元南海の林俊彦投手を知ってますか? 1965年 左手人さし指と中指のツメが割れたのは八月のなかばだった。バンソウコウを

元南海の林俊彦投手を知ってますか? 1965年  左手人さし指と中指のツメが割れたのは八月のなかばだった。バンソウコウを

元南海の林俊彦投手を知ってますか? 1965年 左手人さし指と中指のツメが割れたのは八月のなかばだった。バンソウコウをはりつけておく以外なんの治療法もないツメのヒビ。八月十五日西鉄を完封してから三度先発したが、一度も勝てず、チームもずるずると黒星をつけた。「思い切ったピッチングができなかったんです。痛い、痛いと思っていては、変化球を投げてもさっぱり切れず、むしろ打者の打ちごろの球ばかりになってしまった」開幕以来無傷の12連勝。杉浦に代わる南海の若いエースとハデに騒がれるとともに、どんどんふえていく勝ち星に、林の欲は5勝から10勝、そして15勝へと風船玉のように大きくふくらんでいった。そんな夢にチクリと針を突き刺したような事故だった。「林さん、どうしたんですか。前のようにもっともっと勝ってください」圧倒的に多い女学生ファンからの手紙も、こんな内容のものばかり。この日も第一試合げ先発予定だったが「ツメがまだよくなっていないから」ということで、第二試合にまわされた。「トシ、思いきっていけ。痛くなったらいつでも代えてやる」鶴岡監督のハッパを背にマウンドへあがった。結果は三安打の完封勝利。「りきまなかったのがよかったのでしょう。ぼくのピッチングにツメをかばう気持が働いていたのも完封できた原因だと思います。自分一人でうちとるというより、ただ慎重にコーナーをつくことだけを考えました。七分くらいの力だったので疲れもせず、こんな楽な試合はなかったみたいです」中原ピッチング・コーチはニコニコ顔で二重丸をつけた。「力だけで押えていきたいままでの勝ち星と違って、コントロール一本だけといってもいいきょうのピッチングを見て、トシもずいぶん成長したなと思ったよ。うれしかった」二試合でわずかに八本のヒットしか打てなかった南海打線。十八日大阪で西鉄を迎えうつ鶴岡監督にとっては、林の好投がうれしいおみやげになった。

知らなかったので調べました。 中京商ではスリークォーター投法の速球派左腕として鳴らし、同期の木俣達彦とバッテリーを組む。 2年生時の1961年に、1年上のエース山中巽の控え投手として夏の甲子園に出場。 準々決勝に進むが、浪商のエース尾崎行雄らに抑えられ、完封を喫する。 この大会では山中をリリーフして全試合に登板。 同年の秋田まごころ国体にも出場。 決勝では先発を任され、報徳学園を6-1で降し優勝を飾る。 山中以外の1年上のチームメートに江藤省三、相羽欣厚がいた。 3年生時にはエースとして甲子園に春夏連続出場。 1962年春の選抜は、出雲産、岐阜高を連続完封し準決勝に進出するが、日大三高にサヨナラ負け。 夏の選手権も2完封を記録し、準々決勝でも鹿児島商の浜崎正人に投げ勝つ。 しかし準決勝で、この年春夏連覇を果たす作新学院の加藤斌に完封を喫した。 1963年に南海ホークスに入団。 翌年から先発投手として頭角をあらわし、1965年には17勝3敗、勝率.850で最高勝率のタイトルを獲得。 巨人との日本シリーズでも唯一の勝利を完投であげた。 翌年から肩の故障により2年間を棒に振る。 1968年には先発としてカムバックし7勝をあげるが、その後は調子が上がらず登板機会が減る。 1970年シーズン途中に登録名を林 俊宏(はやし としひろ)に変更。 1971年に内野手へ転向。 代打を中心に起用されたが、1975年には一塁手として柏原純一と併用され、44試合に先発出場を果たす。 その後は出場機会が減り、コーチ兼任となった1978年限りで引退。 その後も南海に残留し、二軍投手コーチ(1979年 - 1982年, 1985年 - 1986年)を務めた。 打席は「両打」と登録されていた年がある(1976年)。 通算150試合登板 29勝17敗 防御率3.14 野手として 通算604打数 132安打 10本塁打 54打点 打率.219 背番号 28 (1963年 - 1978年) 82 (1979年 - 1980年、1986年) 83 (1981年 - 1982年) 74 (1985年)

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元南海の林俊彦投手を知ってますか? 1965年 左手人さし指と中指のツメが割れたのは八月のなかばだった。バンソウコウをはりつけておく以外なんの治療法もないツメのヒビ。八月十五日西鉄を完封してから三度先発したが、一度も勝てず、チームもずるずると黒星をつけた。「思い切ったピッチングができなかったんです。痛い、痛いと思っていては、変化球を投げてもさっぱり切れず、むしろ打者の打ちごろの球ばかりになってしまった」開幕以来無傷の12連勝。杉浦に代わる南海の若いエースとハデに騒がれるとともに、どんどんふえていく勝ち星に、林の欲は5勝から10勝、そして15勝へと風船玉のように大きくふくらんでいった。そんな夢にチクリと針を突き刺したような事故だった。「林さん、どうしたんですか。前のようにもっともっと勝ってください」圧倒的に多い女学生ファンからの手紙も、こんな内容のものばかり。この日も第一試合げ先発予定だったが「ツメがまだよくなっていないから」ということで、第二試合にまわされた。「トシ、思いきっていけ。痛くなったらいつでも代えてやる」鶴岡監督のハッパを背にマウンドへあがった。結果は三安打の完封勝利。「りきまなかったのがよかったのでしょう。ぼくのピッチングにツメをかばう気持が働いていたのも完封できた原因だと思います。自分一人でうちとるというより、ただ慎重にコーナーをつくことだけを考えました。七分くらいの力だったので疲れもせず、こんな楽な試合はなかったみたいです」中原ピッチング・コーチはニコニコ顔で二重丸をつけた。「力だけで押えていきたいままでの勝ち星と違って、コントロール一本だけといってもいいきょうのピッチングを見て、トシもずいぶん成長したなと思ったよ。うれしかった」二試合でわずかに八本のヒットしか打てなかった南海打線。十八日大阪で西鉄を迎えうつ鶴岡監督にとっては、林の好投がうれしいおみやげになった。

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