を打てるはずがない」この絶妙のコントロールは福岡高時代の基礎練習でつちかわれた。当時の監督だった前川さんが、三カ月間も投手板の2㍍も前から毎日投げさせ、一にも制球、二にもコントロールを強調した。池田は当時をふりかえって「いまぼくのコントロールがいいのは前川さんのおかげですよ。あのときは直球とカーブ以外の変化球は投げさせてくれず、おもしろくないと思ったがね」前日下関球場で練習後「初めて投げる球場だから、マウンドの下調べをしておかねばね。いきなりマウンドに立って高低が激しかったりすると、コントロールを狂わすからね」ただいまの首位の広島を引っぱる役のヒーローは、せん細な神経のもち主でもある。

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