マツダロードスタークーペの中古車
販売期間:2003年10月から2004年04月
4件のマツダロードスタークーペの中古車
マツダロードスタークーペ |
マツダ
マツダ株式会社()は、広島県に本拠を置く日本の自動車メーカーである。
自動車及び同部品の製造・販売を事業としている自動車メーカーである。本社所在地は広島県安芸郡府中町新地3-1。2019年度の世界販売台数は142万台。
ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている。1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした。2000年代以降は「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、走行性能とデザインを特色とした車作りに特化する戦略を進めている。今後は、顧客との間に強い絆をもった「プレミアムなブランド」を目指すとしている。
1979年以来フォードとの提携関係が長く、1996年5月には同社の傘下に入りプラットフォームや生産施設などの共有化が進められたが、リーマン・ショック以降は今度はフォードの経営が悪化したこともあり、2015年9月に完全にグループから独立した。
2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し、2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意。相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった。THS-Ⅱの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。
2018年5月には日本国内生産累計5000万台を達成した。国内メーカーではトヨタ、日産に次ぐ3社目の達成である。
創業は1920年、コルクを生産する「東洋コルク工業株式会社」として誕生。1927年以来、「東洋工業株式会社」が正式社名であったが、1984年にブランド名に合わせて「マツダ株式会社」に改称した。英語表記は「MAZDA」。コーポレートマークの「mazda」は1975年から、「M」を模った現在のエンブレム(ブランドシンボル)は1997年から使用されている。現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた。
1920年(大正9年)1月30日、広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された。清谷商会という1890年(明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した。
しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう。
こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。
1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。
前述の債務保証を発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる。
東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した。
1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手。オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった。また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得。松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した。コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、野口の斡旋により、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ。
1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始。軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した。改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得。売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された。
1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島で大規模な水力発電所をいくつも建設していた野口からの依頼を受けて開発した削岩機を初納入し、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた。1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した。
この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた。1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスのオースチン・7を購入して研究を開始。さらにドイツ車のオペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた。1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあったが、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた。
1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。呉海軍工廠からは爆弾、水雷、信管などの製造の命令を受けた。
軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された。しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ。
1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した。
1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業株を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた。翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った。同月には日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した。同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した。この年の10月には東洋工業は8556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており、戦時中に製造した小銃は累計で58万5646挺に上った。
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下)。爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した。しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った。松田重次郎の次男でマツダモータース (現・広島マツダ)社長の松田宗弥も全従業員7名と共に亡くなった。
東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道を東に向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂や寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった。しかしながら負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体に油をかけて火葬が行われた。1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた。
東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。広島県庁は1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。
占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。
企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市のブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8メートルのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。
三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。
1951年(昭和26年)、松田重次郎の長男で専務の松田恒次が社長に就任。1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。
1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360や三菱重工業の三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。
このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。これは国民の所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に軽乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車、日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。
次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。
1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。
こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった。
NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8000万円の特許料を払って技術導入を決めた。
技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。
REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。
1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。
1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた。東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた。このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定。増産工事に続いてREの新工場建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ。この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった。
1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した。10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施。同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた。ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表。オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった。研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した。
通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣。花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設。責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した。
東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却、住友銀行を中心とした協調融資、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向、米国販売会社の分割、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始といった対策が次々と打たれた。しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り、同業他社の首脳から「東洋工業は倒産する」との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった。
1976年(昭和51年)1月、住友銀行は本格的再建のために村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣。東洋工業を「経営形態を成しておらず、町工場に等しい状況」と判断した村井は、有名無実化していた最高意思決定機関である常務会の強化や、社全体の計画立案・調整を担う社長室の新設を実施。住友銀行式の合議制経営を導入し、それまでの松田ワンマン体制にメスを入れた。
住友銀行は、東洋工業の合理化に成功したとしても単独での生き残りは困難であると考え、開発したREの特許を交渉材料に提携先を探すことにした。しかしトヨタや三菱自動車との提携を模索するも成就せず、通商産業省も日産に提携を持ち掛けたが、こちらも実現しなかった。松田耕平も独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いていたが、GMはすでにREへの関心を失っていた上にアメリカの独占禁止法上の問題もあったため、この可能性も消えた。
国内自動車会社との提携は困難であると認識した住友銀行は外資との提携に動き、過去に資本提携交渉は決裂したものの、1971年(昭和46年)6月に業務提携を結び、小型トラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択。1977年(昭和52年)7月、前月に頭取に昇格した磯田は「東洋工業はフォードとの提携強化を望んでおり、その際、住友銀行は主力銀行として支援を惜しまない」との内容の会長宛ての親書をしたため、巽外夫に託し交渉を開始した。
こうした中、経営改革に消極的な松田耕平にしびれを切らした住友銀行は、当初より念頭に置いていた社長解任に向けた動きを始め、1977年(昭和52年)12月に出処進退を迫った。同月22日、松田耕平は代表権のない会長に退き、後継には住友銀行の後押しで、コストコントロール部を担当していた専務の山崎芳樹が昇格。これにより3代にわたって57年間続いた松田家による同族経営は終わりを迎えた。山崎は車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設し、経営トップの意向を反映する従来の車づくりから部署を越えて意見を出し合う体制を構築した。
1978年(昭和53年)に入りフォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年12月には東洋工業がフォードにトランスアクスルを供給する交渉がまとまった。翌1979年(昭和54年)11月、アジア太平洋戦略の足がかりとして日本車メーカーとの提携を模索していたフォードと東洋工業・住友銀行の思惑が一致したことで、フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現した。
住友銀行から派遣された常務の花岡信平の「アメリカでのスポーツカー需要に応えるためにはRE車が必要」との報告を契機にRE搭載の本格スポーツカーの開発が開始され、1978年(昭和53年)3月にサバンナRX-7として発売。日米で大ヒットを記録した。オイルショック以降発売した新型車と社員のディーラー出向制度が効果を発揮したことで販売は回復。1979年(昭和54年)にはトヨタ、日産に次いで生産台数100万台の大台に乗せた。1980年(昭和55年)には主査室制度になってからの最初の商品である5代目ファミリアを発売し、当時の若者らに支持され大ヒットを記録した。
1981年(昭和56年)、東洋工業は新たな卸売会社、オートラマを設立し、マツダが製造するフォードブランド車の国内販売を始めた。オイルショック後に延期が続いていた山口県防府市の完成車工場の建設も再開し、1982年(昭和57年)に操業を開始した。
1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称。同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した。
1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは一年後に150円台にまで急騰。自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた。円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開。他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した。
1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任。会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下、1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した。「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1000億円の経常利益を確保する目標を掲げた。オートラマ社長の安森寿朗が立案したこの販売拡大策は、住友銀行出身の大原通正が後ろ盾となって推進し、当時社長だった山本が最終的にゴーサインを出したものだった。
「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた。3チャンネル体制時に1500店余りだった店舗数を3000店近くにまで増やし、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった。この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年(平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録。国内販売台数も60万台と最高記録を更新した。1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した。
しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した。5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に銀行出身の和田淑弘を社長に据えた。マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上。1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った。販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ。マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した。拡大策は完全な失敗だった。
住友銀行の巽外夫は、マツダを再び再建させるには銀行主導では限界があり、フォードの世界戦略への編入以外に生き残る術はないと判断した。巽の要請に応じたフォードは、1994年(平成6年)に将来を有望視されている40歳代の4人を顧問としてマツダに派遣。同年6月の株主総会後に4人は役員に就任し、これをもってフォードは実質的にマツダの経営を掌握した。1996年(平成8年)4月、マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定。これによりフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まり、マツダは正式にフォード傘下に入ることとなった。合わせてフォードから派遣されていた副社長のヘンリー・ウォレスが社長に昇格し、日本の自動車会社初の外国人社長が誕生した。
ウォレスが社長に就任した1996年(平成8年)頃、マツダの有利子負債は7000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいた。財務の専門家であるウォレスら経営陣は、保有株式や不要不急の施設などの資産を売却し、伝統的に資金の面で寛容に扱われてきた開発部門に対しても厳しいコストダウンを要求。増えすぎた車種の整理と販売チャネルの簡素化や、フォード車とのプラットフォームの共通化を発表し、開発や生産、購買までの全業務のデジタル化により経営効率化を図る「マツダデジタルイノベーション」も導入した。1996年(平成8年)には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録。翌1997年(平成9年)9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じた。
1997年(平成9年)11月、副社長で販売が専門のジェームズ・ミラーが社長に昇格。社長のミラーと技術担当役員のマーティン・リーチの下、ブランドの再興に乗り出し、役員や技術者、海外現地法人との議論を重ねる中で、スポーティさ、走りの良さを全面に打ち出す考えをまとめた。この新たなブランド戦略を遂行するため、すでに進行していた主要車種の開発を白紙に戻し、車種名から内容まで一新したモデルを改めて開発することを決断。このため2000年(平成12年)11月から2002年(平成14年)春までの一年半にわたり、新型車が投入されない異例の時期が生じることになった)。
1999年(平成11年)12月、専務で新ブランド戦略策定の中心人物である(後にフォード社長)が社長に昇格。さらなるコストの見直しを図るため、2000年(平成12年)11月、スペインのフォードの工場でのマツダ車の生産、宇品第2工場の閉鎖、早期退職者募集を柱とする「ミレニアムプラン」を発表。1800人を募集した早期退職優遇プランには受付開始と同時に申し込みが殺到したため即時に募集が打ち切られる事態となり、最終的に2210人が会社を去ることとなった。積立不足だった退職給付債務を一括償却した影響もあり、この年には1552億円の損失を計上した。
2001年(平成13年)10月、第35回東京モーターショーにて新ブランドメッセージの「Zoom-Zoom」を打ち出すとともに、新生マツダブランドを体現する商品の第一弾である中型セダンのアテンザと、ロータリーエンジンを搭載したスポーツカーのRX-8を公開。プラットフォームからエンジンまでを一新し、翌2002年(平成14年)5月に発売されたアテンザは国内外で高い支持を受け、生産能力を引き上げるほどのヒット作となった。新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ、デミオ、アクセラといったモデルの投入によって業績は回復。全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めた。
2003年(平成15年)8月、前年6月に社長に就任したに代わり、井巻久一が社長に就任。日本人社長としては7年ぶり、生え抜き社長としては山本健一以来16年振りのことだった。2007年(平成19年)3月期には営業利益が1621億円と過去最高を記録した。
マツダの業績はフォードの下で回復基調へと転じたが、開発や生産部門の中では、フォードグループの軛から離れ、商品の多様性とコスト低減を両立させる戦略を実行したいとの思いが強まっていた。2005年(平成17年)7月、マツダは好調な業績を背景に長期戦略の策定を始め、10年後の2015年(平成27年)までに全てのマツダ車が世界のベンチマークになるとする目標を設定した。さらに、5年から10年先までの全ての車種をまとめて企画・開発する「一括企画」、一括企画で決めた車種の主要な技術的要素を統一し、コンピューターシミュレーション技術を用いて開発の効率化とコスト低減を目指す「コモンアーキテクチャー」、同一生産ラインで複数の車種を変種変量で造る「フレキシブル生産」の3つから構成される「モノ造り革新」を立案し、開発から生産にいたるまでの全ての業務プロセスを一新する構想をまとめた。
翌2006年(平成18年)末に親会社のフォードに計画の説明に訪れ、否定的な意見に遭いながらも、最終的に黙認に近い形で了承を得るに至った。同時にこれはマツダが失敗してもフォードは手を差し伸べないということを意味し、この時にエンジンの開発方針を分けたことが後の提携解消の契機となった。2007年(平成19年)には技術開発ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」を発表。走る楽しさと環境安全性能の両立を打ち出し、翌2008年(平成20年)6月には2015年(平成27年)までにマツダ車の平均燃費を30%向上させる目標を公表した。
しかしその直後の2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックが発生。世界の経済界・産業界は混乱に陥り、自動車産業も深刻な打撃を受けた。経営が悪化したフォードは同年11月に資金調達のため保有するマツダ株の一部を売却したため、出資比率は13%に低下した。これと同時にマツダは副社長の山内孝が社長に昇格する人事を発表し、経営陣をマツダ出身者主体に刷新した。リーマン・ショック後に円相場が急激な円高に振れたことで輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け、2009年(平成21年)3月期には赤字に転落。さらに2011年(平成23年)にかけて東日本大震災やタイの洪水といった事態が続き、最終的にマツダの業績は2012年(平成24年)3月期まで4年連続の赤字に陥った。こうした中、2009年(平成21年)に増資と自社株の売却で933億円、2012年(平成24年)には公募増資と劣後ローンで2142億円を調達し、研究開発やメキシコ新工場をはじめとする設備投資に必要な資金を捻出した。
2010年(平成22年)10月、マツダは新世代のエンジン、トランスミッション、ボディ、シャシーといった一連の新技術を総称した「スカイアクティブ・テクノロジー」を発表。2011年(平成23年)には新開発したガソリンエンジンのSKYACTIV-Gをデミオに搭載して発売し、他社のハイブリッドカーと同等の燃費性能を実現した。2012年(平成24年)にはスカイアクティブ技術を全面的に採用した車種の第一弾であるCX-5を発売し、ディーゼルエンジンのSKYACTIV-Dを中心に大ヒットを記録。この年にはスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換した。2013年(平成25年)には専務の小飼雅道が社長に昇格した。
この後もスカイアクティブ技術とデザインテーマ「魂動」を採用した一連の車種は人気を集め、2015年(平成27年)に発売した4代目ロードスターは「世界・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。合わせて日本車としては初の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」も獲得し、同賞設立以来初めての2部門同時受賞を果たした。2016年(平成28年)3月期決算では過去最高の営業利益2267億円を記録し。2018年(平成30年)3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新した。
2015年(平成27年)5月、マツダとトヨタは提携拡大に向けた検討を開始すると発表した。その一方で、2008年(平成20年)以来段階的にマツダへの出資比率を下げていたフォードは、同年9月末までに保有していたすべてのマツダ株を売却し、これによりフォードとマツダの36年間にわたる資本提携は終了した。2017年(平成29年)8月、トヨタとマツダは互いに500億円ずつ株式を持ち合う業務資本提携で合意し、アメリカでの生産合弁会社の設立、電気自動車に関する共同技術開発といった提携内容を発表した。2018年(平成30年)、副社長の丸本明が社長に昇格した。
マツダはロータリーエンジンの量産化に成功したメーカーであったが、2012年6月にRX-8の生産完了後は、ロータリーエンジン搭載車の生産から遠ざかっている。
2013年には、新型ロータリーエンジンを発電機(レンジエクステンダー)として搭載した電気自動車の試作車「マツダ RE レンジエクステンダー」を公開。
2015年10月には、次世代ロータリーエンジン「SKYACTIV-R」を搭載したコンセプトカーRX-VISIONを発表した。
2018年1月にトヨタ自動車が発表したMaaS専用電気自動車のコンセプトカー「e-Palette Concept」では、市販化に向けてマツダが技術パートナーとして参加し、ロータリーエンジンがレンジエクステンダーとして採用される予定であることが発表された。
2011年、自動車を構成する諸要素の全てを刷新し、SKYACTIV TECHNOLOGYとして発表した。SKYACTIV TECHNOLOGYを全面的に搭載した車両は、この取り組みと並行的に進められてきた生産分野の改革「モノ作り革新」により、1ドル77円でも日本国内から輸出して全ての地域で利益を生み出せるコスト競争力を持つ。
SKYACTIV TECHNOLOGYの開発には「モデルベース開発」と呼ばれる手法が用いられており、この手法を用いた開発力については業界随一と他社から評されている。
2017年8月、圧縮着火による燃焼方式を世界で初めて実用化したガソリンエンジン「SKYACTIV-X」を発表し、2019年11月にMAZDA3に搭載されて発売された。
マツダは日本の自動車メーカーでも、工業デザインへの意識を早い時期に持った草分けである。1940年代末期に工業デザイナーの小杉二郎の助言を受けるようになり、1950年以降のオート三輪では、もともとプレスパーツを用いて直線的だったバーハンドルデザインを発展させる形で、オート三輪の風防ノーズ部を鋭角的に仕上げるスタイリングを採用した。続いて1955年以降はノーズの角をえぐる形で2眼ヘッドライトを配置する精悍な形態を導入、オート三輪デザインの基調とした。小杉の指導の下、自社デザイナーの手で仕上げられた軽三輪トラックのK360や軽四輪乗用車のR360クーペ(1960)等までモチーフは引き継がれている。
また1963年発売の初代ファミリアではシボレー・コルベア風のウエストベルトデザインを取り入れ、1966年発売の初代ルーチェでは、イタリアのベルトーネによるスタイリングを採用するなど、古くから旺盛なデザイン志向を発揮していた。
1980年代後半から1990年代前半に、デザイン本部長である福田成徳の指揮の下、「ときめきのデザイン」をテーマにボディの光と影をコントロールする造形を追求した。1989年に発表した初代ロードスターのリアコンビネーションランプは、そのデザイン性と機能性の両立が評価され、ニューヨーク近代美術館に展示・永久収蔵されている。1991年に発表した3代目RX-7は、2008年にイギリスのデイリー・テレグラフ紙が選ぶ「最も美しい車100選」の61位に選出された。また、1991年に発表したユーノス500のデザインは、イタリアのジョルジェット・ジウジアーロに絶賛されたと言われる。
1996年にはデザインテーマ「コントラスト・イン・ハーモニー」を制定し、全ての車種のフロントグリルに5角形の「ファイブポイントグリル」を適用することを決定。2001年にはフォード出身のモーレイ・カラムがデザイン本部長に就任し、デザインテーマ「アスレティック」の下、躍動感のある造形を追求した。
2006年にはローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン本部長に就任。デザインテーマ「NAGARE」の下、流 (NAGARE)、流雅 (RYUGA)、葉風 (HAKAZE)、大気 (TAIKI)、清 (KIYORA)、風籟 (FURAI)といった、自然界に存在する動きの美しさを取り入れたコンセプトカーを発表し、その造形は2010年に発表された3代目プレマシーのデザインに反映された。
2009年にはアッカーのルノーへの転職に伴い、デザイン本部長に前田育男が就任。2010年にデザインテーマ「魂動-Soul of Motion」をコンセプトカー・靭 (SHINARI)と共に発表して以来、生き物が見せる一瞬の動きの躍動感や緊張感、美しさを取り入れたデザインを進めている。2015年に発表したRX-VISIONは、フランスで最も美しいコンセプトカーに選出され、2016年には、4代目ロードスターが日本車としては初めて「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。
マツダが開発するカーナビゲーションシステム及びインフォテインメントシステム。日本、アメリカ、カナダ、メキシコを除いた地域での名称はMZD Connect。2013年11月発売の3代目アクセラに初めて搭載された。一部のグレードを除き、ほぼ全てのマツダ車に搭載されている。「ヘッズアップコックピット」の考え方の下、「センターディスプレイ」、「アクティブ・ドライビング・ディスプレイ(ヘッドアップディスプレイ)」、「コマンダーコントロール」により構成され、脇見運転や不注意運転を最小化するようレイアウトされている。
ナビゲーション機能は、ショップオプションとして販売される地図データが書き込まれたSDメモリーカードを別途購入し、車載スロットに差し込むことで利用が可能になる。地図データは3年間無料で更新でき、更新ツールを利用すれば自宅でのアップデートも可能である。
発売当初、ナビゲーションシステムにはハンガリーの社製のものがグローバルに採用されたが、日本のユーザーからはナビゲーション性能の不足を指摘されたことから、2015年から日本市場のみ、日本のミックウェア社製のシステムに切り替えられた。
スマートフォンとも連携し、ハンズフリー通話やSMSの読み上げの他、TwitterやFacebookといったSNS、対応するインターネットラジオの利用も可能である。アプリケーションの追加や、アップルが提供するCarPlay、Googleが提供するAndroid Autoの対応も発表されているが、CarPlayとAndroid Autoの対応において、日本で販売しているモデルはCX-5(2代目・2019年モデル)とCX-8(2019年モデル)、マツダ3(2019年モデル)のみで、他のモデルについては2019年6月時点では対応していない。
マツダコネクトは2DIN規格に対応していないため、他社のカーナビゲーションに換装することはできないが、アルパインからCX-5(2代目)とCX-8専用のカーナビゲーションが登場している。
マツダ車以外では、OEM供給するトヨタ・ヤリスiA、フィアット・124スパイダー、アバルト・124スパイダーに採用されている。
マツダは1988年に、海外販売に依存していた経営体質を改善するため、国内販売を倍増させるとする「B‐10計画」を策定し、従来のマツダ、マツダオート、オートラマに加え、1989年にユーノスとオートザムの独自ブランドと販売網を新たに設立し、当時のトヨタや日産と同様の国内5チャンネル体制を敷いた。1991年にはマツダオートの名称をアンフィニに改称し、高級車専門店とした。しかし、急激なモデル数の増加によるブランドイメージの混乱や研究開発費・固定費の増大を招いた上に、バブル崩壊後の景気低迷の影響も受け、結果的に5チャンネル体制は失敗に終わった。
以来、住友銀行の主導の下、1994年から5チャンネルに広がった販売網の統廃合を進め、1996年にはマツダブランドに再び一本化された。しかし、国内販売では大幅な値引きや安売りに頼った販売拡大策を推し進めたためマツダ車の中古車査定価格は下落し、他社のディーラーに下取りに出そうとしても残価が低すぎるため、結果としてマツダ車以外に乗り換えられないマツダ地獄と揶揄される状態を招き、ブランドイメージの低下と販売不振を深刻化させる悪循環に陥った。
フォードの傘下に入ってからは、「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、スポーティなブランドイメージを構築する戦略を進め、大幅値引きに頼る販売を段階的に止めて、メーカーとディーラーが一体となってマツダのブランドイメージ向上に努めている。2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降は、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、インセンティブの削減、正価販売の定着をこれまで以上に進めていくとしている。
2014年には、デザイン本部が監修した新コンセプトの販売店「新世代店舗」を順次展開することを発表した。
かつては世界ラリー選手権(WRC)やル・マン24時間レースなどにワークス(マツダスピード)として積極的に参戦していた。ロータリーエンジン搭載車でのエントリーが主体であるが、レシプロエンジン搭載車であるファミリアでWRCに、ランティスでJTCCに参戦していたこともある。1999年にマツダスピードがブランド名だけ残して解散して以降、日本法人のマツダとしては一切のワークス活動を行っていない。レースのノウハウと人材は全て社外に放出され、787Bなどは保管しているものの高出力エンジンに対応したエンジンベンチ設備すらない状態である。2018年現在はインタープロトシリーズに『人馬一体ドライビングアカデミー』と称して、市販車開発ドライバーを訓練のためジェントルマンドライバークラスに参戦させている程度となっている。
一方で北米やオーストラリアの現地法人では活発なモータースポーツ活動が継続されている。特にアメリカのマツダUSAはデイトナ24時間含むIMSAのUSCCに参戦しているだけでなく、グローバルMX-5カップやロードトゥインディ(プロ・マツダ チャンピオンシップなど)といった草の根レベルのレースを運営したり、プチ・ル・マンやラグナ・セカのタイトルスポンサーを務めるなど、海外マツダ法人随一の活動実績を誇る。
国内
海外
大会スポンサー
研究開発拠点は以下の通り。
試験場
日本
北米
欧州
アジア・太平洋
日本
北米
欧州
アジア・太平洋
その他の地域
マツダが運営する企業立病院。1938年にマツダ構内の医務室として開設されたのが始まり。1950年に付属病院に変更され、1961年には現在の地に病棟が建設された。
公益財団法人マツダ財団は、「科学技術の振興と青少年の健全育成のための助成などを行い、世界の人々が共に繁栄を分かち合い、心豊かに生きることのできる社会づくりに寄与すること」を目的としてマツダが設立した公益財団法人。1984年に財団法人として設立され、2010年11月に公益財団法人へと移行した。
マツダ工業技術短期大学校は、マツダが設立した厚生労働省認定の2年制企業内短大。技術・技能者を育成するために1988年に設立された。企業内学校であるため入校者は全てマツダの社員であり、新卒者と社内選抜者で構成されている。
マツダが広島本社内に所有する橋。マツダミュージアム見学の際には社内バスでこの橋を渡って移動する。
連結子会社69社は以下の通り(2019年3月31日現在)。
その他20社
持分法適用会社18社は以下の通り(2019年3月31日現在)。
その他4社
人物
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マツダ・ロードスター
ロードスター(Roadster)は、マツダが製造・販売するオープンタイプのライトウェイトスポーツカーである。
1989年5月にアメリカで発売された。日本国内では同年8月に先行予約を開始し、9月1日に発売された。当時のマツダは5チャンネル体制を敷いており、その内のユーノス店の第一弾車種として「ユーノス・ロードスター」の名称で発売された。発売初年には国内で9307台を販売、翌年は世界で9万3626台を販売してスポーツカーとしては大ヒットとなった。
このロードスターの成功を受けトヨタ自動車(MR-S)や本田技研工業(S2000)などの国産メーカーだけでなく、MG(MGF)やフィアット(バルケッタ)、BMW(Z3)、メルセデス・ベンツ(SLK)、ポルシェ(ボクスター)といった海外メーカーまでが影響を受け、中小型オープンカーが開発された。消滅しかけていたと思われていたライトウェイトスポーツカー市場が活性化する起爆剤になった。
2000年には生産累計53万1,890台を達成し、「世界で最も多く生産された2人乗り小型オープンスポーツカー」としてギネスブックの認定を受けた。また、2004年の生産累計70万台達成時、2007年1月30日の生産累計80万台達成時、2011年2月4日の生産累計90万台達成時にも記録更新の申請を行い認定されている。そして2016年4月22日にはついに生産累計台数100万台を達成した。
日本国外ではマツダ・MX-5(Mazda MX-5)の名称で販売されている。なお、北米ではマツダ・MX-5ミアータ (Mazda MX-5 Miata)と呼ばれており、単にペットネームのミアータ(Miata)と呼ばれることもある。「ミアータ」は古語ドイツ語で「贈り物」「報酬」を意味する。マツダは2019年から国内の車名を海外名と順次統一しているが、ロードスターに関しては統一せず名前を残すとしている。
発売直後から全国でオーナーズクラブが発足し現在も活動を続けている。誕生10周年、誕生20周年に合わせた記念ミーティングがマツダ三次テストコースで開催され、日本全国だけでなくイギリス、フィリピン及びタイからもオーナーが集まった。
1989年から自動車メディア関係者による「メディア対抗ロードスター4時間耐久レース」が筑波サーキットで行われており、以降1991年を除く毎年9月に開催されている。
開発主査は平井敏彦。後に平井の退職に伴い、サスペンション開発の担当であった貴島孝雄が主査を引き継いだ。プロダクトデザインは田中俊治、俣野努ら数名の手によるものである。
開発の発端はマツダが北米に開設していたMAZDA RESEARCH of AMERICA(以下MRA)のスタッフが空港に向かう車中で「MGのようなライトウェイトカーがあれば」と話したこととされている。それを受けて、当時MRAに在籍していた福田成徳らがデザインコンセプトをまとめた。デザインコンセプトは有志の手によって具体化が進められFA4型ファミリアのコンンポーネンツを使用してイギリスにある会社で試作車が製作された。他社製既存オープンカー(スピットファイアー)と完成した試作車を並べて置くと試作車は一回り大きく感じられ赤色ボディと相まって開発スタッフからは「りんごちゃん」と呼ばれていた。この試作車を使用してイギリス、アメリカで実際に走行試験が行われた。この走行試験は本社側から一般の人の反応を見てプロジェクトの可否を決定したいという意向によるものであった。そして、偶然それを見かけた一般車が試作車を追いかけてきて、「代金はいくらでも払うから譲ってほしい」と言われた逸話がある。こうした市中の好意的反応によりプロジェクトの続行が決定され、開発コードは”P729”とされた。今でもこの試作車はマツダ社内に保管されており、2009年夏に20周年イベントのプレイベントにて展示公開された。
その後も開発は、日本国内の工場の隅にある、通称「リバーサイドホテル」と称される施設で、有志により継続された。その後、有志によって「ライトウェイトオープン スポーツ」の存在がマツダ社内でプレゼンされ、正式開発の指示の下、正式開発ラインに初めて乗ることになる。開発に当たってのキーワードは「人馬一体」とされた。当時、マツダのデザイン拠点は広島本社とは別に前述のMRAの他、横浜にあるデザイン本部(MRY)、そしてヨーロッパ(MRE)にも展開されており、これら3拠点で練られたデザインが持ち寄られ、最終的なデザインの方向性が決められた。主となるデザインはMRA提案であったが、後の開発過程で贅肉をそぎ落としていくことになる。当時のデザインコンセプトは「ときめき」である(その後デザインコンセプトは「ひびき」、「語らい」と続いていく)。
デザインモチーフには「日本の伝統」を記号化したものが多く用いられた。フロントマスクは、能面のひとつである「小面」、フード部分で盛り上がり、サイドウィンドウに沿ってなだらかに下がって再び盛り上がるサイドのラインは、同じく能面のひとつである「若女」を横から見た姿にインスパイアされている。そして車体の曲面は光の映り込みまで計算されている。シート表面のパターンは畳表の模様、リアコンビランプは江戸時代の両替商が使った分銅の形をデザインしている。独特の形状のアウタードアハンドルは、あえて従来のものとは一線を画すようにデザインされた。これは、日本の茶室の「くぐり戸」から入る際の緊張感と同列の感覚をロードスターの運転を前に感じて欲しいという、開発者からのメッセージでもある。
ヘッドライトにはリトラクタブル・ヘッドライトを採用。リアコンビネーションランプは、デザイン性と機能性の両立を評価され、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) に展示・永久収蔵されている。なお、スペースの都合で車両自体の展示が出来ず、ロードスターのアイコンとして田中俊治が提示したのがこのパーツであった。
量産モデル決定後、他の市販車ではあり得ない約1年半という期間で市場にデビューすることになる。量産開発コードは”J58G”とされた。非常に短期間での市場投入をすべく既存車両の部品流用も多く、2代目AA系キャロルのサイドウインカー、3代目E8/F8系ボンゴの灰皿等がそうである。灰皿のシボ模様はロードスターの室内樹脂部品のシボ模様と異なるが構成部品として採用された。日本仕様車のフロントバンパー中央に取り付けられるエンブレムは田中俊治がデザインを進めていたが、ユーノスチャンネルでの販売を受けてユーノスブランドマークの”Vマーク”に変更された。なお、ユーノスチャンネルはバブル崩壊に伴うマツダの経営戦略の見直しにより1996年3月末で廃止されたため、名称は「ユーノス・ロードスター」のまま販売チャンネルはマツダアンフィニ店に移った。
最初期のモデル以降、2度の大きなマイナーチェンジを受ける。排気量の変更を始め、各部剛性の向上など性能は大きく変化することになるが、エクステリアに関しては大きな変更はなく、どのモデルも大きな違いはない。リアの“Roadster”のロゴプレートに関しては文字色が各モデルで異なり、NA6CEが黒文字、NA8Cシリーズ1が赤文字、NA8Cシリーズ2が緑文字となっている。また、2003年にマツダE&Tにてレストアされたリフレッシュビークル(限定30台)は黄文字である。
2004年、米国のスポーツカー専門誌、スポーツカー・インターナショナルの選出したベスト・スポーツカー1990年代部門で第1位を獲得した。20世紀に生産された乗用車の中から、世界32か国、約130名の選考委員により選び出すではベスト100に入った。
なお、2015年には4代目モデルのCMに壮年男性の運転する本モデルのロードスターが登場している。
発売から30年以上経過しても根強い人気があり、開発に関わった人物が状態の良い中古を探す事例もあることから、対象を初代に絞ったレストア業者も存在する。
NA6CE型(末尾のEはEunosのE)は初代の最初のモデルである。1,600ccの直列4気筒DOHC16バルブエンジンを搭載する。このエンジンのベースはマツダ・ファミリアに搭載されていたB6型エンジンで、縦置きへの変更や吸排気系の高効率化、バルブタイミングの高回転化、軽量部品の使用などの改良が施された。これらの改良によりファミリアのB6型と較べてレブリミットが200rpm、最高出力が5ps上昇した。
レイアウトとしてはエンジンの重心を前輪の車軸より後方に配置するフロントミッドシップを採用し、ガソリンタンクやスペアタイヤもホイールベース間に収め、ブレーキキャリパーを前輪は後側、後輪は前側に配置するなど、慣性モーメントを減らすために徹底して重量物を中央に寄せる工夫がなされている。また、バッテリーをトランクに設置するなど前後の重量配分を整え、2名乗車時で50対50の理想的な前後重量配分を実現している。シフトはレバー比4.4、ストローク45mmと当時の日本車では最小のショートストロークで、手首を返すだけでも操作が可能である。トランスミッションは当初は5速MTのみであったが、1990年3月に4速ATが加わった。
サスペンションはマツダでは初となるダブルウィッシュボーン式が前後とも採用された。また、ミッションケースとデフケースを結合するパワープラントフレーム(PPF)の使用により、駆動部の剛性を高めてダイレクト感のあるアクセルレスポンスやシフトフィールを実現している。フロントミッドシップのレイアウトやダブルウィッシュボーン式サスペンション、パワープラントフレームは後の世代のロードスターやFD3S型マツダ・RX-7、マツダ・RX-8にも採用されている。ボンネット、シリンダーヘッドカバー、PPFなどをアルミ製にするなど軽量化も徹底され、車重は940kg - 950kgに収められている(AT車は980kg)。
ソフトトップは手動式である。オープン時には畳んだ幌の見栄えを考慮し、幌収納部を覆うトップブーツが標準装備。オプションでデタッチャブルハードトップが用意された。左右サンバイザーはオープン時に飛び出さないように2分割式のものを採用。オープンで車を離れるときのために、鍵付きのセンターコンソールボックスと助手席前グローブボックスを備える。センターコンソールボックス内部にはフューエルリッドオープナーがあり、1991年8月にはトランクオープナーも併設された。
ラジオアンテナはネジ形状による差込脱着式であったがその後、電動式に変更された。
グレードは当初標準車に加え、モモ製本革巻きステアリングやアルミホイール、パワーステアリング、パワーウインドウを装備するスペシャルパッケージのほぼ単一グレードの展開であった。後に標準車にパワーステアリングとパワーウインドウだけを装備するMタイプが追加された。
1990年7月にはナルディ製ウッドステアリング、ウッドシフトノブ、ウッドサイドブレーキやタンカラーの内装などを装備したVスペシャル、1992年7月にはナルディ製本革ステアリング、本革シフトノブ、本革サイドブレーキやビルシュタイン製ダンパー、BBS製アルミホイール、リアスポイラーなどを装備したSスペシャルが追加された。当初のボディカラーは「クラシックレッド」、「シルバーストーンメタリック」、「クリスタルホワイト」、「マリナーブルー」の4種類。その後追加されたVスペシャルが「ネオグリーン」と「ブリリアントブラック」(ブラックは1991年8月に追加)、Sスペシャルが「クラシックレッド」と「ブリリアントブラック」である。また限定車「Jリミテッド」専用色として「サンバーストイエロー」も設定(Aピラーも同色のイエロー)幌はブラックのみ。オプションのデタッチャブルハードトップは当初、熱線なしのブラックとレッドの2種類が用意され、1990年8月にブルー、シルバー、ホワイト、グリーンを追加。価格は標準車で170万円、スペシャルパッケージで180.5万円、VスペシャルやSスペシャルは200万円以上の設定であった。
1993年7月にマイナーチェンジが行なわれ、1,600ccのB6型エンジンを改良して1,800ccのBP型エンジンに変更された。排気量の拡大は国内外からの1,600ccエンジンのパワー不足を指摘する声を反映したもので、この改良を受けて型式もNA8C型となる。ボア78.0×ストローク83.6mmからボア83.0×ストローク85.0mmに拡大され、バルブタイミングのさらなる高速化なども行なわれ、最高出力は10ps、最大トルクは2kgf・mアップしている。また、トルクは全体的にアップ(特に低中回転域が向上)しており、それに合わせてファイナルギアが4.3から4.1に変更。また、ボディの補強やブレーキローターの大型化、LSDのビスカス式からトルセンへの変更、ホイールのリム幅の拡大などが行なわれた。これらの改良により重量も増加してしまい車重は40kg程度増加してノーマル車で980kg、それ以外で990kgとなった(AT車は1,020kg)。出力やトルクはアップしたものの、ファイナルギアレシオの設定(4.3から4.1へ変更)や補強による重量増によってほぼ相殺された。
グレード構成は従来の4種類に加え、Vスペシャルにタイプ2を追加。Vスペシャルタイプ2にはVスペシャルの装備に加え、タンカラーの幌が装備された。また、Vスペシャルのタイプ1、タイプ2ともにオープンカー用に開発されたセンソリーサウンドシステムを標準装備する。さらにノーマルグレード以外には電動アンテナを採用(ノーマルグレードは従来の着脱式アンテナ)。スペシャルパッケージとVスペシャルに電動格納式のドアミラーを採用。ボディカラーはノーマルとスペシャルパッケージが「クラシックレッド」「シルバーストーンメタリック」「シャストホワイト」の3色、Sスペシャルが「ブリリアントブラック」とシリーズ1専用となるオートザム車から転用の「ラグナブルーメタリック」の2色、Vスペシャルが「ブリリアントブラック」「ネオグリーン」の2色が初期のラインナップで、1994年12月にノーマルに「ブリリアントブラック」、VスペシャルとSスペシャルに「シャストホワイト」追加された。価格はNA6CE型から5万円程度上昇。Vスペシャルのみセンソリーサウンドシステムの装備などの影響で大幅に価格が上昇して230 - 240万円(約20万円増)となっている。
1995年8月にNA8C型の短所となってしまった加速感などのフィーリングを向上させるマイナーチェンジが行なわれた。エンジン制御のECUを8bitから16bitに変更することで高回転域での燃焼を最適化してトルクを向上、軽量フライホイールの使用、ファイナルギアが加速重視のギア比へ変更(MT車のみ4.1から4.3)するなどの改良が施された(※国内市場のみで、海外では従来のギア比で販売)。その他、変更点としてはバックミラーをウィンドウ接着タイプに変更。それに伴いインストゥルメントパネル内に収められていたルームランプをフロントトリムヘッダー中央へと変更。2分割式だったサンバイザーを一枚タイプに変更、メーターのメタル調リング、ヘッドレストスピーカーを廃止(センソリーサウンドシステム装着車を除く)、ドアトリムのグリップアシストをNA6CEと同形状のアームレストタイプへと変更、標準装備だったトップブーツをオプションに変更、衝撃吸収ステアリングの採用などがある。また、1996年12月に一部改良され、全グレードにモモ製エアバッグ内蔵ステアリングが装備される。
グレード構成はさらにMパッケージとSスペシャルにタイプ2が追加された。Mパッケージはノーマルとスペシャルパッケージの中間的なグレードでスペシャルパッケージからアルミホイールやLSDが除かれる。Sスペシャルタイプ2にはSスペシャルの装備に加え、15インチのホイールなどを装備する(標準は14インチ)。価格はシリーズ1より下回るか、ほぼ同程度となる。ノーマルは169万円とNA6CE型よりも安くなっているが、これはトップブーツなどの標準装備を減らしたことなどが影響している。
1998年に初のモデルチェンジが行われた。この代からマツダ・ロードスターの名称での販売となり、販売店にマツダ店も追加された。なお、初代に引続き北米市場では「Mazda MX-5 Miata」、欧州・アジア市場では「Mazda MX-5」という名称で販売された。
開発主査は先代途中より就任した貴島孝雄が引き続き担当。チーフデザイナーは林浩一。初代のアイデンティティの1つであったリトラクタブルライトは軽量化やヨー慣性モーメント低減、対人衝突時に与えるダメージの低減などのため廃止され、全幅は5mm拡大された。
性能面ではサスペンション・ジオメトリーの見直しと補強の追加が施された。グラム単位でムダを省き、各部を徹底的に見直すこと(通称「グラム作戦」)により重量増を最小限に抑えた。また、より低重心化を図るためバッテリーやスペアタイヤの搭載位置を初代よりも下方へ変更。初期モデルにのみ設定されている標準車グレードではエアコンレス仕様もあり、車重が990kgのモデルも選択可能であった。モデルチェンジの最も大きな理由であるパッシブセーフティ強化に対応するため、全車エアバッグ標準装備。
初代ではビニールスクリーンだったリアウィンドウはガラス製へと変更された。オプション販売されている脱着式ハードトップは初代と設計を共通化することで、2代目にも装着可能になっている。幌をシート後方へトランクとは独立して収納することにより、開閉状態にかかわらず同じトランク容量を確保している。ボディカラーは国内仕様で全26色、海外仕様を含めると30色になり、歴代ロードスターで最もカラフルなモデルとなる。
初代のマイナーチェンジ時に廃止された1,600ccエンジンを搭載するモデル(NB6C型)が復活し、可変吸気システムを搭載し改良された1,800ccエンジンを搭載するモデル(NB8C型)とともに販売された。ただし海外市場はNA時代から1,600ccと1,800ccモデルが併売されており、それに沿ったエンジン構成に戻ったことになる。NB6C型には5速MTが、NB8C型には6速MTがそれぞれ組み合わされた。なお、ATモデルには全車にABSを装備。
2000年にマイナーチェンジ(NB2型)が行われた。エクステリアはフロントマスクとリアコンビネーションランプを中心に手が加えられ、インテリアは座席シートの軽量化とデザイン変更、メーターパネルのデザイン変更、インパネのデザインを一体感があるものへアップデートされた。ボディは補強部位やパフィーマンスバーの追加により剛性が強化。キーレスエントリーの採用や、センターコンソール周辺のデザインの見直しも行われた。また、1,800ccエンジンは可変吸気システムを採用していたBP-ZE型に代わり、可変バルブ機構であるS-VT機構が搭載されたBP-VE型へ変更、最高出力・最大トルクともに向上している。ただし、このエンジンはアジア・オセアニア市場のみの採用で、欧州・北米市場ではBP-ZE型が継続搭載されている。
その後、衝突安全性の向上、新騒音・排ガス規制対応、自己診断装置(OBD2)の国際基準対応、および燃費向上のため、NB3型、NB4型とマイナーな変更が施された。(2002年7月9日、2003年9月18日の一部改良)
モデル末期の 2003年には、10月にクーペモデルのロードスタークーペが、また12月には限定車ながらターボモデルのロードスターターボが販売された。架装はともにマツダE&Tが手がける。なお、2019年5月現在、NB系ロードスター自体が国内市場において最後の5ナンバーサイズ(小型自動車)のFRスポーツカーになる。
2003年8月 英国AUTOCAR誌において「Best Handling Car 2003」を受賞。最終まで競合したのはポルシェ911GT3(996)であったが「ドライバーの資質やコーナリングスピードに左右されることなく頭一つ抜けたハンドリングを提供してくれる車」として、MX-5(ロードスターの欧州名)が評価された。
2005年8月25日に発売。目標月間販売台数は360台と発表された。
開発主査は先代に続いて貴島孝雄が、チーフデザイナーは中牟田泰が担当した。前回のモデルチェンジでは初代の基本コンポーネントをほぼ引き継いでいたが、今回はプラットフォームから一新され、全幅は5ナンバーの最大幅である1,700mmを超えて1,720mmとなり、初めて3ナンバーとなった。
デザインは2代目の抑揚のあるデザインから初代のようにフラットなラインを使用したデザインに変わり、先代までのサイド中央が細くなっているコークボトルシェイプから楕円状のオーバルシェイプになっている。張り出したフロントフェンダーやドライバー保護の意味も兼ねたシートバックバー、エンドパイプが2本になったマフラーなどが特徴的である。可倒式メッシュ構造のエアロボードが採用され、風の巻き込みも低減されている。幌は「Zタイプ」と呼ばれる幌の開き方になっていて、フレームがZ字状に折りたたまれ、トップ外側部分が上面になって収納されるので綺麗に収まる。幌はブラック/ビニルとオプションでタン/クロス(VSは標準でタン/クロス)の2種類があった。
インテリアは2代目のようなセンターパネル一体型ではなく、初代と同じ分割型のデザインが採用された。ステアリングにはチルト機構が設けられ、サイドブレーキも運転席側に変更されている。収納も改善され、シート後部に小型ながらストレージボックスを設け、トランクにはスペアタイヤの代わりにパンク修理キットが装備される。インテリアは通常の内装色は黒であったが、オプションでレザーシートを装備したサドルタンの内装色も用意された(VSは標準でサドルタン)。
エンジンは従来のB型からアテンザやアクセラに搭載されるL型に変更され、縦置き用などに改良したものを搭載する。日本・米国仕様は2,000ccのみで、欧州市場のみ税制の関係で1,800ccも設定されている。日本仕様モデルのトランスミッションは5速MT(標準モデル/NR-A)/6速MT (RS/VS)/6速AT(標準モデル/VS、VSはパドルシフト付)の三種類が用意されている。RSとNR-Aにはビルシュタイン社製サスペンションが装備され、ボディを補強するタワーバー、フロア補強メンバーなども追加されている。NR-Aのビルシュタインサスペンションには二段階の車高調整機構も備わっており、ユーザーが用途に合わせて任意に車高を変更することが可能である。
プラットフォームは、新規開発のNCプラットフォームが用いられた。基本アーキテクチャーはRX-8と共通だが、設計を全面的に刷新し細部における徹底的な軽量化が行なわれることで、先代のNB型のRS最終型(1,080kg)とNC型のRS(1,100kg)の比較で20kgの重量増に抑えられた。
2005年11月には、2005-2006年日本カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。マツダとしては1982年-1983年のカペラ/フォード・テルスター以来、通算3度目の受賞となる。開発陣はこのNC型を「カーオブザイヤーの受賞を念頭において開発した」とユーザー向けミーティングの席上で発言しており、正に念願成就となった。
2006年7月18日には英国国際モーターショーにて、MX-5 ロードスター・クーペが出品された。車名は「Mazda MX-5 Roadster Coupe」(欧州)、「Mazda MX-5 (Miata) Power Retractable Hard Top」(北米)、「マツダ ロードスター パワーリトラクタブルハードトップ (RHT) 」(日本)。幌の代わりに電動格納式ハードトップが搭載され、開閉速度は約12秒で世界最速とされた。また、ルーフをシート後方にトランクとは独立して収納することにより、屋根の開閉の状態にかかわらず幌のモデルと同じトランク容量を確保している。日本では2006年8月23日に発売された。
欧州向けの特別仕様には専用カラーや、ジン特殊時計会社とのコラボレーション腕時計など、日本向けにはない仕様・オプションが存在する。また「MX-5 Yusho(優勝)」「MX-5 Miyako(都)」「MX-5 Kendo(剣道)」「MX-5 Kaminari(雷)」「MX-5 Hamaki(葉巻)」などコンセプトをイメージした日本語がモデル名に付けられている。
開発主査は先代までの貴島に代わり山本修弘が、チーフデザイナーは中山雅が担当した。4代目は「SKYACTIV TECHNOLOGY」とデザインテーマ「魂動(こどう)-Soul of Motion」を全面採用した新世代車種の第6弾となる。
フロントオーバーハングを短く・低くして、人を中心に配置したコンパクトキャビンと合わせて乗る人の姿が引き立つプロポーションとし、低くワイドな台形フォルムとなる。ボディはアルミ・高張力鋼板・超高張力鋼板の使用比率を3代目の58%から71%に引き上げ、剛性を確保しながら軽量な構造を追求したことで大幅な軽量化を達成し、「S」は初代NA8C型のMT車と同等の990kgを実現した。重量や剛性もさることながら、人馬一体をキーワードにエンジン、ボディー、サスペンションなどがすべてベストな状態になるよう開発され、気持ちの良いハンドリングと加速を実現している。また、室内小物入れや脱着式ドリンクホルダーを装備し、トランクも機内持込対応サイズのスーツケースを2個積載できる容量を確保するなど利便性にも配慮された。
日本仕様車では3代目からダウンサイジングされた直噴1.5Lガソリンエンジン「SKYACTIV-G 1.5」のみを設定。このエンジンをフロントミッドシップに搭載し、前後の重量配分を50:50に設定。トランスミッションはMT車に6速直結にして構造をシンプル化・小型化することで軽量化を図ったFR用6速MT「SKYACTIV-MT」を採用。AT車は6速ATを改良し、スリップ・ロックアップ領域の拡大によりダイレクト感を向上し、マニュアルモードやDレンジのダイレクトモードでシフトダウンすると瞬時にエンジン回転数を上げて指定したギア段にあったエンジン回転数とすることで、素早い変速とシフトダウン時の減速時の連続性・応答性を実現するブリッピング機能やシフトパネルのスイッチ操作でアクセル操作に対するトルクの出方を変更し、力強い加速が得られる「ドライブセレクション」を追加した。また、マツダ車で初となるデュアルピニオンタイプの電動パワーステアリングシステムを採用した。また、6AT車にはアイドリングストップ機構「i-stop」と減速エネルギー回生システム「i-ELOOP」を標準装備した(6MT車でも一部グレードはメーカーオプションにて装備可能である)。
また、先進安全技術「i-ACTIVSENCE」も導入され、車線変更時に側方や後方から接近する車両を24GHz準ミリ波レーダーセンサーで検知してドアミラー内のインジケーターとブザー音で警告する「ブラインド・スポット・モニタリングシステム(BSM)」、自動的にヘッドランプのロービームとハイビームを切り替える「ハイ・ビーム・コントロールシステム(HBC)」、カメラでレーンマーカーを検知して車線逸脱を予測してドライバーに警告する「車線逸脱警報システム(LDWS)」、ドライバーのステアリング操作量とクルマの速度からカーブの路形を予測してコーナーの先を照射する「アダプティブ・フロントライティング・システム(AFS)」、後退時に接近する車両を検知してドライバーに警告する「リア・クロス・トラフィック・アラート(RCTA)」の5つで構成される。ただし、発売開始当時は衝突被害軽減ブレーキが搭載されておらず、ユーロNCAPの安全性テスト5星中4星しか取れなかったが、2018年6月の商品改良により、衝突被害軽減ブレーキにあたる「アドバンスト・スマート・シティ・ブレーキ・サポート(アドバンストSCBS)」と「スマート・シティ・ブレーキ・サポート[後退時](SCBS R)」が新たに標準装備された。
グレード構成は発売開始当初、インテリジェント・ドライブ・マスター(i-DM)、セグメント液晶オーディオディスプレイ、脱着式カップホルダー(1個)などを装備したMT専用のベーシックモデル「S」、7インチWVGAセンターディスプレイ、コマンダーコントロール、フルオートエアコンなどを装備するとともに、MT車にはトルクセンシング式スーパーLSD、AT車にはi-stopをそれぞれ装備し、前述の「i-ACTIVSENCE」の装備をオプション設定したハイグレードモデル「S Special Package」、ガラス製リアウインドー付ソフトトップ(クロス・インシュレーター付)を装備し、シート背もたれの前面・サイドサポート部内側・シート座面・ヘッドレスト前面に本革を使用。前述の「i-ACTIVSENCE」の装備をすべて標準装備した最上位モデル「S Leather Package」の3種類を設定。2015年9月にはパーティレース(JAF公認で行われるナンバー付車両を使用したワンメイクレース)への参加などサーキット走行を想定したMT専用のモータースポーツ向けベースモデル「NR-A」を追加(他のグレード同様、ナンバーを取得して公道走行が可能)。ベーシックモデル「S」から、タイヤディフレクター(リア)、トルクセンシング式スーパーLSD、リアスタビライザー、車高調整機能付ビルシュタイン製ダンパー、トンネルブレースバー、フロントサスタワーバーを追加装備し、ラジエーターを大容量化、ブレーキを大径化することで冷却性と耐久性を高めた一方、本革巻シフトノブ/パーキングブレーキレバーを省き、ハイマウントストップランプカバー・シートバックガーニッシュ・プッシュブタンスタートシステムのリングをブラックに、シフトノブブーツリング・本革巻ステアリングのベゼル・インナードアハンドル・16インチアルミホイールの塗装をシルバーにそれぞれ変更した。その翌月にはMT専用の最上位グレード「RS」も追加。「NR-A」同様に、ビルシュタイン製ダンパー(「NR-A」とは異なり、車高調整機能はなし)、フロントサスタワーバー、大径ブレーキを標準装備したほか、RECARO社との共同開発によるアルカンターラとナッパレザーの専用シートを採用し、エンジンの持ち味を更に強調するためにインダクションサウンドエンハンサーも標準装備。さらに、「S Leather Package」同様に前述の「i-ACTIVSENCE」の装備全てを標準装備し、BOSEサウンドシステム(AUDIOPILOT2)+9スピーカー、CD/DVDプレーヤー+地上デジタルTVチューナー(フルセグ)も標準装備した。
2016年に、フィアットとの技術協力協定により、同車をベースとした「フィアット・124スパイダー」が発売された。また、同年4月からはマツダオートザム店でも取り扱いを開始した。
2016年(平成28年)3月、ニューヨークオートショーに向けて「マツダ・MX-5 RF」(日本名、「マツダ・ロードスター RF」)を発表。先代のリトラクタブルハードトップ(RHT)の後継的位置付けで、RFのRはリトラクタブル式ハードトップ、Fはファストバック(ルーフから車両の最後端までルーフラインがなだらかに傾斜していく形状のこと)をそれぞれ意味している。エンジンは各国の市場に合わせ、「SKYACTIV-G 1.5」または「SKYACTIV-G 2.0」を使い分け、北米モデルの「MX-5 RF」には「SKYACTIV-G 2.0」を搭載する。
RFでは電動格納式ルーフの開閉操作をスイッチ操作のみでできるように改良するとともに、それぞれの部品の動きをオーバーラップすることで開閉動作を美しくするとともに、トップロックの解除を含むスイッチ操作開始からルーフがロックされるまで約13秒で開閉できる速さも兼ね備えた。トランクはソフトトップモデル同様、機内持込対応サイズのスーツケース2個を積載できる容量を確保しているほか、荷室内には工具などが収納可能なマルチボックスを配置した。
日本国内においても2016年(平成28年)11月10日に予約受付を開始し、同年12月22日に発売されることが発表された。日本仕様ではソフトトップモデルよりも排気量が大きい「SKYACTIV-G 2.0」で、ソフトトップモデル同様に縦置きにして専用チューニングを行ったPE-VPR [RS] 型(最高出力158 PS/最大トルク20.4 kgf・m)を採用する。グレード体系はベーシックモデルの「S」、シート素材にナッパレザーを採用した充実装備の「VS」、ブラックのアルカンターラとナッパレザーを組み合わせ、赤のパイピングを配したRECARO社製シートを採用したスポーティモデルの「RS」の3グレードが用意される。
2016年(平成28年)12月10日に行われた「オートカラーアウォード2016」で、マシーングレープレミアムメタリック(外板色)×オーバーン(内装色)の組み合わせがグランプリを受賞した。マツダ車のグランプリ受賞は2001年の第3回以来15年ぶり2回目となった。
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左右にスクロールして マツダロードスタークーペのグレード別のスペックが確認できます。
車種 | エンジン | タイヤ | 燃費 | 中古車 | 評価•レビュー | ボディサイズ | |
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ロードスタークーペ
1.6
2003年10月から 2004年04月 2,350,000円 クーペ |
エンジン:
直列4気筒DOHC 排気量: 1597cc 型式: GH-NB6C改 馬力: 125ps トルク: 142(14.5)/5000 ミッション: 5MT |
前輪:
185/60R14 後輪: 185/60R14 駆動: FR 最小回転: -m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: レギュラー 実燃費: から |
165万円から
199万円 3台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1240 車幅: 1680 全長: 3995 定員: 2人 |
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ロードスタークーペ
1.8 タイプA
2003年10月から 2004年04月 3,100,000円 クーペ |
エンジン:
直列4気筒DOHC 排気量: 1839cc 型式: GH-NB8C改 馬力: 160ps トルク: 170(17.3)/5500 ミッション: 6MT |
前輪:
205/45R16 後輪: 205/45R16 駆動: FR 最小回転: -m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
187万円から
187万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1240 車幅: 1695 全長: 3995 定員: 2人 |
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ロードスタークーペ
1.8 タイプE
2003年10月から 2004年04月 2,800,000円 クーペ |
エンジン:
直列4気筒DOHC 排気量: 1839cc 型式: GH-NB8C改 馬力: 154ps トルク: 167(17)/5500 ミッション: 4AT |
前輪:
195/50R15 後輪: 195/50R15 駆動: FR 最小回転: -m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
270万円から
308万円 3台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1240 車幅: 1680 全長: 3970 定員: 2人 |
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ロードスタークーペ
1.8 タイプS
2003年10月から 2004年04月 2,750,000円 クーペ |
エンジン:
直列4気筒DOHC 排気量: 1839cc 型式: GH-NB8C改 馬力: 160ps トルク: 170(17.3)/5500 ミッション: 6MT |
前輪:
205/45R16 後輪: 205/45R16 駆動: FR 最小回転: -m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
168万円から
195万円 2台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1240 車幅: 1680 全長: 3995 定員: 2人 |
販売期間:2003年10月から2004年04月
4件のマツダロードスタークーペの中古車
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