1967年に勃発した第三次中東戦争を受け、国連安保理はイスラエルに対し占領地区の開放を勧告する決議を採択した。世界中の企業がこれに呼応して貿易ボイコットを開始、翌1968年にはトヨタ・日産・本田技研が出荷停止するなど日欧の自動車メーカーも追随した。一方、時を同じくしてラビットスクーターが生産終了することとなり、以前からラビットをイスラエルへ輸入していた業者はこれを受けてスバル360に着目し、さっそく同1968年より取扱い始めた。彼らは翌1969年に現地企業(英)"Japanauto Israel Auto Corporating Ltd."を設立、同年からff-1も販売開始。後にレオーネが主力商品となった。こうした経緯から、(非公式にではあるが)富士重工業は海外初進出国として
同国への輸出を開始することとなった。加えて、当時は輸入車の多くが排気量やボディ形状の関係で高額な関税が課せられており庶民向けの選択肢が小型車に限られていた中、小排気量ながら比較的大きな車体を備えたスバル車は同国民の需要にも合致した。この結果、ダイハツ工業が1983年に輸出解禁するまでの10年以上に渡り、同国の乗用車市場において大きなシェアを獲得する結果となった。1988年、三菱自工が現地法人を設立したのを皮切りに輸出再開が相次いだのに加え、90年代には韓国車の輸出攻勢も始まった結果、富士重工業のシェアは非常に小さいものとなっている。なお、本エピソードを下敷きとして、映画「ピンク・スバル」が2010年に製作された。