ホンダNSX-Rの中古車
販売期間:2003年10月から2005年12月
件のホンダNSX-Rの中古車
|
ホンダNSX-R |
本田技研工業
本田技研工業株式会社(ほんだぎけんこうぎょう、英称: Honda Motor Co., Ltd.)は、東京都港区に本社を置く日本の大手輸送機器メーカーである。通称「ホンダ」、「Honda」。オートバイの販売台数、売上高は世界首位。自動車の販売台数は世界第7位(2015年度)。TOPIX Core30の構成銘柄の1つ。
本田宗一郎が1946年に静岡県浜松市で本田技術研究所を起業し、後に本田技研工業へ改組した。二輪車(オートバイ)、四輪車(自動車)およびライフクリエーション事業(汎用製品:耕耘機・芝刈機・除雪機・発電機・船外機)を主要事業としている。また、新規事業としてHondaJet(ホンダジェット)と呼ばれる小型ジェット機及びターボファン式ジェットエンジンの開発・生産、二足歩行ロボット「ASIMO」に代表される各種ロボティクス機器の研究開発、風力発電施設による売電事業なども展開している。米ブランドコンサルティング会社のインターブランドが発表した2019年の世界ブランドランキングでは、日本の企業では7位のトヨタに次ぐ21位である。
日本での販売網は、四輪販売店がホンダカーズ店、二輪販売店がホンダドリーム店に大別できる。発電機や刈払機等の汎用機を専門に扱う店舗ブランドは存在しない。
小型車・軽自動車を主に扱っていた旧プリモ店の運営会社の出自が自転車店、オートバイ店、機械工具店、マリーン・船外機取扱店、農機具取扱店であったり、地元有力者の中小の商店や企業などで委託販売形式を採用していた名残があり、地元に密着した販社が多い。
二輪車では無いレンタカー事業は、トヨタや日産など同業他社よりも早い1964年に参入したが、5年後の1969年に撤退、現在は日本国内全域を網羅する自社ブランドのレンタカー会社を持たない。ニッポンレンタカーやオリックス自動車、沖縄ツーリストと提携して、ホンダ車専用の予約サイトをこれら3社に運営委託している他、期間・地域限定でホンダ車を安価でレンタルできるキャンペーンを展開している。その後、二輪車のレンタカー事業としてホンダGOバイクレンタルを2020年4月6日から開始した。このサービスは予約から支払いまで全てオンラインとしているのが大きな特徴である。
2011年に発売したN-BOXシリーズの大ヒット以降は、国内販売の半数を軽自動車が占めるようになっている。
北米では大衆車ブランドのHONDAと高級車ブランドのAcura(アキュラ)で展開、大衆車では大きなシェアを占める。北米での売上は大きな収入源で、日本では販売していないATVやパーソナルウォータークラフトなども取り扱っている。
ホンダの中国展開は、1973年に本田宗一郎が自ら訪中して中国展開を決意し、二輪車の輸出を始めた。1982年には重慶市のメーカーと技術提携して現地での二輪車部品生産を開始した。1992年には重慶市、広州市ならびに天津市に合弁企業による二輪車生産工場を設けた。本格的な四輪車の販売へ乗り出すべく、1993年には香港にHONDA CHINAを設立した。当時は現地生産車ではなく輸入車のみではあったが、中国での販売とアフターサービスを行った。本格的な四輪車の生産は1994年に、東風汽車(武漢)との合弁で設立した東風本田零部件有限公司で始まった。1998年には広州汽車(広州)と合弁し、それまでの合弁相手だったプジョーが撤退した後の工場をそのまま譲り受け、アコードやフィットなどの生産を始めた。プジョーと合弁していた時代からの従業員を本田流に指導し、高品質の製品が作り出されるようになった。今では広州本田だけで年産24万台に発展し、広州市のパトカーにもホンダ車が使われている。
創業者の本田宗一郎は経営者・技術者として著名であり、社名は本田の姓から名づけられた。通称および日本の各証券取引所での表示は「ホンダ」。
ロゴはアルファベット大文字の「HONDA」を赤色でデザインしたもの。2000年末よりロゴを使用しない場面での社名表記として、ホンダのCI(コーポレートアイデンティティ)に基づくVI(ビジュアル・アイデンティティ)として、ホンダ自身が「コミュニケーションネーム」と呼ぶ表記を用いるようになった。これはアルファベット表記で「Honda」とするもので、ホンダ自身が積極的に用いると共に、報道機関に対し社名の扱いを「Honda」もしくは縦組の場合は「ホンダ」の表記を要望している。
この他、それぞれの開発分野の独自性を示す意味で、二輪車用には翼をイメージしたマークと「HONDA」のロゴとの併用、四輪車用は「H」をデザインしたマークをそれぞれ専用のロゴマークとして採用している。四輪車でも、1980年代までは「H」マークと「HONDA」のロゴとが併用されていたが、2016年現在では「H」マークに統一されている。発電機などの汎用製品の場合には「HONDA」のロゴのみとなっている。
藤沢武夫の「(ホンダの)社長は技術者出身であるべき」という言葉が今も守られており、現職の八郷隆弘に至るまで、歴代の社長はすべて技術者出身である。そのうち福井威夫まではエンジン開発部門の技術者であり、本田宗一郎以外の全員が四輪F1もしくは2輪WGPのエンジン開発経験がある。また、本田宗一郎、藤沢武夫の両人とも、子供をホンダに入社させない方針であった。創業初期に重要な役目を担った本田の実弟・弁二郎も退社させている。その後、弁次郎はホンダの部品メーカー本田金属技術を、長男の博俊はホンダのアフターパーツメーカー「無限」を創業した。
創業者一族による会社の私物化の弊害を恐れる本田の信念が貫かれ、縁故採用は一切行わず、実力本位の採用を行っている。もっとも、初期の頃は本田と自身の父親が知り合いだった縁で入社した2代目社長の河島喜好のように親戚・口利きで問題なく入社することができた。縁故採用を行わないルールを作成したのは、会社がある程度大きくなってからのことであり、縁故採用を行うわけにはいかない本田宗一郎の個人的事情が陰にあった。一方で中途採用には積極的であり、初期の自動車開発を進め、F1監督も務めた中村良夫を始め、ASIMO開発の中心者である広瀬真人、SH-AWDなどの駆動力制御が専門である芝端康二も中途採用組である。ほかにも本田の思想が反映した事例としては、社長室がない、重役達は一つのフロアを共有しているという特徴がある。
労働環境は、ほかの自動車工場より良いといわれる。良い例が、連続2交代制勤務といち早く週休2日制を導入したことがあげられる。また、従業員の作業服の洗濯も無償で行っている。また、ほかの自動車工場に比べ、女性の進出も多い。現場主義で知られ、新入社員は工員以外にも、事務職・技術職・また男女の性別を問わずに、各製作所で半年間程度の研修をさせている。
他社と比較して、テレビコマーシャルに有名芸能人をあまり起用しない。CMソングも国内楽曲ではなく、CM専用に制作したものや海外の楽曲が使われるケースが多い。芸能人を起用しない理由としては、安易に芸能人のイメージに頼らない独自路線に加え、テレビコマーシャルに芸能人を起用すると、販売不振に陥るというジンクスがあるためとされている。一方、2010年代以降はCMに邦楽を使用することも多くなっている。
日本の自動車メーカーの中では知的財産権に関する取り組みが早く、1980年代以降、ホンダ車を製品化したプラモデル・ミニチュアカーにはパッケージに「本田技研工業承認済」(現在はHonda Official License Product)の文字が記載されるようになった。これは創業者の本田宗一郎が「ウチの車を製品化するときは、できる限り似せて作って欲しい」と発言したことにも由来する。ゲームについては、一般車両が混在して走るレーシングゲーム(首都高バトルシリーズなど)には版権を許諾していなかったが、2017年に登場したスマートフォンゲーム「首都高バトルXTREME」で初めて、アザーカーが登場するゲームに収録された。
また、ASIMOを開発・製造していることから、自動車がロボットに変形して戦う作品での使用には一定の制約を設けており、「トランスフォーマー バイナルテック」ではロボット変形時に装備させる道具を武器としないことでホンダ車の商品化に漕ぎ着けた経緯がある。また、2012年から商品展開された「超速変形ジャイロゼッター」でも、日本の自動車メーカーの車両が多数登場する中で一台も登場していない。これについてホンダ側は「イメージに合わないためお断りした」と回答している。
1971年には、低公害技術であるCVCCを発表。米国でマスキー法という環境規制法が成立しており、その規制開始期限までに規制に対応するエンジンは世界中のメーカーが開発不可能と言われていたほど厳格な規制であった。そのマスキー法の条件をクリアしたのが、当時、日本の中小メーカーだったHondaであり、Hondaの名前を世界に知らしめた。翌年から翌々年にかけてトヨタ、フォード、クライスラー、いすゞに技術供与した。
近年は、ハイブリッド車インサイトやシビックハイブリッドなどの二酸化炭素の排出量の少ない車両の本格普及に向けての低価格なハイブリッドカーの販売、地球環境産業技術研究機構(RITE)との共同研究による、稲わら、麦わら、コーンの茎などの農業廃棄物や木屑などのバイオマス資源からエタノール燃料を効率的に生産する循環型エネルギー技術の開発、、有志による海岸の清掃活動など、多岐に渡っている。
また日本国外では、中華人民共和国内モンゴル自治区通遼市のホルチン砂漠での植林作業を展開し、砂漠緑化活動も毎年行っている。
これらの環境問題に対して積極的に取り組んでいるだけでなく、来るべき未来に向けた次世代環境技術の実践開発として、水素燃料電池自動車FCXクラリティのリース販売、環境負担の少ない水素燃料生産供給インフラ「太陽電池式水電解型水素ステーション」、既存の都市ガスなどの天然ガス供給インフラから水素を製造しつつ、燃料電池コージェネレーション機能によって家庭用の熱(給湯や暖房など)および電力の供給を行う「ホーム・エネルギー・ステーション」の開発及び実験稼動も行っている。
(2019年6月19日現在)
以下、特に断りのない限り、出典は、及びによる
自転車用原動機製作が社業の始まりとなり、ヒットを記録。その後、原動機付自転車の分野でスーパーカブが空前絶後の大ヒット、全世界で使用された。これによって、「スーパーカブのHonda」と知名度を大いに上げ、国際二輪業界において日本のメーカーが覇権を握る下地となった。スーパーカブは全世界通算で1億台(2017年10月末時点)が製造され、「世界で最も多く製造されたオートバイ」となっている。
社の業務として「モータースポーツの振興」を挙げるだけあって、スポーツモデルにも力を入れており、二輪ロードレースの世界最高峰カテゴリであるロードレース世界選手権 (MotoGP)や プロダクションレースであるスーパーバイク世界選手権(SBK)での実績をフィードバックしたスポーツモデルが好評である。また、公道走行可能なバイクだけでなく、ロードレーサーやモトクロッサーなどのコンペティションモデルの市販とサポートにも熱心である。
2008年からは浜松製作所で生産している中型・大型二輪部門を熊本製作所に移管、熊本製作所に二輪車の新工場を建設し浜松製作所の二輪生産に従事する1,500人は熊本製作所に配置転換された。浜松製作所では自動変速機の生産を強化した。
一時期三ない運動により大打撃を受けたが、スズキ、ヤマハ、カワサキといった大手二輪車メーカーらとともに「三ない運動を推進している地域ほど二輪車事故が多発している」と反論を展開するとともに、徳島県内の私立高校と協力して二輪車講習を鈴鹿サーキットで行うなど高校生の交通安全教育に力を注ぎ成果をあげた。
ほとんどの分野、ほとんどの排気量において優秀なモデルを送り出し、オートバイ生産台数世界第1位の座を盤石のものとしているホンダであるが、日本国内向けの需要は年々減少を続け、2009年の日本国内の年間生産台数は18万台までに低下。一方、日本国外の工場では、旺盛な需要の下、インドではヒーロー・ホンダ社、ホンダ・モーターサイクル・アンド・スクーター・インディア社の2社で560万台、インドネシアではアストラ・ホンダ・モーター社が300万台と生産数を増加させており、排気量の多寡があるとはいえ、日本の工場が一大生産生産拠点であった時代は過去のものとなった。
なお、ドイモイによる経済自由化以降、大量の中古オートバイが輸出されたベトナムでは、その品質の高さと並外れた耐久性、修理における簡便性によって人気が高く、オートバイを指す一般名詞としてHondaの語が使われる事がある程である。
2010年7月、ホンダは日本における若者の車離れ(二輪車離れ)に歯止めをかけるため、全二輪車の価格を値下げを発表、スーパーカブ50で約4万円、最廉価のフォルツァで約12万。これと並行して日本で生産している二輪の小型車を全て日本国外での生産に移管させる方針を明らかにしたが、その後円安傾向により国内生産のメリットが高まったため方針を転換し、2015年9月より熊本製作所においてミニバイクを増産することを公表した。2016年10月5日、縮小している国内向け50ccスクーターの生産・開発でヤマハと業務提携を検討、2018年をめどにヤマハの子会社である台湾山葉機車工業が製造している「ジョグ」と「ビーノ」をOEM生産として熊本製作所に移管して製造することとしている。
現在に至るまで前輪駆動車の割合が非常に多いのが特徴。創業者の環境に対する理念に基づき、初代シビックを筆頭として、優れた量産車を環境に配慮した柔軟な製造体制を持つ、四輪車を日本国内外の製作所にて生産している。
四輪初期は宗一郎の英国車への熱い思いが製品にも影響しており、シビックは英国オースチンのミニに感銘を受けて作られたと言われている。後の1972年、ホンダはオースチンを有するブリティッシュ・レイランド社と提携、資本や技術の提供を行うこととなる。
また、世界に先駆けて走行時に排出ガスを全く生み出さない水素燃料電池自動車の本格普及を目指し、2008年から米国と日本にてリース販売を開始した燃料電池自動車「FCXクラリティ」の年間数十台程度の需要状況に合わせ、ホンダ新機種開発センター(栃木県塩谷郡高根沢町)に燃料電池車専用の小規模組み立てラインを設置した。
現在日本国内で販売されているホンダ車は新車販売時に一部他社が設定する寒冷地仕様を設定せず、全国共通仕様にすることで基本的に日本全国価格が均一であり、地方や季節を選ばずトラブルなく走行することができる。
4輪車製造において、現在全世界マザー工場として機能させている鈴鹿製作所の近接地に、国際的に有名なレーシングコース鈴鹿サーキットを1960年代から有するホンダは、モータースポーツへの積極的な参戦やそれらレースシーンを中心とする自動車文化を愛する社風とも相まって、スポーティーなモデルを得意とし同社のリーディングイメージとしてきた。
そのような憂いなき歴史的背景をもつ反面、初代オデッセイに始まる“クリエイティブ・ムーバー”シリーズの登場までは、RVやミニバンなどのファミリーユーザー向けの商品ラインナップはステーションワゴンであるシビックカントリー、シビックシャトル、アコードワゴン、いすゞ自動車よりOEM供給を受けたジャズ、ホライゾン、ローバーグループ(現:ランドローバー社)よりOEM供給のクロスロードしか存在せず、バブル期のF1ブームや好景気を追い風とする幅広い層のホンダユーザー増加によるさまざまなニーズに応えられない状況にあった。
しかしながら、余暇における有意義な時間の創出と日常での利便性の両立を追求した初代オデッセイの登場以降、CR-V、S-MX、ステップワゴンと続く一連のクリエイティブ・ムーバーシリーズの発売前後から、RVやミニバン、ワゴンなどのファミリー向け製品の開発を進め、昨今では、3.5L V6エンジンも選択可能なフルサイズミニバン エリシオン及びエリシオンプレステージ、ステップワゴンに新たなデザインテイストを加えたステップワゴン・スパーダ、7人乗りも選択可能なコンパクトミニバンフリードなど幅広い商品ラインナップを揃えている。
オデッセイの誕生以前、OEM供給を受けるなど自社開発が遅れていたRV/SUV部門に措いては、CR-Vの大ヒットにより遅れを一気に挽回し、5代目となる現在では、「ホンダのRV=若者向け」といった市場の固定観念を覆すミディアムクラス高級SUVといった趣となっている。
ステーションワゴンにおいても、各国でロングセラーモデルとなったアコードワゴン(現アコードツアラー)を中心に、2011年に登場したエントリークラス ステーションワゴンのフィットシャトル、2000年に7人乗りのステーションワゴンとして5ナンバーセグメントに新たな流行を生んだストリームなどが発売されている。アコードツアラーにおいては、尿素を用いずに欧州排出ガス規制()をクリアさせた、CO排出量において優位性を持つクリーンなディーゼルエンジン(i-DTECエンジン)を搭載し、環境に配慮した製品を欧州にて販売するなど国際市場での環境対応も計っている。
RV、SUV、ミニバン、ワゴンといった収容性や利便性を優先的に追求されるファミリー向けの製品に対し、セダン並の操縦安定性や運転する楽しさを兼ね備えさせている事が全体を通してのホンダ車の特色である。
またこれらの車両を用い、同社が福祉車両製品として長年研究、開発している製品群の中で介護車、および自操車と分類される製品を、今後増加するシルバー世代の生活の質の向上や、身体に障害を持っている方々の積極的な社会参加や快適な生活を送るための支援を目的に販売している。
コンパクトカーの分野では、2002年、フィットがトヨタ自動車のカローラを販売台数を上回りトップとなり、2003年にも一時追い抜くなど躍進した。現在も月別販売台数で1~6位(2004年1~8月データによる)の成績を維持している。
2006年(平成18年)度、日本国内の省エネ法改正などの車両の省エネ対策の法的強化を受けて、フィットを土台にしたハイブリッド車2代目インサイトも開発された。
軽自動車の分野においては、高い衝突安全性を持つN-WGN、スーパーハイトワゴンのN-BOX、のミッドシップエンジン採用の軽ワゴンバモス、ダンプやリフターなどの特装車も選択可能な軽トラックのアクティトラック、快適で確実なワークタイムをサポートする軽商用バンのN-VANなど、快適性などを犠牲にすることなく、高い環境性能を達成している。なお、1998年にトゥデイが生産終了となってからは、一般的な機械式立体駐車場に入庫可能な軽自動車(全高1,550mm以下)は2015年にN-ONEのローダウンモデルが発売されるまでの間生産していなかった。
ハイブリッドカーにおいては、パラレル式と分類されるハイブリッドシステム(Honda IMA)をCO排出量の削減及び燃費向上を目的に幅広い普及を目指して自社開発し、現在販売しているハイブリッド専用車インサイトに、昨今これらの環境車需要が増加している中、比較的安価なコストで搭載している。
ホンダのハイブリッドシステムは、走行状況に応じてエンジンの燃焼を休止させるi-VTECエンジンと、加速時における単一の薄型ブラシレスモーターからの出力の利用、および同一モーターによる減速時の回生発電を行い、比較的容量の小さい専用二次電池へのエネルギー回収を行う軽量でコンパクトなシステムであるため、幅広い車種への安易な搭載が可能とされている。シリーズパラレル式と分類される他社系の採用しているハイブリッドシステムは、加速用電気モーターでの動力補助および、減速時に於ける回生発電装置によるエネルギー回収をする仕組みであり、加速用電気モーターと回生用発電装置を別に必要とする。
2009年4月1日、同社が本格的な普及に対する若干の足踏み状態の要因として抱えていた二次電池供給元からの供給可能量などの経営コンセンサス的問題を解決するために、ハイブリッドカー用リチウムイオン電池の製造・開発を専門とする「株式会社ブルーエナジー」をジーエス・ユアサコーポレーションとの共同出資により設立し、二次電池調達体制の再構築を行った。
2020年10月にはホンダ初の電気自動車としてホンダ・eを発売した。同車は街中での小回りを重視するため、21世紀の量産自動車としては異例となるリアエンジン・リアドライブ方式を採用している。
最近では、一般ユーザーが休日にサーキットまで自走して、安全かつ気軽にサーキット走行を楽しめることをコンセプトに開発された「タイプR」というスポーツモデルをシビック(インテグラ、NSXは生産終了)に設定している。
また、現行シビックタイプRをベースとした安価なレース専用車を一般向けに販売すると共に、ホンダの車を使用したアマチュア~プロ志望者向けの年間シリーズレース「ホンダ エキサイティングカップ ワンメイクレース」を1981年から現在まで長きにわたって開催している。
また、4ドアセダンの分野においては、世界各国でロングセラーとして現在まで販売されているシビックおよびアコード、走行状況に応じて燃焼気筒数を切り換える可変シリンダーシステムを採用するレギュラーガソリン仕様のV6エンジンを持つインスパイアなどがある。
ホンダのイメージアイコンとして1990年から2006年の長きにわたり生産・販売されたNSXは、特別な思い入れを持つ多くのユーザーの「NSXに長く乗り続けたい」という求めに応じて、メーカー製造工場にて経年車へのエンジンや内装、足回りなどの念入りな機能修復サービスを受けられるNSXリフレッシュプランを1993年から実施している。なおNSXは2016年から新型が生産・販売が開始されたが、初代のリフレッシュプランも引き続き継続して実施している。
近年、過去に同社から販売されていたS800などのイメージを継承し、ホンダ創立50周年記念車として発売されたS2000は、1970年以降に発売されたホンダ車では唯一のFR車である。このS2000は、高出力高回転型に改良された自然吸気のF20C・VTECエンジンを用い“排気量リッター当たり125PS”、2.0Lで250PSの性能を誇っていた。さらにこのS2000は、他のホンダ車と部品を共用していないなど(他メーカーの車両と部品を共用している部分はある)収益があまり見込めない趣味性の高い車に、独自の車台やコンポーネンツを専用設計として開発されている。
北海道の鷹栖町に巨大なテストコースを持ち、そこで熟成され鍛えられた車種も数多い。
2004年10月7日に発売されたレジェンドは新開発の四輪駆動システムSH-AWDを採用し、出力のメーカー自主規制の緩和にともない、国産の量産車では初めて280PSを超える300PSとなった。
レジェンドに搭載されているSH-AWDは、単純な前後の駆動力配分の制御だけでなく、後輪左右駆動輪間において可変駆動配分制御を行う事を目的に、リアデフ内のプロペラシャフト後端部分の動力伝達経路に増速機構と、後輪の左右駆動輪間に駆動力差を生み出すために小型電磁クラッチをデフ側の左右ドライブシャフトのエンドエリアに搭載し、コーナリング時に意図的に外周側の駆動輪に多くの駆動力を伝達する高度な動的制御を行う事により、より自然な感覚での旋回性能の向上および、滑りやすい路面状況下での走行安定性の向上を図っている。
なお、タクシー・パトカー専用車両(市販車と異なる仕様で製造された車両)は過去も現在も全く生産していない。また、同業のスズキと同じく軽自動車クラス以上のトラックやバスを生産していない。
自社製の汎用ガソリンエンジン(汎用エンジン)を利用した耕うん機、芝刈機、運搬車、ポンプなどの農業機械、除雪機、発電機、電動カート「モンパル」、船外機、家庭用ガスコージェネレーションユニット、太陽電池パネルなどを生産している。
ホンダの汎用事業は、創業者の本田宗一郎が、オートバイで培ったガソリンエンジン技術で「世の中の人々の重労働を軽減したい」という思いからスタートした。ホンダ初の汎用製品は1959年に開発・発売した耕うん機「F150」であり、小型ガソリンエンジンを搭載した耕うん機を低価格で提供したことによって、1959年当時、ケロシンエンジンやディーゼルエンジンが主流であった農機業界において大ヒット商品となった。
その後、ソニーの創業者井深大の要望を受けて超小型の発電機を開発したり、世界の環境規制に先駆けて4ストローク船外機にチャレンジしたりと、各分野で業界に先駆けた取り組みを続けている。
1980年、誰でも簡単に取り回しができる超小型耕うん機「こまめ」を発売。業界の常識を覆したこまめは後の家庭用ミニ耕うん機市場を創出するきっかけとなり、2003年「サラダ」、2009年「ピアンタ」を中心に、相次いでヒット商品を開発している。
特にピアンタは、家庭用カートリッジこんろで使うカセットボンベ1本で簡単・パワフルに働く耕うん機として、年間1万台を上回る大ヒット商品となっている。
近年でみると、太陽電池事業にも参画。熊本県にソーラーパネルの量産工場を持っており、日本国内を中心に事業を展開。甲子園球場の屋上にもHondaのソーラーパネルが設置されている。
創業者である本田宗一郎は航空機開発の夢をもっており、二輪車用に翼をイメージしたマークを採用したのもこのためとされる。しかし三菱重工や川崎重工など戦前からの航空機メーカーと異なり航空関連の技術者がおらず経験も無いため、基礎技術から習得する必要と判断し1962年頃から行動を開始した。
1962年頃、航空機技術者を確保するため、学生向けの軽飛行機の設計コンテストのスポンサーとなったり、新聞に軽飛行機技術者の求人広告に掲載するなどし、吉野浩行は前者で川本信彦は後者で入社した。またジェットエンジンの開発を目指しガスタービンエンジンやガスタービン自動車の研究も行った。
1964年、航空事業のノウハウを収集するため本田航空を設立、ホンダエアポートを整備した。
その後小型機の改造などで技術開発を継続したが、この時点では大々的に公表していなかったが、本田技術研究所に航空用エンジンや機体の開発部門を集約するなど体制を強化していった。
2006年7月25日、超軽量ジェット機への本格参入を表明し新型機HondaJetを公表した。当初は2013年の販売を目指すとした。
2006年8月、航空機部門をホンダ エアクラフトとして独立させ、航空機開発の拠点をアメリカに移す。
変わったところでは「ホンダ社食のカレーうどんの素」がある。これは、ホンダの各事業所にある社員食堂にて金曜日限定で販売されるカレーうどん(レシピは各事業所ごとに異なる)のスープ部分をレトルト化したもので、2017年よりホンダの関係者向けに販売されていたが(製造はホンダ開発)、2020年からはホンダウェルカムプラザなどでの一般販売も行われるようになった。2020年現在は埼玉製作所/浜松工場/鈴鹿製作所/栃木研究所/熊本製作所の5種類が販売されている。
過去にはフォード・モーター車(1975年~1979年)やジープ(1990年~1997年)車を扱っていた時期があった。
2008年秋に「アキュラ」ブランドの国内進出が予定されていたが、2010年以降へと一旦延期、結局、急激な不況のあおりを受け、最終的に国内進出自体が白紙撤回された。
かつての販売系列
2018年4月より販売網の再編成を実施。異なる客層へのサービスの違いを明確に分ける体制とする。
2009年から2010年にかけて、インスパイア、アコード、シビックなど国内外の計約95万台に対して、エアバッグに関するリコールを行った。内容としてはエアバッグの膨張装置に不具合があり、エアバッグ展開時に膨張装置が破裂して金属片が飛散し、運転者を負傷させるものであった。米国では本件に絡んだ事故が計7件報告されており、うち死亡事故については飛散した金属片が運転者の首に刺さり、致命傷となった。
2010年5月、中国広東省仏山市にあるホンダ系列の部品工場にて、大規模なストライキが発生、
直後に他系列工場にも飛び火、江蘇省の台湾系機械工場では警官隊と従業員が衝突、50人が負傷する事態に至った。
この影響により同国内の4つの組立工場が操業停止に追い込まれ、約2週間に渡るストライキによる損失は生産高ベースで400億円以上に達した。
事件の背景として、現地の日本人駐在員との50倍にのぼる給与格差が挙げられる。当該工場の女性従業員の手取り給与が平均1千元であるのに対し、日本人駐在員は5万元であることが指摘された。従業員側は経営側に日本人駐在員の給与を公表するよう迫ったとされる。
1968年から1969年にかけて子会社工場で勤務していた男性が、当時アスベストを吸ったことが原因で中皮腫を患ったとして、後に子会社を吸収したホンダに対して約9,600万円の損害賠償請求を起こした。2010年12月の判決ではアスベストと中皮腫の因果関係が認められ、男性に対して約5,400万円(うち約2,000万円が慰謝料)の支払いが命じられた。自動車業界において、アスベスト被害が認定された初のケースとなった。
2010年12月、米国における同社のインターネットサイト利用者のうち、約490万件の個人情報が、外部からの不正アクセスにより流出していたことが判明した。個人情報には名前、メールアドレス、車両番号が含まれる。約490万件のうち、約220万件がアキュラ所有者の車両番号など、残る約270万件がニュース配信を受けている者のメールアドレスとされる。
同年5月、約28万人分の顧客情報がカナダで流出したことが判明した。流出した情報は、2009年に登録された顧客の名前と住所、車両番号などとされる。
2006年9月20日にフォード・モーター、ゼネラルモーターズ、ダイムラー・クライスラー、トヨタ自動車、日産自動車と共にカリフォルニア州検事総長のビル・ロッキヤーによってオークランド地方裁判所に地球温暖化の対策を講じてこなかったとして起訴されている。
2020年10月改編で、多くの番組のスポンサーから撤退した。
など
など。
など多数。
詳しく見る
ホンダ・NSX
NSX(エヌエスエックス)は、本田技研工業が生産、販売していた2シーターのスポーツカーである。本稿ではNSXタイプS (NSX-S)、NSXタイプR (NSX-R) についても述べる。
キャッチコピーは『』、『緊張ではない、解放するスポーツだ』。
車名はホンダの新しいスポーツカー、「ニュー」「スポーツカー」と未知数を表す「X」を合成させたの略である。
もともと第2期F1参戦を機に「世界に通用するHondaの顔を持ちたい」との願いから発売された車であり、バブル景気絶頂期の1989年に発表、翌1990年9月14日の販売開始から2006年1月末までの16年間の長きにわたってフルモデルチェンジを行うことなく製造され、2005年12月まで販売がなされた。価格は販売当初は1グレードのみの800万円(AT仕様は60万円高)に始まり、車両の改良や装備の追加などによる値上がりとカスタムオーダープランへの対応で900万 - 1,500万円台となった。なおこの15年間は当時のスポーツカーの新車価格では日本車最高額だった。ホンダにおけるフラッグシップの役割を担っていたが、NSXの生産終了以降はレジェンドにその座を譲った。
運転席後方に搭載し後輪を駆動するミッドシップエンジン・リアドライブ (MR) を採用している。また、当時市販自動車として類を見ない世界初の「オールアルミモノコック・ボディー」を採用した。1990年にはこのボディ構造が、社団法人自動車技術会の「日本の自動車技術180選」の「車体」部門で「剛性解析により理想的な高剛性設計とした」として選出されている。その特殊性から、工場に発電所を併設したり、大工場での産業用ロボットによる流れ作業製作ではなく、エンジン同様、車両の生産は全て手作業で行っていた。このような特色と価格帯から、日本車で唯一のスーパーカーと評された。
日本での販売店はベルノ店。日本国外ではホンダブランドのほか、北米ではホンダの高級車チャンネルのアキュラブランドから発売。日本名と同じ「NSX」の名前で販売された。欧米で2006年から始まる燃費・排ガス環境規制への対応が難しいため、欧州向けは2005年9月末、北米向けは同年12月末、国内向けは2005年をもって生産終了となった。
初代の発売から6年半前の1984年、ホンダ車の得意分野である前輪駆動とは異なる、別の駆動方式を本田技術研究所が基礎研究していた際にMR駆動方式の開発に着手したことが契機となる。開発責任者は、先述のMR駆動方式を開発研究していた上原繁が担当した。操縦安定性を専門に研究していた上原の意向でハンドリングにこだわるスポーツカーを目指すことになり、軽量なオールアルミボディーの採用など、当時の革新的な技術が開発・採用されるに至った。
開発に当たっては高級高性能スポーツカーが比較対象になったが、特にフェラーリのV8モデル フェラーリ・328を越える走行性能を目指して開発され、当時個体性能差が大きかった328をデータ取りのために何台も購入したといわれている。開発段階からアイルトン・セナや中嶋悟など、当時ホンダがエンジンを供給していたF1チームのドライバーが1日のみ走行テストに参加した。車両をテストした彼らからボディー剛性の低さを指摘されたため、過酷なコースレイアウトで有名なドイツのニュルブルクリンクなどでの走行テストを繰り返し実施したとも言われている。当時ニュルブルクリンクでの走行テストは、テスト車両のみを持ち込み走り込むというものが主流である中で、サーキットに程近いミューレンバッハ村にテスト基地を建設し、8か月(冬季は封鎖)にわたり走行テストを繰り返すという姿勢で開発に臨んだ。その結果、世界初のオールアルミ製軽量高剛性ボディーが完成した。
搭載するエンジンはさまざまな案が提案され、当初は軽量スポーツカーのパッケージング案から、2.0 Lの直列4気筒エンジンが搭載される予定だった。しかし社内事情やアメリカ市場を見据えたリサーチなどから、ホンダ・レジェンドのエンジンC27Aをベースにした3.0 L・V6 SOHC (250 PS / 6,800 rpm) へと計画の変更を受けた。さらに同社B型エンジンに追加された新機構のVTECに対する市場の好評を受け、DOHC VTEC化がなされた。DOHC化によりシリンダーヘッドが大きくなることから、ホイールベースの延長を余儀なくされたが、エンジンを傾斜させることにより全長を30 mm延長する事で対処した。
外見の特徴であるリアオーバーハングの長さの理由は二つあり、ひとつはマフラーをエンジンルームから遠ざけ、ルーム内の温度上昇を防ぎエンジン補機類の寿命を延長すること、もうひとつは空力性能の向上による高速走行時の姿勢安定性の向上のためである。副次的作用として、ゴルフバッグが搭載可能なトランクが用意され、スペシャリティーカーとしても高い実用性を有している。
当時のスーパースポーツの多くは車中心の考え方で設計されており、運転姿勢や快適装備などでドライバーに負担を強いる部分が多数あったのに対し、本車ではそれを考慮してドライバー中心のスポーツカーとすることを目標とした。
たとえばスタイリング上の特徴に、F-16戦闘機のキャノピーをモチーフとしたフロントウインドウがあり、従来のスーパーカーと比較して運転席からの視界が良好である。実際に運転席からの水平方向の視界は311.8度ある。
1990年に登場した。エンジンは前述の通りC30A型エンジンを搭載している。また、通常仕様のクーペから快適装備を外して軽量化を図ったピュアスポーツグレードの「タイプR」が、1992年11月から3年間の期間限定で日本国内でのみラインアップされた。
1993年2月に助手席エアバッグ、シートベルトプリテンショナー及び5速マニュアル車に電動パワーステアリングがオプション設定された。
1994年2月に最初のマイナーチェンジが行われ、45/40扁平タイヤがオプション設定された。
1995年3月に2度目のマイナーチェンジが行われ、ドライブ・バイ・ワイヤ (DBW) やAT仕様車にFマチック(ステアリングコラムのスイッチによるマニュアルシフト)が追加された。また、オープントップ(タルガトップ)仕様の「タイプT」が追加された。
1992年11月27日に登場した。エンジンは標準車と同じV型6気筒 DOHC VTEC 3.0 L C30A型であるが、クランクシャフトのバランス精度や、ピストン及びコネクティングロッドの重量精度をより向上させ、レスポンスの向上が図られている。内部は約120 kgの軽量化(遮音材や快適装備の削減、バンパー及びドアビームのアルミ化、エンジンメンテナンスリッドのアルミメッシュ化、レカロ製フルバケットシート、モモ製ステアリング、チタン製シフトノブ 等)が行われており、ヨー慣性モーメントの低減や重心高の低下が図られ、サスペンションセッティングもサーキット走行を視野に入れた造りである。生産期間は約3年間だった。最終的に480台が登録された。
1997年2月にマイナーチェンジがおこなわれ、平成12年排出ガス規制に適合した。外観上は大きな変更はないが、MT仕様車のエンジンが新たに3.2 LのC32B型に変更されたのと同時に、トランスミッションは6速MTとなった。日本国内販売のみ、MT仕様にスポーツグレードの「タイプS」、従来の「タイプR」に相当するものの開発LPLを務めた上原繁によればさらにtypeRが持っている色気を無くしてハードにした「タイプS-Zero」がラインアップに追加された。3.2リッター化に伴う改良はフルモデルチェンジに相当した。(小説NSX参照) なおAT仕様車は、トルクコンバーターの対応出力の都合により、C32B型エンジンの搭載は見送られた。
1999年9月にはエンジンがさらに低公害化され、2000年4月に平成12年基準排出ガス50%低減の「優-低排出ガス」車に認定された。この型からABSユニットの見直しが行われ、小型軽量、かつより緻密な制御の可能なものが採用された。
2001年12月には外観を中心にビッグマイナーチェンジが施行され、衝突安全性を高めるためという理由もあるが、主に空力、そしてフロントの重量軽減を目的に、ヘッドライトを固定式に変更し、フロントボンネット、フェンダー、サイドスカート、リア回り等が新たに改良された。このマイナーチェンジから半年後に「タイプR」が復活した(そのため、「タイプS-Zero」は廃止)。また、2003年10月の小変更ではCDチェンジャー(タイプRを除く)およびイモビライザー(全車)が標準装備化されるとともに平成17年排出ガス規制に適合し、形式記号がLA-NA#からABA-NA#に変更されている。
15年以上にわたり生産されたことと、2006年に欧米で始まる最新の燃費・排ガス環境規制に対応させるとさらに採算がとれないため、2005年12月26日限りで生産終了となった。
2001年に行われたNSXのマイナーチェンジから半年後の2002年5月23日より発売した。2001年東京モーターショーで公開された「NSX-Rコンセプト」が元となる。名称は、I型の「NSXタイプR」から「NSX-R」に変更された。
標準車からの変更項目は基本的にI型と同様であるが、新たに空力性能向上(エア・アウトレット付きボンネット、フロント・アンダーカバー、リア・ディフューザー、大型リア・スポイラー)による操縦安定性の向上が図られた。さらに、ボンネットやリア・スポイラーの素材をCFRPとし、軽量化もより進められた。これにより、市販車で初となるマイナスリフトを実現している。
2005年2月22日に、最後の特別仕様車「NSX-R GT」(型式ABA-NA2)を発表した。3月22日までの1か月間限定でSUPER GT参加のホモロゲーション取得用に5台限定で販売()され、価格は5,000万円であった。相違点はCFRP製エアロバンパーなど外観のみで、エンジン(カタログ参照値280 PS / 31.0 kgf・m)、ミッション、ダブルウィッシュボーン式サスペンション等の基本性能は建前上では変更なしと言われている。
I型とII型に続いてニュルブルクリンクのタイムアタックに挑戦し、黒澤元治による運転で8分を切る7分56秒を記録している。
1989年発表。NS-Xと、SとXの間にハイフンが入っていた。エンジンには同社のセダンであるレジェンドに搭載していたC27A横置きV6 SOHCを改良したものを採用、とした。
1990年のNSX生産開始に合わせて、アルミを電気溶接する際の電力消費を補うために工場敷地内に発電所を備えた専用生産工場を、栃木県塩谷郡高根沢町にホンダ栃木製作所高根沢工場として建設した。当時の日本ではバブル景気が続いており、NSXは発売当初、3年先まで予約の入る人気となり、中古車が新車を上回るプレミアム価格で販売されるという現象もみられた。これに対してホンダは、「約半年で納車できるように」と製造工員を倍にしての二交代体制を敷き、1日あたり25台の生産数を倍にする増産体制をとった。
しかしながら直後にバブル経済が崩壊、発売翌年の1991年(平成3年)になるとキャンセルが相次ぐ事態となった。生産台数は1991年をピークに減少傾向となり、販売開始から10年が経った21世紀以後の年間生産台数は日本国内外合わせて年間300台程度に下落した。
2004年4月にホンダの完成車一貫生産構想に基づき、高根沢工場での生産を終了し、三重県鈴鹿市にある鈴鹿製作所の少量車種専用ライン、TDライン(Takumi Dreamライン)へ生産を移管した。
一方、製造は完全受注生産であり、ほとんどを手作業で製造されることから納車には2か月-3か月半を要していた。月間生産数はわずか10台ほど(日本向けはその半分程度)まで減少していた。2005年7月の生産終了を発表以降は駆け込み需要で注文が殺到し、わずか一週間ほどで生産予定枠の注文数を満たしたことから早々に販売受付が打ち切られた。
生産ラインは閉じられたが、経年車を生産工場に戻し、新車時の性能や質感を蘇らせるNSXリフレッシュプランが継続されている。大規模メーカー自らが行うものとしては、世界的に見てもまれである。
バブル景気で予約が殺到した日本に加えて日本国外でも高い評価を得たNSXは、日米欧で累計1万8,734台を販売、そのうち日本での販売台数は7,415台であった。うち6,000台余りが1991年以前の初期モデルである。
現在の中古車市場におけるNSXの価格は、2005年の生産終了前後から状態の良いものには高値が付くことも多い(とくにタイプRでは顕著)。2007年の段階で6,600台ほどが現存していたという。
元々レース参戦用のホモロゲーションを考慮した車両ではなかったため、1990年の発表当初はレース活動には全く使用されず、エンジンのみが改造され1991年より2年間アメリカのIMSAに参戦 (ACURA-SPICE SE90CL) し、キャメル GTP Lightクラスにおいてドライバーズ、マニュファクチャラーズの両タイトルを2年連続で獲得している。
1992年の「NSX-R」投入以後から、それをベース車両として徐々に日本国内外でレース活動を行うようになる。1993年から2年間はドイツ国内レースの「ADAC GT CUP」(ドイツツーリングカー選手権 (DTM) よりも改造範囲が限定された市販車により近いカテゴリー)に投入し、BMWやポルシェらと戦い優勝もしたが、日本国外のローカルレースのために日本国内ではそれほど話題にはならなかった。しかし、その車両を改良し1994年から3年間にわたってル・マン24時間レースに参戦した際は、日本人レーシングドライバーも多数登用されたこともあって日本国内においても話題となった。1994年はル・マン24時間レースなどの耐久レースで実績を持つクレマー・レーシングが参戦し、相次ぐ駆動系トラブルに苦しみながらも14、16、18位と全車完走した。1995年はGT1クラスにワークス・チーム、GT2クラスにチーム国光と中嶋企画のプライベートチームが参戦し、チーム国光がGT2クラス優勝(ドライバーは高橋国光/土屋圭市/飯田章)を果たした。1996年はGT2クラスにチーム国光のみが参戦し、クラス3位を獲得した。しかしこの年を最後にNSXはル・マンから去っている。
ル・マン24時間レースに参戦したマシンは、全てイギリスのTCPが製造していた。1995年にGT1クラスにエントリーした「NSX GT1」は、車体剛性を高める目的でタルガトップの「NSX-T」をベースとして製作され、さらに高速走行時の安定を図るためにロングテール仕様となっており、3台中2台はターボエンジンを搭載していた。しかしGT1クラスはトラブルや深夜のクラッシュなどで全く成績を残せず、1年で姿を消している。
1996年からは、市販車レース国内最高峰の全日本GT選手権 (JGTC) に参戦を開始した。参戦初年度はル・マンGT2車両を使用したが、翌年よりN-GT車両を使用した。そして、2000年にはGT500クラスで(ドライバーは道上龍)、2004年にはGT300クラスで(ドライバーは山野哲也/八木宏之)年度チャンピオンを獲得しているが、ミッドシップ車に対しての不利なレギュレーションに悩まされて、その後は良い結果が残せなくなった。
選手権の名称が「SUPER GT」となった2005年よりベース車両を「NSX-R GT」に変更した結果、コンスタントに優勝を飾るなどして復調のきざしが見え、2007年には再びGT500クラスで年度チャンピオンを獲得した(ドライバーは伊藤大輔/ラルフ・ファーマン)。また、同年の開幕戦(鈴鹿サーキット)の公式予選にて伊藤大輔が1分49秒842を記録し、それは2014年に車両規定が大幅に変更されるまで更新されることは無かった。しかしそれ以降は再度不利な状況が続き、2009年を最後にSUPER GTから撤退することが表明された。2010年からは、新型車両「ホンダ・HSV-010」で参戦する。
改造範囲が限定された市販車により近いスーパー耐久にも参戦しているほか、全日本ジムカーナ選手権でも1999年・2004年・2005年に山野哲也がシリーズチャンピオンを獲得するなどの活躍を見せている。日本国外においてはニュルブルクリンク24時間レースに2003年から毎年参戦している。
NSX (NA2)のパトカーが日本の栃木県警察高速道路交通警察隊に存在する。本田技研工業から寄贈された車両。DIN規格のオーディオスペースがないためサイレンアンプ、ストップメーターは助手席に装備される。警察車両では珍しく希望ナンバーで「・110」を取得していた。2019年現在も現役で、県内で警察関係の啓発イベントがある際には必ず出動、展示される。
詳しく見る
左右にスクロールして ホンダNSX-Rのグレード別のスペックが確認できます。
| 車種 | エンジン | タイヤ | 燃費 | 中古車 | 評価•レビュー | ボディサイズ | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
NSX-R
3.2
2003年10月から 2005年12月 11,957,000円 クーペ |
エンジン:
V型6気筒DOHC 排気量: 3179cc 型式: LA-NA1 馬力: 280ps トルク: 304(31)/5300 ミッション: 6MT |
前輪:
215/40R17 後輪: 255/40R17 駆動: MR 最小回転: 5.8m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): 8.6km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
円から
円 台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1160 車幅: 1810 全長: 4430 定員: 2人 |
販売期間:2003年10月から2005年12月
件のホンダNSX-Rの中古車
ホンダNSX-Rの最新情報まとめ
新車情報、モータースポーツ、イベント情報など車・バイクで知りたいことがあれば、こちらから検索してみてください。
【約1.5億円で落札】ついにここまで来た。ホンダ NSX-R 後期型が過去最高額を記録|世界で最も希少な国産スーパーカーの実力
2025-05-29 169
トミー100周年を記念し「特別トミカセット」発売。カウンタックにスープラ、GT-R、NSX-Rという「それぞれの時代を代表する名車」が台座とともにひとまとめ
2024-06-24 194
オートアートより1/18サイズのウラカンEVO、ウルスのモデルカーが発売開始!NSX-Rは再生産、そのほかにはフォードGT、ディアブロSV-Rも
2023-02-04 171
ホンダNSX-Rが日本の業者間オークションに登場し、開始価格はなんと「4500万円」!神格化された日本車の相場は天井知らず
2021-07-29 328
【動画】ちょっと待って!GRヤリスがニュルブルクリンクを7:56で走行し、BMW M2、そしてNSX-Rとも肩を並べるタイムを記録する
2020-11-24 415
【動画】ホンダNSX-Rのレストアはこうやって行う!外せるパーツは外して新品へと置き換え新車同様に
2020-09-18 133
未来のホンダNSXはこうなる?初代へのオマージュが盛り込まれた「NSXプロジェクト」
2019-08-02 285
日本で開催されたBHオークション。ホンダNSX Type Rが3080万円、NSX-Rが4840万円、ポルシェ911カレラRSが7282万円など高額落札相次ぐ
2019-06-10 455
ホンダ自ら所蔵するNSX-Rの動画を公開。走行、そして魅力的なエンジンサウンドを奏でる様子も
2018-06-06 498
【試乗】Rの文字が3つも入るホンダCBR250RR。加速はNSX-Rなみ、レッドゾーンは16,000回転まで
2018-05-28 182
ホンダNSXタイプR登場とのウワサ。641馬力、ルックスはレースカーの”NSX GT3”風
2018-05-21 201
もし本物だったら5000万円もするホンダ NSX-R GTが大黒PAに出没! 本物はあの会社の会長が持ってる?
【動画】自宅ホンダミュージアム!? NSX−RにNR750からエイプまで、豪華過ぎるホンダの名車を一斉にエンジンスタート
2018-02-08 434
新型ホンダNSXと初代NSX Rとの対決動画。NSX Rは今でも色褪せない魅力を発揮
2017-02-09 155
全国1台しか売れていない!幻の名車ホンダNSX-R GTを解明! | Carcast[カーキャス]
2016-02-09 143
「スパルタンなリアルスポーツ」と呼ばれたNSX…スパルタンなクルマとはどんな車なのか?
2015-12-31 225
[車の豆知識]車酔い原因と対策
2015-06-12 280