元産経の小淵泰輔選手を知ってますか? 1967年 東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた

元産経の小淵泰輔選手を知ってますか? 1967年  東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた

匿名さん

元産経の小淵泰輔選手を知ってますか? 1967年 東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた。
ことしから森村学園の初等部に入学した浩徳君の悩みは、パパの成績がもうひとつパッとしないこと。
チームが負けつづきだったうえにパパがあまり試合に出ないのでは学校でも肩身がせまいのだろう。
七回の第一打席、久保の落ちる球に三振したときは「パパ、もっとボールを見なくてはだめだよ」ときびしい評論家ぶりを発揮していたという。
照子夫人は逆転3ランをこのかわいい評論家から聞いたそうだ。
「パパがでっかいのを打ったよ。
ホームランだ」小淵一家にとって名古屋は二年間二軍生活を送ったにがい思い出の地。
小淵は「じわじわ照りつける太陽の下で毎日、このままで終わってなるものかと歯を食いしばりながら若手とグラウンドを走りまわっていた」と当時をふりかえる。
昨年まで中日戦には張り切りすぎてかえってパッとしなかったこともある。
なんとか昔の仲間に力を見せようという気持ちが心の底で強く働いていたからだ。
「ホームラン?外角から真ん中寄りのシンカー。
落ちなかったようだな。
前の打席で落ちる球にひっかかって三振したので低めは捨てたんだ」よみは当たった。
そのうえボックスにはいる前、飯田監督に「強振するな。
当てるだけでもお前のパワーだったら一発ほうり込めるぞ」とアドバイスを受けた。
「大きいのをねらっていたが、監督のアドバイスで振りをシャープに、とだけ考えていた」報道陣の質問に答えながら、ベンチをキョロキョロとみまわしていった。
「忘れものがあるんだ」この日使わなかったグローブ。
投手以外はなんでもこなす器用な男だけに、ことしも豊田の控えの一塁のほか、外野も守る。
「だから荷物が多くてね」そのうえ持っていたバスにつくと盛りだくさんのホームラン賞。
「でもね、こんな荷物だったら、いくら多くてもいいよ」ちょうどそのころ「パパのホームランみたら、安心したのでしょう。
こどもたちはもうやすみました」と照子夫人。
浩徳君の夢の中にでるパパは、王よりも野村よりももっとすばらしいヒーローにちがいない。

知らなかったので調べました。
三池工業高校卒業後は東洋高圧大牟田へ入社。
1955年の都市対抗では中心打者として準々決勝に進み、全鐘紡に惜敗したものの首位打者賞を獲得。
翌1956年の大会では濃人渉監督率いる日鉄二瀬に補強され三番打者として活躍、この時のチームメートには古葉毅、吉田勝豊、江藤慎一がいた。
1957年に西鉄ライオンズへ入団。
1年目から控えの野手として出場した。
1958年の日本シリーズ第5戦、巨人1点リードで迎えた9回裏、代打でこの回の先頭バッターとなった小淵の当たりは三塁線を際どく抜け、小淵は二塁に達した。
この打球を三塁手の長嶋茂雄はファウルだと判断し、捕らなかったが、塁審の二出川延明がこれをフェアと判定。
監督の水原茂と長嶋は猛抗議したが判定は覆らなかった。
この二塁打でチームは同点に追いつき、10回裏の稲尾和久のサヨナラホームランで勝利、奇跡の逆転日本一につながる。
1959年からは内野のユーティリティプレイヤーとして100試合以上に起用されるが、レギュラーには届かなかった。
1960年8月6日の東映フライヤーズ戦でサイクルヒットを達成。
翌1961年に大矢根博臣とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍するが、あまり活躍の場はなかった。
1964年には国鉄スワローズへ移籍。
この年は好調を維持し、レギュラー一塁手に定着。
初めて規定打席(5位)にも到達し、打率3割を記録。
翌1965年も中軸として活躍したが、両リーグ最多の111三振を喫してしまう。
その後は段々と出番が減り、1969年に引退。
その後は同球団の一軍打撃コーチ(1970年 - 1973年, 1975年)・二軍コーチ(1974年, 1976年 - 1980年)を経て、ヤクルト本社に勤務した。
2011年4月1日に死去。
満76歳没。
通算1063試合出場 2436打数 605安打 82本塁打 302打点 80盗塁 打率.248 サイクルヒット:1回(1960年8月6日、対東映フライヤーズ戦、平和台球場) ※史上18人目 通算1000試合出場 1969年5月19日(138人目) 背番号 1 (1957年 - 1960年) 5 (1961年 - 1962年) 13 (1963年) 41 (1963年) 31 (1964年 - 1969年)

シャープに関する回答

【動画】車・バイクニュース

【動画だから100倍楽しめる】YouTube車・バイク動画(すべて見る)

見て楽しむニュース

【動画だから100倍楽しめる】見て楽しむ車・バイクニュース(すべて見る)

【速報】車・バイクニュース

完全無料で話題の車・バイクニュースがすぐに読める(すべて見る)

【話題】今話題の動画

SNSで1000いいね!以上の話題の動画(すべて見る)

この質問に答えてみる

元産経の小淵泰輔選手を知ってますか? 1967年  東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた

匿名さん

元産経の小淵泰輔選手を知ってますか? 1967年 東京・目黒区鷹番町の自宅では、二男の浩徳君がテレビの前で「パパがんばって・・・」と声援を送っていた。
ことしから森村学園の初等部に入学した浩徳君の悩みは、パパの成績がもうひとつパッとしないこと。
チームが負けつづきだったうえにパパがあまり試合に出ないのでは学校でも肩身がせまいのだろう。
七回の第一打席、久保の落ちる球に三振したときは「パパ、もっとボールを見なくてはだめだよ」ときびしい評論家ぶりを発揮していたという。
照子夫人は逆転3ランをこのかわいい評論家から聞いたそうだ。
「パパがでっかいのを打ったよ。
ホームランだ」小淵一家にとって名古屋は二年間二軍生活を送ったにがい思い出の地。
小淵は「じわじわ照りつける太陽の下で毎日、このままで終わってなるものかと歯を食いしばりながら若手とグラウンドを走りまわっていた」と当時をふりかえる。
昨年まで中日戦には張り切りすぎてかえってパッとしなかったこともある。
なんとか昔の仲間に力を見せようという気持ちが心の底で強く働いていたからだ。
「ホームラン?外角から真ん中寄りのシンカー。
落ちなかったようだな。
前の打席で落ちる球にひっかかって三振したので低めは捨てたんだ」よみは当たった。
そのうえボックスにはいる前、飯田監督に「強振するな。
当てるだけでもお前のパワーだったら一発ほうり込めるぞ」とアドバイスを受けた。
「大きいのをねらっていたが、監督のアドバイスで振りをシャープに、とだけ考えていた」報道陣の質問に答えながら、ベンチをキョロキョロとみまわしていった。
「忘れものがあるんだ」この日使わなかったグローブ。
投手以外はなんでもこなす器用な男だけに、ことしも豊田の控えの一塁のほか、外野も守る。
「だから荷物が多くてね」そのうえ持っていたバスにつくと盛りだくさんのホームラン賞。
「でもね、こんな荷物だったら、いくら多くてもいいよ」ちょうどそのころ「パパのホームランみたら、安心したのでしょう。
こどもたちはもうやすみました」と照子夫人。
浩徳君の夢の中にでるパパは、王よりも野村よりももっとすばらしいヒーローにちがいない。

※未入力の場合「乗り物好き」として匿名で回答できます。







※未入力可能

全角10文字以上4000文字以内