元中日の井手峻投手を知ってますか? 1976年 プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手

元中日の井手峻投手を知ってますか? 1976年  プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手

元中日の井手峻投手を知ってますか? 1976年 プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手峻選手(32)は名古屋市中区の球団事務所で、中川清代表の机の上に、そっと辞表を置いた。「一身上の都合により退団いたし・・・」。「うん」とうなずく同代表。「彼のこれからの人生を考えれば、そう無理ばかりいっていられないなあ」井手は、東大から二人目のプロ野球選手として、四十二年に入団した。第一号の新治伸治氏(大洋=大洋漁業北米事業部)が引退したあと、たった一人の異色選手として十年間在籍した。「野球が好きでたまらない」と、大手商社に内定していた就職を振り捨ててのプロ入りだった。175㌢、65㌔。投手にしては小柄な部類。それになんといっても、野球で明け暮れる他の大学の選手とは練習量でかなり隔たりがあり、一見ひ弱に見えた。当時の西沢監督の目にも「どこまでやれるものか」と不安に映ったに違いない。「変わりダネということで、しょせんは球団のPRにすぎないさ」と皮肉った見方もあった。入団した年は投手で十七試合に登板、三十三回三分の一イニングを投げて一勝四敗。野手に転向してからは、代走、守備固め専門で、三百五十九試合に出場したが、打数64、安打12。通算すると、一年に一本ぐらいの割でしか安打しなかったことになる。それでも、中日ファンには忘れがたいシーンがあった。四十八年五月五日、後楽園球場の巨人戦。延長十回、二死走者なしから左翼席に本塁打をたたきこみ、決勝点とした。本塁打は、あとにも先にもこの一本だけ。たまたまその日、神宮球場の東京六大学リーグで東大が十八シーズンぶりに法政を破り、埼玉・戸田コースでの対抗レガッタでは東大エイトが一橋大に勝った。翌日の新聞の見出しは「東大デー」だった。「プロのめしの味は球団によって違うが、中日はよかった。二百万都市に一球団。入団したころはファンのマナーも悪かったが、いまはぐっと良くなった。いまの後楽園はなんですかあれ、ひどいもんです」井手の引退は、三度目の正直だった。最初の五年前。その年、就任したばかりの与那嶺監督に守備力と人柄を買われてとどまった。プロの世界で人柄を買われる、という話は珍しい。外国籍の与那嶺監督の胸の中に、東大指向があったとは思えない。やはり「異色」を買われたのだろう。二回目は昨年だったが、中川代表から「もう一年やれば在籍十年で年金がつくから」と説得された。戦力として必要なし、とみれば、紙クズのようにポイと捨ててしまう球界にしてみれば、まれにみる、温情あふれる話である。しかし、井手は今季限りでさらりとユニホームを脱ぐ。春のキャンプ中からファーム(二軍)に落とされたが「ボクの出る幕がないんだったら、最初から選手として契約しなければいいんだ」と無性にハラがたったという。その気持ちが引退へとつながったのは、ファームの選手たちの彼を見る冷ややかな目つきだった。「あの人は野球をやめてもすぐに本社に戻れる、まったくうらやましいよ」「あの目にはいたたまれなかった。だから、やめたらどうする?と聞かれるたびに、中日には戻らない、と答えていたんです」就職先は親類でやっているパッケージ製造の会社(東京・日本橋)。家族で引退を反対したのは小学校二年生の長男俊介君だった。「カッコいい野球選手をなぜやめるの?」。井手はただにが笑いするだけだった。

知らなかったので調べました。 新宿高校から東京大学へ進み、野球部のエースとして活躍する。 東京六大学リーグ通算4勝21敗。1965年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)に出場、日本の優勝に貢献した。 卒業後は三菱商事へ入社することになっていたが、1966年第2次ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受け入団。新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロ野球選手(ドラフト制度発足後としては東大初の指名選手)となった。 1年目の1967年に1勝するが、その後2年は一軍登板はなかった。 なおルーキー時に先発投手を務めたことがあるが、井手以降の東大出身投手で公式戦先発を務めた者はいない。1970年に外野手に転向し、俊足と強肩を生かして守備固めや代走として試合に出場した。 守備が売りの地味な選手であったが、生涯に二度だけ、ヒーローインタビューを受けたことがある。一度目は新人の年、勝利投手になった時。もう一度は、終盤守備固めに着いた彼に延長戦で打席が回り、その時放った公式戦唯一の本塁打が決勝打になった時である。 長嶋茂雄の引退試合となった1974年10月14日の対巨人最終戦に出場しており、試合終了後のスコアボードに名前が出ている。 1976年を最後に現役引退。 公式戦出場試合数は、過去の東大出身プロ野球選手の中では最も多い。 その後、コーチや二軍監督・東海ラジオ野球解説者を歴任し、1987年に中日球団のフロント入り。 球団取締役(編成担当兼チーム運営部長兼渉外部長)を経て、球団代表兼連盟担当に就任。 取締役相談役を務めた後、2015年2月23日に退任することが決まった。 通算で40年以上中日ドラゴンズに在籍し、同一球団への在籍期間としては球界でも類例の少ない長期間である。 投手として通算17試合登板 1勝4敗。 防御率5.13 野手として通算359試合出場 64打数 12安打 1本塁打 2打点

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元中日の井手峻投手を知ってますか? 1976年  プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手

元中日の井手峻投手を知ってますか? 1976年 プロ野球界から、ついに東大出身の学士さんが消えた。十月下旬、中日の井手峻選手(32)は名古屋市中区の球団事務所で、中川清代表の机の上に、そっと辞表を置いた。「一身上の都合により退団いたし・・・」。「うん」とうなずく同代表。「彼のこれからの人生を考えれば、そう無理ばかりいっていられないなあ」井手は、東大から二人目のプロ野球選手として、四十二年に入団した。第一号の新治伸治氏(大洋=大洋漁業北米事業部)が引退したあと、たった一人の異色選手として十年間在籍した。「野球が好きでたまらない」と、大手商社に内定していた就職を振り捨ててのプロ入りだった。175㌢、65㌔。投手にしては小柄な部類。それになんといっても、野球で明け暮れる他の大学の選手とは練習量でかなり隔たりがあり、一見ひ弱に見えた。当時の西沢監督の目にも「どこまでやれるものか」と不安に映ったに違いない。「変わりダネということで、しょせんは球団のPRにすぎないさ」と皮肉った見方もあった。入団した年は投手で十七試合に登板、三十三回三分の一イニングを投げて一勝四敗。野手に転向してからは、代走、守備固め専門で、三百五十九試合に出場したが、打数64、安打12。通算すると、一年に一本ぐらいの割でしか安打しなかったことになる。それでも、中日ファンには忘れがたいシーンがあった。四十八年五月五日、後楽園球場の巨人戦。延長十回、二死走者なしから左翼席に本塁打をたたきこみ、決勝点とした。本塁打は、あとにも先にもこの一本だけ。たまたまその日、神宮球場の東京六大学リーグで東大が十八シーズンぶりに法政を破り、埼玉・戸田コースでの対抗レガッタでは東大エイトが一橋大に勝った。翌日の新聞の見出しは「東大デー」だった。「プロのめしの味は球団によって違うが、中日はよかった。二百万都市に一球団。入団したころはファンのマナーも悪かったが、いまはぐっと良くなった。いまの後楽園はなんですかあれ、ひどいもんです」井手の引退は、三度目の正直だった。最初の五年前。その年、就任したばかりの与那嶺監督に守備力と人柄を買われてとどまった。プロの世界で人柄を買われる、という話は珍しい。外国籍の与那嶺監督の胸の中に、東大指向があったとは思えない。やはり「異色」を買われたのだろう。二回目は昨年だったが、中川代表から「もう一年やれば在籍十年で年金がつくから」と説得された。戦力として必要なし、とみれば、紙クズのようにポイと捨ててしまう球界にしてみれば、まれにみる、温情あふれる話である。しかし、井手は今季限りでさらりとユニホームを脱ぐ。春のキャンプ中からファーム(二軍)に落とされたが「ボクの出る幕がないんだったら、最初から選手として契約しなければいいんだ」と無性にハラがたったという。その気持ちが引退へとつながったのは、ファームの選手たちの彼を見る冷ややかな目つきだった。「あの人は野球をやめてもすぐに本社に戻れる、まったくうらやましいよ」「あの目にはいたたまれなかった。だから、やめたらどうする?と聞かれるたびに、中日には戻らない、と答えていたんです」就職先は親類でやっているパッケージ製造の会社(東京・日本橋)。家族で引退を反対したのは小学校二年生の長男俊介君だった。「カッコいい野球選手をなぜやめるの?」。井手はただにが笑いするだけだった。

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