wamade01さん、お久しぶりです。 可能な限り詳しく教えてほしい人物がいまして… 私は全然見ないもんだから知りません

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wamade01さん、お久しぶりです。 可能な限り詳しく教えてほしい人物がいまして… 私は全然見ないもんだから知りませんでしたが、最近のボクマガでも載っていたようです。ここ数十年とボクシング界から離れていた「あさのさん」って方のことです。 人伝なのでどこまで本当か分かりませんが、大場政夫さんが唯一勝てなかったみたいに言われているようでして、ファイティング原田会長のスパーリングパートナー。 元日本チャンピオン?50戦ほどして無敗? 色々聞いたのですが、真偽のほどは不確かです。 可能な限りで良いので、よろしければご回答のほど、よろしくお願いします。

大場が勝ち切れず、偉大なるファイティング原田のパートナーとして腕を磨いた笹崎ジムの同門・・・ 専門誌を買わなくなって随分経ちますし、ご指摘の記事も読んでいないことをお断りした上で、ご提示いただいた条件に合致するボクサーは、J・フェザー級チャンピオン、スナッピー浅野こと、浅野英一さんで間違いないかと。 ◎スナッピー浅野(笹崎) 日本J・フェザー級王者(V2) 生涯戦績:50戦31勝(1KO)11敗8分 右ファイター 1948(昭和23)年1月27日茨城県出身 実働:8年(1966:昭和42年3月~1974:昭和50年3月/18~26歳) 第24回(1968年度)全日本フライ級新人王 □日本J・フェザー級王座 V2:1973年6月~74年3月(在位7ヶ月) 無類のタフネスと連打を武器に、二度と返ることのない日本ボクシング界の黄金期(60年代後半~70年代前半)に、国内バンタム級を大いに盛り上げた名脇役の1人。 1968年度の新人王戦では、浅野の他に、ライト級の古山哲夫(後のライオン)とバンタム級の小山繁幸(後のサルトビ)も優勝しており、3名の全日本新人王を誕生させた笹崎ジムは、大黒柱のF原田がバンタム級の世界王座から陥落するショックにもめげず、大いに気を吐いた。 年の瀬12月に行われた第25回新人王決勝でも、ミドル級の岡部義光(後のタートル)、J・ウェルター級の草薙英雄が優勝。 翌69年には、年明け間もなくムサシ中野が東洋ウェルター級王者となり、続いて古山が日本ウェルター級王座を獲得。牛若丸原田やブル加藤(1971年・第28回ウェルター級新人王/最初のリングネームはブルドッグ加藤)らも加わり、笹崎ジムの最盛期を支える顔役たちが揃い出す。 大場政夫とぶつかったのは、1967年10月13日。東日本新人王の準決勝だった。18歳の誕生日を目前に控えた大場は、66年11月7日デビューで10戦9勝(4KO)1敗。1歳(学年で2年)年長の浅野は19歳。大場よりも8ヶ月早い、66年3月28日デビューで、15戦9勝(1KO)3敗3分け。 フライ級には珍しい、長身痩躯のボクサーファイター大場は、立ち上がりに速いジャブとワンツーで主導権を奪ったかに見えたが、頭を下げてしつこくボディから攻め上げる浅野に押し込まれ、乱打戦へともつれ込む。 公式裁定は引き分けだったが、ポイントで僅かに優った浅野が勝者扱いとなり、東日本の決勝も突破する。 そしてめでたく、全日本の新人王となった浅野。しかし、問答無用のスパルタで知られた”鬼の笹崎”らしく、簡単にメイン・イベンタ―にさせては貰えない。4回戦だけで17戦をこなした浅野は、新人王の決勝も含めた6回戦を3試合。階級をバンタムに上げ、さらに8回戦を5試合(日本ランカーを含む)やらされ、初10回戦はようやく26戦(プロ3年)目。 その後も8回戦と10回戦を行き来しながら経験を積み、憧れの原田がおおとりのメインを務める、世界戦興行のセミ格に起用されるまでになったが、念願の日本ランキング入りを果たしても、タイトルマッチは一向に組まれる気配がない。 当時の国内ボクシング界には、「王座への挑戦権は上位5~6位以内」との暗黙の了解?があり、王者(ノンタイトル)と上位ランカーを相手に8回戦以上で戦い、勝てないまでも善戦し、挑戦者に相応しい実力を証明することが当たり前に要求された。 そしてプロ入り5年目の1971年4月19日。タイの首都バンコクに遠征した浅野は、エルビト・サラバリアにまさかの2回KO負けを喫し、前年暮れにWBCフライ級王座を失ったばかりのチャチャイ・チオノイと拳を交える。 契約は、118ポンドのバンタム級。慢性的な減量苦に悩まされていたチャチャイは、調整も含めて楽観的な様子が伺えたらしく、国際的にはまったく無名の日本人が相手とあって、王座陥落後の再起戦とは思えないほど余裕綽々で、明らかに舐めていたという。 そんなチャチャイに、開始ゴングと同時に襲いかかる浅野。得意の左フックを前王者の顎に叩き込み、いきなりダウンを奪った。 浅野自身の追懐(引退後のとあるインタビュー)によると、「向こうは油断してたね。完全に効いていて、日本だったら間違いなくレフェリーが止めてる。でもタイだからね。レフェリーは向こうの人間だから、なるべくゆっくりカウントを数えて、チャチャイに(回復のための)時間をやっていた」とのこと。 チャチャイはクリンチワークが上手く、反則も上手に使いながら大ピンチをしのぎ、必死の反撃に転じる。チャチャイの減量苦は有名だっただけに、得意のボディアタックで繰り返し攻め込んだが、「上手くごまかされた・・・」 「勢いだけで勝てるほど、世界チャンピオンは甘くないと思い知った。日本だったら、判定でもこっちの勝ちになったと思うけど、まだまだ経験不足だった」 タイでチャチャイと引き分け(勝利に値する殊勲)た浅野は、帰国すると2ヶ月後にランカーの綿貫誠一と対戦。10Rをまたしても引き分ける。”鬼の笹崎”は容赦がなく、前日本王者大木重義(青木)との2連戦(9月:10回判定負け/11月:10回ドロー)。 休む間もなく、12月にはまたもやタイ遠征。ベニス・ボーコーソー(WBCフライ級王座を獲得する直前)との10回戦で判定負け。 明けて1972年1月、岡田晃一(木村)をKOして載冠した東洋J・フェザー級王者、張奎喆(韓国)に敵地ソウルで挑戦。プロ6年目にして、遂に実現したタイトルマッチに浅野は燃える。白星に恵まれない過酷な連戦で、心身に癒し難い疲れは残っていたが、やる気を奮い立たせて渡韓。 12Rをフルに戦っての判定負けに退くも、笹崎会長は「絶対に勝っていた。試合内容には自信がある」とジャッジに納得せず、日本での再戦をしきりに訴えていた。 そしてようやく3ヶ月の試合間隔を開け、4月1日に用意された再起戦は、野口ジムの前日本王者黒沢元三との6回戦。首尾良く黒沢を判定に下した浅野は、1年1ヶ月ぶりとなる勝利の余韻に浸る間もなく、6月18日には日本バンタム級王座にアタック。 試合巧者の内山真太郎(船橋)を序盤から追い回し、あと1歩のところまで迫ったものの、0-2の判定を失う。この敗戦はさすがに堪えたらしく、しばらくジムから離れ、真剣に引退を考えたという。 「このままでは終われない。一度もベルトを巻くことなく、負け犬のまま辞めるのは絶対に嫌だ」 新婚の夫人(笹崎会長に内緒で結婚していた)にも励まされ、再びリングに上がる決意をした浅野は、夫人をつれだって会長の下を訪れ、隠れて結婚していたことを詫びる。 同門の日本王者サルトビ小山が、一足早く会長に黙って結婚していたことがバレてしまい、怒髪天の勢いで怒鳴られる一幕があり、話すなら今しかないと悟ったらしい。 27歳で引退した直後に結婚(なんと後楽園ホールで挙式)したジムの大看板、ファイティング原田は、夫人が初めての女性だったと仰っている。10年に及ぶ現役生活の間、世界の原田は童貞を守り抜いた・・・ 1973年1月21日、7ヶ月ぶりに実戦復帰した浅野は、J・フェザー級ランカーの江藤清一(熊谷)と激突。3-0の10回判定で江藤を下した浅野に、文字通りのラスト・チャンスが訪れる。 同門サルトビ小山が、同年3月26日に行った江藤清一とのノンタイトル戦で、まさかの判定負け。右眼の網膜はく離が発覚し、無念の引退へと追い込まれてしまう。保持していた日本J・フェザー級王座も返上。 現役王者の小山に引導を渡した江藤が1位となり、浅野はこの時5位だったが、1月の再起戦で江藤を破っている。小山の後継王者を決める決定戦に、浅野が選ばれた。 1973年6月8日、後楽園ホール。乾坤一擲の力を振り絞り、突進を繰り返す浅野。いつも以上に頭を低くし、フルのクラウチング・スタイルに近い態勢を採る。きれいなストレートパンチャーの江藤に対して、得意のボディ攻撃を一度は成功させていたが、再戦とあって江藤も研究してくる。 笹崎会長は、叩き上げのタフ・ファイトをさらに徹底させた。乱戦に引き込み、江藤に距離とペースを与えない。前戦の失敗が脳裏を過ぎり、江藤も渾身の強打を振るう。ラフ&タフに巻き込まれた江藤は、持ち味のストレートを封じ込まれ、再び浅野の軍門に下った。 プロ入りして丸7年、3度目の挑戦を実らせた浅野は、人目も憚らずに感涙にむせぶ。タイトルマッチの6月8日は、復帰を献身的に支えてくれた夫人の誕生日だったという。 念願のベルトを手中にした浅野は、小山に挑戦した2位川上哲郎(8月30日/福島県営体育館)、同じくクラトキジムの3位アタック原田(11月16日/小松農園ホール/山梨県石和・現在の笛吹市)を判定で退け、2度の防衛に成功。 しかし、翌1974年3月20日のV3戦(宮城県スポーツセンター/仙台市)で、ランク1位の岡野正治(ヨネクラ)の挑戦を受け、10回判定負け。この試合を最後にリングを去った。 戦績(KO勝ちは1度だけ)から、非力な選手との見方が染みついてしまったが、憧れの存在だったというファイティング原田に、いささか影響され過ぎたきらいも・・・ 左フックだけでなく、右にもそれなりにパンチはあったと思う。でも、原田譲りのラッシュと連打にこだわり続け、最後まで己の戦い方を貫く。 膨大な手数を休みなく続けるスタミナは、徹底した走り込みで作り上げた。「打ち合いになったら、絶対に負けない自信があった」と、これもご本人の弁。 浅野の突貫ファイトを、ファンと専門記者の誰もが好評価したわけではなく、王座を獲得した江藤とのリマッチでも、「不細工な試合をやって・・・」「タイトルマッチに相応しい技術レベルにない」などと、酷評に近い批判的な意見も聞かれたのは、間違いのない事実。 それでもなお、最後の最後まで勝負を諦めない浅野のファイトに心の底から共感し、声を涸らして声援を贈り続けるファンも多かった。後楽園ホールに刻み込まれた、紛れもない歴史の1ページである。

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wamade01さん、お久しぶりです。 可能な限り詳しく教えてほしい人物がいまして… 私は全然見ないもんだから知りませんでしたが、最近のボクマガでも載っていたようです。ここ数十年とボクシング界から離れていた「あさのさん」って方のことです。 人伝なのでどこまで本当か分かりませんが、大場政夫さんが唯一勝てなかったみたいに言われているようでして、ファイティング原田会長のスパーリングパートナー。 元日本チャンピオン?50戦ほどして無敗? 色々聞いたのですが、真偽のほどは不確かです。 可能な限りで良いので、よろしければご回答のほど、よろしくお願いします。

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