元阪神の権藤正利投手を知ってますか? 1972年 プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている

元阪神の権藤正利投手を知ってますか? 1972年  プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている

元阪神の権藤正利投手を知ってますか? 1972年 プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている。ことし一試合でも公式戦に登板し、プロ入り実績二十年の実績をつくろうという信念だ。十六日、ウエスタン・リーグの対広島戦でテストしたが、結果はさんざん。痛々しい権藤に周囲は同情的だが、54㌔というきゃしゃなからだにムチ打って権藤は一試合にプロ生活のすべてをかけている。ストライクがはいらない。四球の連続。それでも歯を食いしばって投げるプロ入り二十年目の大ベテランの姿が若い選手にどううつったか。二安打、6四球、7失点で背番号15はベンチに消えた。「力の限界をこれほど知らされたことはない」十六日のウエスタン・リーグ、対広島戦に登板した権藤はさびしさをかくせなかった。まだ一軍の選手はベッドで寝ころんでいる真夏のマウンドで、もうすぐ三十八歳の誕生日を迎える権藤は、いろんなことを考えた。ひと回りも違う二軍選手を相手にストライクさえとれない。切れのあった速球もおじぎをしながら、やっと捕手のミットにおさまる。二十年のキャリアを持つ権藤が一番くやしかったのは、それより、同情的な周囲の視線だったろう。マウンド上で広島の若い選手に、がむしゃらに打ってやろうという気持のなかったことも見抜いている。スタンドでみていた同僚の若生はこういった。早くかえてやればいいのに」広島の野崎ファーム・コーチは「阪神はすごい投手を出したものだと思ったが、マウンド上の権藤を見ているとかわいそうになった。うちの選手に打たないでくれといいたい気持ちさえした」必死に投げる大ベテラン。体重54㌔というかぼそいからだも周囲の同情を買っている。一イニング三十七球のピッチングでベンチに消えた権藤は、力の限界を痛感しながらも逆にそっと胸に秘めている目標をファイトを燃やしている。「ふつうだったら、四球を二つつづけたところで代えられている。だが、一回全部をまかせてくれた白坂さん(二軍責任コーチ)の配慮がうれしい」権藤が力を知りながら、ユニホームに愛着を持ちづつけているのは、ことし公式戦に一試合でも挑戦してプロ入り実働二十年という実績を作りたいからだ。二十八年に柳川商から洋松(大洋の前身)に入団。新人王のタイトルもとった。四十二年には最優秀投手にも選ばれた。三十年から三十二年まで28連敗という連敗記録も作っている。過去十九年間のプロ生活。権藤はことし一試合でも登板して、区切りをつけて引退しようと懸命だ。権藤が限界を感じ引退を決意したのは昨年の暮れ。十九年間投げつづけ六百六十四試合に登板。左腕はくの字にまがり、もう権藤のあの切れのいい、大きなカーブは投げられない。それでも権藤はことしいっぱいがんばる。一試合でいいんだ、甲子園でナイターのマウンドを踏みたい」という。いま権藤が一番ほしいのは勝星ではない。一軍のマウンドだ。来年は佐賀県鳥栖市の実家で家業(酒類販売業)をつぐことも決めている。「こんなからだで五分の一世紀もよく投げてきたもんだ」あと一試合にファイトをもやすベテラン権藤が、甲子園のマウンドを眺めるのはいつか。苦しい調整は、それまでもくもくとファームでつづく。

あぁ…。 有名な投手ですね。 知ってます。 5歳の時、竹トンボを作っている最中、あやまってナイフで左手人差し指の先端を1cmほど削ぎ落とすという大怪我をする(このケガにより、後述のドロップが生まれたとも言われている)。 また少年時代は小児麻痺にかかり、一時は左半身が不随となった。 猛練習で知られる柳川商業高校(現・柳川高等学校)を卒業後、1953年に大洋松竹ロビンスへ入団。 ドロップと呼ばれていた大きく縦に落ちるカーブを武器に1年目から活躍し、15勝12敗で新人王を獲得する。 翌1954年も防御率2.83、奪三振222をマークするが、リーグ最多の143与四球が響いたのか、11勝20敗と大きく負け越した。 権藤の縦に割れるカーブはものすごく、キャッチャーの土井淳が「キリキリキリと音を立てるように直角に落ちるんだ。」と証言している。 当時は「懸河のドロップ」の名でファンに親しまれており、カーブの名手であった金田正一もバッターボックスに立った際、権藤のカーブには手を焼き、一目置いていた。 味方の貧打・拙守に泣かされ(持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあったという)、1955年7月9日の対広島戦から、2年後の1957年6月2日の対阪神戦まで、プロ野球記録の28連敗を記録する。 1957年7月7日の対巨人戦では、自ら先制タイムリーを放つなど奮闘し、完封勝利を挙げた。 大洋ナインは総出で彼を胴上げして祝福、巨人ファンからも暖かい声援が送られた。 1958年4月10日の巨人戦では長嶋茂雄にプロ1号本塁打を打たれた。 1960年には自信喪失から引退を表明した事もあったが三原脩監督の説得により引退を思いとどまるとともにリリーフに転向し、少量を一日5回に分けるなどの食事療法の甲斐もあってか、防御率1.42の好成績を挙げ初優勝に貢献した。 1964年に東映に1年在籍した後、1965年に阪神へ移籍する。 主にリリーフで起用され、1967年には最優秀防御率(1.40)のタイトルを獲得する。 人柄の誠実さについては敵からも認められており、1968年9月18日の対巨人戦で、先発ジーン・バッキーの王貞治への危険球紛いの投球により乱闘となり、代わって登板した権藤はいきなりその王の後頭部に死球を与えてしまう(公認野球規則10.16(h)が適用され、公式記録ではバッキーの与死球とされる。 ただし1986年に改正され、現行ルールでは権藤の与死球となる)が、巨人の川上哲治監督は「権藤がそんなこと(故意の危険球)をするはずがない」と判断し、乱闘に飛び出した選手を自ら呼び戻したほどである。 選手生活の最後に監督となった金田正泰とは確執が生じた。 金田は彼の容貌について「サルでもタバコを吸うのか?」と発言したりした。 権藤は、1973年11月23日、阪神のファン感謝デー終了後に甲子園球場内で金田に謝罪を求めたが入れられなかったため、金田を殴打した。 江夏豊は自伝で以下のように証言している。 8月31日、江夏のノーヒットノーラン達成後の内輪の祝いの席で権藤から「監督にはもう我慢できない」と打ち明けられ、「後輩として手助けをやります」と返答。 ファン感謝デーの際に話し合うと決めた。 当日、二人で監督室に赴き、その場にいたコーチやマネージャーに「権藤さんが一対一で監督と話がしたいそうです」と伝えて席を外させた。 江夏はドアの外で立ち、ほどなく殴られた金田の悲鳴が響いた。人が来て自分を排除しようとしても動くまいとがんばった。 しばらくのち、中を覗いた江夏が「権藤さん、納得した?」と尋ねると権藤は「うん」と答えて二人でその場を立ち去ったという。 権藤にはリーグから厳重戒告処分、球団から謹慎処分が下されたが、権藤はすでに引退を決意していた。12月12日に球団から自由契約を通告されて退団。 実働20年の連盟表彰を捨てての殴打事件であった。 幼少期の大怪我、大病、連敗、監督との確執による不幸な選手生活の最後と、権藤には不運ともいえる出来事が相次いだ。 通算防御率は2.775の成績を残していながら117勝154敗と、37も負け越しているところに、彼の苦闘の跡を見ることができる。グラウンドを後にしてからは、郷里に戻って家業の権藤酒店の経営に専念するも1987年、倒産の憂き目に遭っている。 ご飯に砂糖を大さじ3杯振り掛けて食べるほどの甘党で、枕元にはつねにキャラメルやお菓子を置き、みんながビールを飲んでいる時でも水に砂糖を山ほど入れて飲んでいた。 趣味は将棋であり、阪神に在籍していた時は川藤幸三とよく指していた(川藤に将棋を教えたのも権藤)。 通算719試合登板 117勝154敗。 防御率2.78 背番号 51 (1953年) 18 (1954年 - 1963年) 20 (1964年) 15 (1965年 - 1973年)

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元阪神の権藤正利投手を知ってますか? 1972年  プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている

元阪神の権藤正利投手を知ってますか? 1972年 プロ入り二十年目の阪神・権藤正利投手が、いま二軍で調整をつづけている。ことし一試合でも公式戦に登板し、プロ入り実績二十年の実績をつくろうという信念だ。十六日、ウエスタン・リーグの対広島戦でテストしたが、結果はさんざん。痛々しい権藤に周囲は同情的だが、54㌔というきゃしゃなからだにムチ打って権藤は一試合にプロ生活のすべてをかけている。ストライクがはいらない。四球の連続。それでも歯を食いしばって投げるプロ入り二十年目の大ベテランの姿が若い選手にどううつったか。二安打、6四球、7失点で背番号15はベンチに消えた。「力の限界をこれほど知らされたことはない」十六日のウエスタン・リーグ、対広島戦に登板した権藤はさびしさをかくせなかった。まだ一軍の選手はベッドで寝ころんでいる真夏のマウンドで、もうすぐ三十八歳の誕生日を迎える権藤は、いろんなことを考えた。ひと回りも違う二軍選手を相手にストライクさえとれない。切れのあった速球もおじぎをしながら、やっと捕手のミットにおさまる。二十年のキャリアを持つ権藤が一番くやしかったのは、それより、同情的な周囲の視線だったろう。マウンド上で広島の若い選手に、がむしゃらに打ってやろうという気持のなかったことも見抜いている。スタンドでみていた同僚の若生はこういった。早くかえてやればいいのに」広島の野崎ファーム・コーチは「阪神はすごい投手を出したものだと思ったが、マウンド上の権藤を見ているとかわいそうになった。うちの選手に打たないでくれといいたい気持ちさえした」必死に投げる大ベテラン。体重54㌔というかぼそいからだも周囲の同情を買っている。一イニング三十七球のピッチングでベンチに消えた権藤は、力の限界を痛感しながらも逆にそっと胸に秘めている目標をファイトを燃やしている。「ふつうだったら、四球を二つつづけたところで代えられている。だが、一回全部をまかせてくれた白坂さん(二軍責任コーチ)の配慮がうれしい」権藤が力を知りながら、ユニホームに愛着を持ちづつけているのは、ことし公式戦に一試合でも挑戦してプロ入り実働二十年という実績を作りたいからだ。二十八年に柳川商から洋松(大洋の前身)に入団。新人王のタイトルもとった。四十二年には最優秀投手にも選ばれた。三十年から三十二年まで28連敗という連敗記録も作っている。過去十九年間のプロ生活。権藤はことし一試合でも登板して、区切りをつけて引退しようと懸命だ。権藤が限界を感じ引退を決意したのは昨年の暮れ。十九年間投げつづけ六百六十四試合に登板。左腕はくの字にまがり、もう権藤のあの切れのいい、大きなカーブは投げられない。それでも権藤はことしいっぱいがんばる。一試合でいいんだ、甲子園でナイターのマウンドを踏みたい」という。いま権藤が一番ほしいのは勝星ではない。一軍のマウンドだ。来年は佐賀県鳥栖市の実家で家業(酒類販売業)をつぐことも決めている。「こんなからだで五分の一世紀もよく投げてきたもんだ」あと一試合にファイトをもやすベテラン権藤が、甲子園のマウンドを眺めるのはいつか。苦しい調整は、それまでもくもくとファームでつづく。

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