三菱・スタリオン
				
				
					三菱・スタリオン
スタリオン(Starion)は、三菱自動車工業が1982年から1990年まで生産していた車種である。
1982年5月14日に発売。同社が軽自動車を除いて最後に開発した後輪駆動車である。車名のStarionは英語のStar(星)とギリシア語のArion(アレイオーン)のかばん語で、キャッチコピーもそれにちなんだ「ヘラクレスの愛馬、アリオンが今、星になって帰ってきた」であった。
角張ったボディデザインはアメリカ市場を意識したものであるが、ランサーセレステを開発した二村正孝の著書によると、「セレステの後継車として計画されていた『セレステII』のプロトデザインがスタリオンのデザインに直接的な影響を与えた」とされている。「セレステII」のプロトデザインはノッチバックであり、後に自動車雑誌のインタビューに登場した当時の三菱の技術者達も、ギャランΛ/エテルナΛと同じノッチバックデザインのスタリオンを登場させたい意向があったと語っているが、実際に市場に投入されたのはハッチバックのみであった。
当初はG63B型のECIターボモデル、および同キャブレター式自然吸気モデルの2種がラインナップされ、Λと同様にギャランΣ/エテルナΣのプラットフォームを流用しているため、フロントに縦置きされたエンジンで後輪を駆動するFR車である。販売開始当初はΣの後輪車軸をそのまま使用した車軸懸架の車体と、後輪にストラット式サスペンションを使用した独立懸架の車体が並存したが、発売翌年の1983年には独立懸架のみに統一された。
北米市場での競合車種はポルシェ・924ターボが想定され、発売当初、自動車専門誌にサーキットでの924ターボとの比較テストの模様を掲載する広報活動も行われた。ステアリングは当時としては保守的な機構であったボール・ナット(リサーキュレーティング・ボール)方式のパワーステアリングが採用され、欧米の自動車メディアはターボエンジンの高出力とボール・ナットながらもクイックなギアレシオのステアリングを評価した反面、ボール・ナット特有のステアリングフィールの鈍さを辛辣に評価する向きも目立った。
後に、日本車の市販車で初の空冷式インタークーラーターボを装備するモデル、可変バルブ機構式3バルブエンジン+インタークーラーターボのG63BシリウスDASH3×2エンジンを積んだ2000GSR-V、3ナンバーサイズとなるブリスターフェンダーを採用した2000GSR-VR、そのボディにギャランΛ/エテルナΛや初代デボネアに搭載されていたサイレントシャフト付き2.6L のG54B型にインタークーラーターボを装着した2バルブエンジン(シリウスDASH3×2ではない)を積む2600GSR-VRが加わった。
コルディアに引き続き、発売当初のカタログやポスターには長岡秀星によるイラストレーションが多用され、長岡による馬頭をあしらったスタリオンマークがデザインされた。
アメリカ市場を意識していたため、低〜中回転域を重視したトルク重視のエンジンセッティングとなっているのが特徴で、2.6Lエンジンの最高出力は175psであったが、最大トルクは32.0kg-mを発揮していた。クライスラーにもOEM供給され、ダッジとプリムスからコンクエスト(Conquest)の名称で販売されていた。
1983年から1989年まで輸出が行われた。当初はナローボディにG54Bターボエンジンを搭載したLS/ES/ESI/LEが販売され、1986年からは国内の1988年式GSR-VRに相当するG54Bターボエンジン、ワイドボディのESI-Rが追加された。国内仕様とはシートベルトの仕様が異なり電動式のオートシートベルトとなっている他、テールランプもウインカーと連動する赤一色のものが装備されている。最上級グレードのESI-Rには特別仕様として、国内仕様ではオプションであった8段可変ショックに加え、ホイールも国内仕様と同デザインながらも前後1サイズずつ拡幅された物を標準装備した「ESI-R スポーツハンドリングパッケージ(SHP)」が存在した。
同時期にクライスラーに供給された車体は1984年-1986年まではダッジ/プリムス・コンクエスト、1987年以降はクライスラー・コンクエストとして販売、グレードはワイドボディのTSiと、ナローボディ・インタークーラーなしの廉価グレードTechnicaが存在した。
主にG63Bエンジン搭載モデルで展開され、ボディスタイルはナローボディであった。標準モデルのスタリオンターボの他に、GSR-Xに似たラグジュアリーバージョンのEX、インタークーラー搭載のハイエンドモデルのEX2というグレードが存在したが、いずれも国内仕様のTC05-12Aタービンよりも大型化されたTC06-11Aを装備している事が特徴である。ヨーロッパ仕様は旧EC圏のヘッドライト常時点灯規則に対応するため、国内仕様では35Wであったフォグランプが、65Wのドライビングランプに変更されている他、テールランプにはリアフォグランプも内蔵されていた。
イギリスでは1987年からG54B/TC05-12Aのワイドボディ車が販売された。当初のモデルは有鉛ガソリン、触媒なしとして販売されていたが、最終的には改正されたイギリスの国内法制に従い、無鉛ガソリン化と三元触媒装備となり、155 psという出力に落ち着いている。
オーストラリアでヨーロッパ仕様に準じたナローボディ右ハンドル車が販売された。エンジンは2.0 LのG63B(豪州では4G63と表記)で、組み合わされるターボチャージャーは1982年から1985年まではTC06-11A、1985年から1987年まではTC05-12Aという構成であった。
スピードメーターは北米、ヨーロッパ仕様ともに国内仕様の180 km/hメーターに代わり、一般輸出仕様260 km/hメーター、ヨーロッパ仕様240 km/hメーター、1988年製英国仕様160MPHメーター、米国/英国仕様150MPHメーター、1982年製米国仕様85MPHメーターが採用されている。
スタリオンは特にアメリカにおいて人気があり、StarionとConquestを掛け合わせた造語である「StarQuest」という別名が付いている他、現在でも2.6 L車向けの豊富なアフターパーツが販売され続けている。
1980年代のモータースポーツでは三菱を代表するレーシングベース車両として、国際格式の幾つものカテゴリーに参戦していた。特にサーキットにおけるグループAとグループNカテゴリーでの活躍が顕著である。Simmons drumsにスポンサードされたスタリオンを駆るアンディ・マクレナンは多くのレースで勝利を収めた。アメリカではスタリオンは耐久レースでの活躍で知名度を得た。2.6 L G54Bターボエンジンはロータスエンジンのチューニングで著名であったDave Vegherの手によりチューンされ、デーヴ・ウォーリンの率いるチーム・三菱のスタリオンは1984年から1987年までのLongest Day of 24時間耐久レースを制した。また、チーム・三菱のスタリオンはその4年間 (SCCA) の米国選手権で多くの勝利を収めている。なお、当時のアメリカのモータースポーツシーンはクライスラー、アウディ、日産およびマツダのワークスチームが参戦していたが、ウォーリンのチームは三菱のフルワークス体制ではなく、飽くまでもセミワークス体制で勝利を収めていたことが特に高く評価されている。
現代のモータースポーツではすでに現役を退いて久しいが、アメリカでは多くのサーキット走行イベントでプライベーターの手によるスタリオンが走り続けているという。
日本においては全日本ツーリングカー選手権にて、中谷明彦/高橋国光組のドライビングによる活躍が広く知られている。特に1985年のインターTECにおいて、中谷のドライブするスタリオンがボルボ・240ターボ勢に国産勢で唯一互角以上の戦いを見せたエピソードや、翌1986年の富士インターTECにおいてもその年の欧州選手権を制したジャガー・XJSを一時逆転し、名門トム・ウォーキンショー・レーシングを慌てさせたエピソードなどは現在でも当時のJTCを振り返る際の語り草となっている。
三菱自動車工業による紹介ページ
1983年11月、東京モーターショーにてスタリオン4WDラリーが展示された。当時グループB規定車両で競われていたWRCに、翌年からの参戦とホモロゲーション用車両の市販を視野に入れたこのマシンは、最高出力360 ps、最大トルク32.0 kg-mを発生するSOHC 2,091 cc・インタークーラーターボ付きシリウスDASH3×2エンジンを搭載し、ビスカスカップリング式4WDを介して路面に伝える、開発中のラリー競技専用車両だった。
スタリオン4WDラリーはフロントのオーバーハングが切り詰められ、丸型ヘッドランプと大型フォグランプを装着。FRP製のボンネットフードにはエアインテークが設けられていた。フロント・リアともにオーバーフェンダーを装着。リアスポイラーに内蔵されたオイルクーラーなどが外観上の特徴だった。
実際の開発マシンには、ランサーEX2000ターボに搭載されていた2バルブのG63Bをベースに2,140 ccまで排気量をアップし、更なるチューニングが施されたG63B'(ダッシュ)が搭載されていた。1983年2月に試作1号車のT1が、4月に2号車のT2が完成し精力的なテストが行われ、比較実験で仮想敵とされた当時のWRC最強マシンアウディ・クワトロを上回るコーナーリングスピードをマークするなどポテンシャルの一角を見せた。マシンの開発ドライバーは、のちのグループAランサーでトミ・マキネンの活躍を支えたラッセ・ランピだった。スタリオン4WDラリーで培われたハイスピード4WDマシンの技術は、後に登場するギャランVR-4やGTO、ランサーエボリューションに活かされた。
1984年市販車生産計画中止が決定するも、その後も各種ラリーのプロトタイプクラス出場と将来の後継車のための技術開発のため開発は続行され、同年8月のミルピステ・ラリーのホモロゲーションなしでも参戦できるエクスペリメンタルクラスに出場し、クラス優勝を飾った。11月のRACラリーには特別枠のプロトタイプクラスに参戦し、完走した。
1985年はマレーシア・ラリーのプロトタイプクラスに出場、結果はリタイアとなった。1986年と1987年には香港-北京ラリーにイエローの555カラーを纏ったスタリオン4WDラリーが参戦した。1986年は総合2位、1987年は9位と26位。
総生産台数は5台。現存数は3台(日本に2台、英国に東京モーターショー仕様が1台)。前述のT1/T2に加えS1/S2の4台と、市販車のために揃えられた各種部品は廃棄されたと言われているが、岡崎工場に市販車仕様のレプリカが1台展示されている。市販車仕様はラリー会場などに展示されてあることもある。また、映画『SS エスエス』にも工場に置いてあるものとして登場し、このことから2008年度の東京オートサロンに展示されたことがある。この岡崎工場仕様とは別にオーナーにより市販版のスタリオンを4WDラリーの外観にしているものも存在する。
近年香港-北京ラリーで走った個体が現存している事が確認されている。
Gr.B規定でのスタリオン4WD開発当時から三菱・ランサーEXの後継機としてプライベーターの手で各地のラリーに参加していたGr.Aスタリオンであるが、1986年にGr.B規定が消滅して以降、1987年より三菱はスタリオンGr.A仕様で三菱・ランサーEX以来4年ぶりにワークス参戦を再開。1989年に三菱・ギャランが登場するまで各地のラリーを転戦した。
1984年、HKS関西は米国のラリーやドラッグレースへ参戦する目的で、G54Bをベースに2.3リットルDOHCとしたHKS・134Eの開発に成功。1985年にはこのエンジンを搭載したスタリオンのダートトライアル車両、HKS・スタリオンD404を製造した。グループB正規参戦を断念したスタリオン4WDラリーは製造数が非常に限られており、プライベーターが入手する事は困難であった為、HKSは市場に存在する部品を元に比較的安価に製造可能で、既に市場に流通していた欧州のグループB仕様の4WDマシンに十分対抗可能なものとして独自にスタリオンD404を造り上げた。スタリオンD404はスタリオン4WDラリーと同様に前部オーバーハングを約30 cm切り詰め、ボディパネルの多くは複合材料に変更され、窓ガラスはアクリルに交換された。燃料タンクは30リットルに縮小された結果、車両総重量は920 kgとなった。これはスタリオン4WDラリーの960 kgを上回る軽量化である。ステアリングラックは富士重工製、変速機には三菱・パジェロのトランスファー付きマニュアルトランスミッションが流用され、後軸にLSDを組み込んだパートタイム4WD仕様として製造され、米国のDクラスダートトライアルに参戦した。
車名の由来は「スター(星)」と「アリオン(ギリシャ神話ヘラクレスの愛馬の名)」を組み合わせた造語。一部で、種牡馬(スタリオン)の意味と誤解されているが、種牡馬の英訳は「Stallion」である。(この為、日本人はLとRの区別がつかないことからスペルミスではないかと物議を醸した事がある。)
1988年に北米仕様に準じた2.6 Lワイドボディモデルが投入された際、当初グレードネームは1987年の2.0 Lワイドボディモデルに使用されたGSR-VRではなく、ギャランGTO以来の車名復活となるGTOが用いられる予定であり、A187Aの型式認定の際には実際にSTARION GTOのステッカーが貼付された車体が用いられた。しかし販売店側からの反対により、GTOのグレードネームの使用を断念したという経緯があった。このGTOステッカーが貼付された車体のうち一部(最初の10台)はそのまま市販されている。
					
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