元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1963年 「ことしもマイ・ペースでいく。ずば抜けているところがないから、背のび

元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1963年  「ことしもマイ・ペースでいく。ずば抜けているところがないから、背のび

元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1963年 「ことしもマイ・ペースでいく。ずば抜けているところがないから、背のびするのが一番こわい。自分の最高のピッチングを常に心がける。それが打たれればしかたがない」昨年、プロ入り一年目でこういいながら14勝もあげた。ことしももう4勝している。「いつも投げているのはストレート、カーブ、スライダー、シュート、それにフォークボールみたいな落ちる球。しかしこの中で、これといって特別にいい球はない。だから一つぐらい悪くても融通がきくんだ」といった。四月二十九日の中日戦ではヒジが重く、カーブがきまったのはたった三球だけ。シュートとストレートだけで1点に押え完投勝利。中日の江藤、中らが「内角へくると思うと外角、見送ろうと思うとズバリ投げ込んでくる。実ににくいね。後半はこれにさんざん迷わされた」とくやしそうにいっていた。博多の中心街、蓮池の自転車屋に生まれた。十五歳上の長男猛雄さんと姉四人の六人兄弟の末っ子。兄弟とも福岡高の出身。猛雄さんも投手をしていた。そのため小学校二年生のときから重たいグローブを持たされて野球を教え込まれた。「福岡高はいままで夏の大会の県予選に優勝して地区予選に二度出場しているんです。その二度というのは猛雄と英俊が投げたときなんです。市長杯も二度獲得しましたが、これもウチの坊主がなんでして・・・」と父親清さんはこれが自慢のタネだ。猛雄さんはその後学問畑にはいり、いまは明大の独文学の助教授。池田は三十一年に明大に進んだ。二年生の秋のリーグ戦が最高のできだった。「いまとは比較にならないほどボールがよく落ちた。あんな球がいまあればおもしろいんだが・・」となつかしそうにいう。このリーグ戦が終ったあと腰を痛めた。スポーツ・ドクター水町四郎博士(関東労災病院長)から「野球は遊びにしかできない」といわれ、ひと晩中泣いた。プロの誘いを断って八幡製鉄に就職したのもこのためだ。このころから自分のペースを守る男だった。八幡製鉄での仕事は業務部製品発送受渡業。仕事は忙しかった。野球は仕事の終わった午後五時からしかできない。根っから野球ずきの池田にはたえられなかった。プロ入りした理由をこういう。「二年間考えた。もっと野球をしたかったこともあるが、ぼくは資金をためて将来独立して商売する夢があるんだ。この二年間で腰の方もすっかりよくなった。イチかバチか冒険してみる気になった。二十七、八歳になって冒険はできない。若いうちなら失敗してもすぐ立ち直れる。でもプロでやれる自信はさっぱりなかった」がっちり型の池田がうった一世一代のバクチかもしれない。しかし参戦報酬は大活躍したのにすえおき。「一年くらい成績がよくてもフロックということがある。ことしよければうんと昇給させてやる」というのが会社の答え。だから池田はことしにすべてをかけている。

球団史上最多のシーズン9完封、通算完封が球団歴代3位の投手。

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元広島の池田英俊投手を知ってますか? 1963年 「ことしもマイ・ペースでいく。ずば抜けているところがないから、背のびするのが一番こわい。自分の最高のピッチングを常に心がける。それが打たれればしかたがない」昨年、プロ入り一年目でこういいながら14勝もあげた。ことしももう4勝している。「いつも投げているのはストレート、カーブ、スライダー、シュート、それにフォークボールみたいな落ちる球。しかしこの中で、これといって特別にいい球はない。だから一つぐらい悪くても融通がきくんだ」といった。四月二十九日の中日戦ではヒジが重く、カーブがきまったのはたった三球だけ。シュートとストレートだけで1点に押え完投勝利。中日の江藤、中らが「内角へくると思うと外角、見送ろうと思うとズバリ投げ込んでくる。実ににくいね。後半はこれにさんざん迷わされた」とくやしそうにいっていた。博多の中心街、蓮池の自転車屋に生まれた。十五歳上の長男猛雄さんと姉四人の六人兄弟の末っ子。兄弟とも福岡高の出身。猛雄さんも投手をしていた。そのため小学校二年生のときから重たいグローブを持たされて野球を教え込まれた。「福岡高はいままで夏の大会の県予選に優勝して地区予選に二度出場しているんです。その二度というのは猛雄と英俊が投げたときなんです。市長杯も二度獲得しましたが、これもウチの坊主がなんでして・・・」と父親清さんはこれが自慢のタネだ。猛雄さんはその後学問畑にはいり、いまは明大の独文学の助教授。池田は三十一年に明大に進んだ。二年生の秋のリーグ戦が最高のできだった。「いまとは比較にならないほどボールがよく落ちた。あんな球がいまあればおもしろいんだが・・」となつかしそうにいう。このリーグ戦が終ったあと腰を痛めた。スポーツ・ドクター水町四郎博士(関東労災病院長)から「野球は遊びにしかできない」といわれ、ひと晩中泣いた。プロの誘いを断って八幡製鉄に就職したのもこのためだ。このころから自分のペースを守る男だった。八幡製鉄での仕事は業務部製品発送受渡業。仕事は忙しかった。野球は仕事の終わった午後五時からしかできない。根っから野球ずきの池田にはたえられなかった。プロ入りした理由をこういう。「二年間考えた。もっと野球をしたかったこともあるが、ぼくは資金をためて将来独立して商売する夢があるんだ。この二年間で腰の方もすっかりよくなった。イチかバチか冒険してみる気になった。二十七、八歳になって冒険はできない。若いうちなら失敗してもすぐ立ち直れる。でもプロでやれる自信はさっぱりなかった」がっちり型の池田がうった一世一代のバクチかもしれない。しかし参戦報酬は大活躍したのにすえおき。「一年くらい成績がよくてもフロックということがある。ことしよければうんと昇給させてやる」というのが会社の答え。だから池田はことしにすべてをかけている。

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