ナジームハメドはどのプロモーションに所属してたんですか?

ナジームハメドはどのプロモーションに所属してたんですか?

匿名さん

ナジームハメドはどのプロモーションに所属してたんですか?

1992年4月にプロデビューしたハメドは、トレーナーであり、メンターでもあったブレンダン・イングルがマネージャーを務め、始めの2年間ほどは特定のプロモーターの傘下には入らず、経験を積みながら顔と名前を売り、好条件の契約を得るつもりだったようです。
フランク・ウォーレンの興行で初めて戦ったのは、おそらく1994年1月に行われたピーター・バックリーとの再戦(プロ10戦目/8回戦)ではないかと思いますが、ブレンダンが正式にいつウォーレンと契約したのかはよくわからない。
ブレンダンとの亀裂がついに表面化したウェイン・マッカラー戦(1998年10月31日/アトランティックシティ)が、ウォーレンと組んだ最後の試合になった。
イングル親子に別れを告げたハメドは、ウォーレンとの関係も清算。
実弟リアスを代表者に据えて自身の会社を興し、セルフ・マネージメントに乗り出す。
しかし、いきなり選手兼プロモーター(マネージャー)の1人2役が務まるわけもなく、バリー・ハーン(マッチルームスポーツを率いるプロモーター)の助けを借りての船出。
プリンス・プロモーションズを名乗ったけれど、支配下選手は事実上ハメド1人。
自ら興行会社を立ち上げながら、プロモーター・ライセンスを取得せず、マネージメントはアル・ヘイモンに一任し、ゴールデン・ボーイ・プロモーションズとプロモート契約を結んで活動していたメイウェザーと似たような状況だった。
イングル親子&ウォーレンと決別した後、ハメドは6試合を戦っている。
そのうち、バレラ戦、オーギー・サンチェス戦を含めた3~4試合で、”プリンス・プロモーションズ”の看板を掲げてはいますが、英国内での興行を実質的に仕切っていたのはバリー・ハーンです。
WBC王者セサール・ソトとの統一戦(1999年10月/ジョー・ルイス・アリーナ、デトロイト)を直接ハンドリングしたのは、マッカラー戦で米国側を差配したセドリック・クシュナー(先月66歳の若さで逝去)でしたし、バレラ戦はトニー・ホールデンを頭に、独立する前のルー・ディベラ、トップランクに在籍していたショーン・ギボンズ(現在はメキシコのザンファー・プロモーションズに移っている)らがマッチメークに関わった。
最も長く組んでいたのはフランク・ウォーレンですが、バリー・ハーンの存在も忘れてはいけないようです。
*ハメドに関する他のご質問への回答 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1186584071 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11138828056

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