フォードマスタングコンバーチブルの中古車
販売期間:2002年02月から2003年01月
44件のフォードマスタングコンバーチブルの中古車
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フォードマスタングコンバーチブル |
フォード・モーター
フォード・モーター・カンパニー()とは、アメリカの自動車メーカーである。
フォードは自動車の大量生産工程、および工業における大規模マネジメント(科学的管理法)を取り入れたことで20世紀の産業史・経営史に特筆される。特に1913年、組み立て工程にベルトコンベアを導入し流れ作業を実現したことは有名である。大量の自動車を早く生産できる高効率の工場設備、士気を高める高給料の工員、一台当たりの生産コストの革新的な低減を組み合わせたフォード生産方式は「フォーディズム」の名で世界的に知られるようになった。
ヘンリー・フォードは2度自動車会社の起業に失敗したが、3度目のこの会社は1903年6月16日の創業から現在まで続いている。当時40歳の彼は12人の投資家から現金2万8千ドルを集めて再起を期した。特に重要な投資家はダッジ・ブラザーズ自動車の創立者、ジョン=フランシス=ダッジとホラティウス=エルジン=ダッジのダッジ兄弟だった。
フォード・モーターは『A型』と名付けた車から製造販売をおこない1908年のS型に至った。S型に続き1908年から製造販売された『フォード・モデルT』は大量生産時代の自動車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制を形作った最初の車となり、現代の自動車産業の原点としての意味で名車といわれている。
フォード開業当時のモデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2・3人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確保することに成功していた。フォード・モデルTは初めての自社工場であるを利用し、フル生産開始の1909年には1年間で1万8千台もの台数を生産した。廉価なT型への需要が急増すると、フォードはさらに大型のを建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能とした。フォード社は流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。
しかし生産技術革新は、工員にとっては、同じ動作だけの単調な労働を長時間強いられる極めて過酷なもので、人員の異動や退職も多く、未熟練工員の雇用や訓練コスト高に結びついた。ただでさえアメリカの労働力が不足する中、フォードは労働力確保を迫られ、1914年には1日当たりの給料を2倍の5ドル(2006年の価値では103ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを1日9時間から1日8時間・週5日労働へと短縮する宣言を発し、結果応募者が退職者を上回り続けることになった。合衆国政府が最低賃金や週40時間労働の基準を決める以前にこれを達成したことになる。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けた。
労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストは上がったが、フォードは販売価格に転嫁せず、生産コストを矢継ぎ早に削減することでコスト上昇分を吸収した。またフォードのブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入した。ヘンリー・フォードは、従業員が自社の車を買えるように賃金を引き上げたが、こうした厚遇は当時のウォール街の金融機関などから批判を浴びている。しかしフォードは成功を収め、1919年末にはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がフォード・モデルTとなった。T型以前のモデルでは黒以外の多様なバラエティがあったが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で黒1色しかなかった。
1915年にはヘンリー・フォードは第一次世界大戦の休戦を模索するために平和使節としてヨーロッパへ渡っている。これは彼への人気を高めたが、一方でフォード・モデルTは連合国の軍用車となって戦争を支えた。
フォード社はフォード・モデルTだけを製造し続け1927年まで20年近くを一モデルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やす。当時金持ちのおもちゃといわれた自動車を大量生産によって大幅に値下げし、車は大衆的な輸送手段となった。この成功によって150社程もあった米国自動車会社の中からフォード社はアメリカ市場の5割を占める大会社となった。
1919年にヘンリーの息子エドセル・フォードが社長を引き継いだが、社の実権は創業者ヘンリーが握り続けた。社の経営はヘンリーの個人経営同然であった。彼は安価に大量にT型を供給し続けることしか念頭にない節もあり、より上級の車を求める顧客の需要を無視し、生産性のさらなる向上でT型の価格を下げ続けた。
この隙をついてGMとクライスラーがシェアを伸ばし、アメリカ内外の競合企業がT型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。もともと多様な自動車会社が合併して生まれたGMは、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販売しており、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時代遅れのものとし、T型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。またGMほか競合企業はオートローンによる信用販売により、所得の低い層でも分割払いで高い自動車を買える仕組みを築いた。
社長のエドセルは早くからT型のモデルチェンジを考えており、それは社内や販売店の意向も同様だった。しかし、ヘンリー・フォードはこれを一顧だにせず、オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した。これら固執は後に失政ともいわれた。
しかしT型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかだった。1927年12月にはついに、1500万台を販売したT型の生産を中止し、心機一転、モデル名を振り出しに戻し再びA型と名乗る車を導入した。一方、1922年2月4日にはリンカーンを買収し、フォードは高級車市場へ参入している。また1938年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリーブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。
1920年代後半から1930年代にかけての大恐慌時には、フォード社の高い月給は労働者を多数集めたものの、工場の労働と規則は厳しいものだった。また大恐慌における自動車需要の収縮でフォードの他社との競争は激化した。なおこの頃航空機製造にも乗り出し、「トライモーター」などの旅客機を世に送り出した。
GMとの競争は、早くから海外への進出も目を向けることにも繋がった。イギリス・フォードが1911年、ドイツ・フォードが1931年と古くから現地生産が行われ、1967年にフォード・オブ・ヨーロッパ (以下、欧州フォード) が設立されそれ以降はモデルの一元化が推進され、1970年代から1980年代を通して完全に一元化された。欧州フォード車はフォード車であっても欧州車そのものであり、マッスルな北米部門に対し、質実剛健な欧州部門という方向性となっていた。
またアジア進出も早くから行われ、1925年2月には、世界五大国の1つであり、自動車市場の成長が期待されていた日本の横浜市緑町に、日本法人の「日本フォード」が組み立て工場(日本フォード子安工場)を置いた。アメリカで生産されていたモデルを主に生産、販売し、当時の主なターゲットはタクシーなどの営業車市場であったが、その後富裕層を中心とした自家用車市場にも食い込んでいった。
その後GMもこれにつづき日本進出し、この1925年から1940年頃の時期に、フォードとGM、オースチン、そして国産のダットサンやオオタが一般オーナーに広く普及したことにより、自動車販売網やガソリンスタンド、オーナーズクラブなどの日本の自家用車の基礎がつくられている。
1926年にはオーストラリアのジーロングにフォード・オーストラリアを開設し、1970年代以降独自モデルの生産を続けている。1929年にはソビエト連邦の共同事業としてニジニ・ノヴゴロドにNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、現在のGAZ)を開設した。
フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。フォード・モーターもこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪した。しかしフォードは多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代のナチス政権下のドイツにおけるフォード工場の国有化に協力しドイツから勲章を得た。
一方でフォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機の製造のために1941年4月にアナーバー近郊で着工したウィローラン工場は面積33万平方メートルで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。B-24製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、ウィローラン工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。
ウィローラン工場建設のストレスで社長エドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、再び父ヘンリー・フォード1世が経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにM4中戦車やジープ()の生産にもあたっている。
なお、第二次世界大戦中は多くの男性労働力が戦場へと駆り出された他、新型車の開発、発売がストップしたのみならず、鉄やガソリンの調達さえ困難になり、アメリカ国内でガソリンの販売規制が行われたことから乗用車の販売が激減した。
ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード二世をフォードの社長に据え、1947年世を去った。ヘンリー二世は1945年から1960年まで社長を務め、1960年から1980年まで会長・CEOを務めた。ヘンリー二世は1956年にフォードを公開会社としたが、現在に至るまでフォード家が議決権株式の40%を支配し続けている。
1946年に、ハーバード・ビジネス・スクールを経てアメリカ陸軍航空軍で統計学を用いて戦略爆撃を立案・分析したロバート・マクナマラがフォードに入社し、経営計画および財務分析を担当する重役となる。
マクナマラはヘンリー二世の支持を得て、創業者と大戦特需を失い危機に陥ったフォードを立て直し、トップレベルの経営担当重役を歴任し1960年11月9日にはフォード家以外から初めての社長となった。しかし社長就任から5週間もたたないうちにジョン・F・ケネディ大統領に請われホワイトハウス入りし国防長官に就任した。
アメリカ経済が戦禍から立ち直りつつあった1949年に、フォードは戦後初の本格的な新型車「カスタム」を世に出し、その斬新なデザインによりヒットさせた。
その後も幅広いバリエーションを持つフェアレーンや、名車と称えられるサンダーバードをヒットさせ、併せて第二次世界大戦前から展開していたヨーロッパ市場においても、イギリス・フォードのアングリアやゼファーなどのヒットによりその位置を盤石なものとした。
1958年には、フォードとマーキュリーの間のレインジを担当する、斬新なフロントグリルを特徴とする中級車ブランド「エドセル」を、大々的なキャンペーンとともに発売した。
しかし、亡き社長の名を取って「エドセル」と名付けられた新ブランドは、折からの不況とマーケティングの失敗、そしてデザインが受け入れられなかったために、その後追加モデルの投入を行ったにもかかわらず自動車業界史上記録的な大失敗に終わり、1959年11月に生産中止となり姿を消す。
エドセルの大失敗で打撃を受けたフォードは、行き過ぎた大型化の反動から中型車や小型車へのシフトが始まった流れをうまくつかむことに成功し、1960年に発表したコンパクトカーのフォード・ファルコンをヒットさせた。
さらに1964年にはファルコンをベースに、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマーをはじめとする幅広い層をターゲットにしたフォード・マスタングを出し、いずれも大成功をおさめた。1967年にはフォード・ヨーロッパが設立された。
マクナマラの部下の一人で、マスタングなど大成功した自動車の開発やリンカーン・ブランドおよびマーキュリー・ブランドの立て直しにあたったリー・アイアコッカは1970年1月に社長となった。
1970年代以降、フォードはビッグ3のライバルのほか、オイルショックの影響を受けて急速に伸びた日本の小型車との競争でシェアを失ったが、アイアコッカは後に安全性をめぐり訴訟へ発展したフォード・ピント(1971年)などを発売し、1978年には史上最高の売上と22億ドルの利益を達成した。
しかし経営方針をめぐって会長のヘンリー二世と衝突し続けたアイアコッカは、ついに同年7月13日に解雇された。アイアコッカは間もなくライバルのクライスラーの社長に就任し、同社を再建することになる。
アイアコッカの後は、フィル・コールドウェルが1979年に会長になり、1985年にドン・ピーターセンが継いだ。なお1979年には日本の自動車メーカーのマツダと資本提携し、傘下に置きつつ共同で小型車の開発や生産を行った。
1980年代も日本車との競争が続いたものの、1979年に発売された小型化されたマスタングや、1983年に発売されたテンポやサンダーバードがヒットした。さらにヨーロッパにおいても、フィエスタやシエラがヒットした。
また、日本車やドイツ車を徹底的に研究し、テンポやサンダーバードと同じく空力を意識したエクステリアをまとい、1985年に発売された中型車のトーラスが大ヒットし、久々にフォードブランドのモデルがアメリカのベストセラーの座を得るという快挙を成し遂げた。
1990年代には株式市場の盛況とガソリン安で、ピックアップトラックやSUVなど収益性の高い多くの車が売れ安定した経営を続けていた。経営状態の好調を受けて、1989年に経営不振に陥っていたイギリスのジャガーやランドローバーを買収し傘下に収めた。後にスウェーデンのボルボも買収する。これらのヨーロッパの高級車ブランドは「PAG(プレミア・オートモーティブ・グループ)」の名のもとにまとめられることとなる。
なお1990年にはハロルド・ポーリングが、1993年にはアレックス・トロットマンが、1998年にはジャック・ナッソーが会長兼CEOになった。ナッソーの攻撃的な経営は関係企業や社内の不興を買い、2001年に解任された。
2001年には久しぶりにフォード家のウィリアム・クレイ・フォード・ジュニアが会長兼CEOになっている。2006年にはフォード再建を期待されてアラン・ムラーリーがボーイングよりフォード入りし社長となった。
しかしナッソー時代の技術停滞と他業種参入、当時の業界再編に対抗するための買収路線のマイナスな影響は2000年代に入っても打開できず、さらに2001年9月のアメリカ同時多発テロ以降の原油価格高騰によるガソリンの値上げなどの影響で、アメリカ国内市場における主力商品のフルサイズSUVやピックアップトラックが燃費の悪さから敬遠される傾向にあり、同様の戦略をとっていたGMと共に経営不振に陥っている。
2007年3月には、PAGグループのアストンマーティンがデビッド・リチャーズ、クウェートの投資会社などで構成される投資家グループに8億4800万ドルで売却されたことが発表された。これによりアストンマーティンはフォード・グループから離脱。ただしフォードモーターは引き続き7700万ドルの資本は持ち続ける。
そして2008年3月26日付でPAGグループのジャガーとランドローバーが、インドのタタ・モーターズへ23億ドルで売却されたことが発表され、フォード・グループより離脱した。売却項目にはデイムラーとローバーの商標も含まれている。
さらに、2007年以降のアメリカ初の世界金融危機以後ますます深刻化する業績悪化を受け、2008年11月にフォード・モーターは、長年株式を保有し傘下に置いていたマツダの株式33.4%のうち約20%を、マツダや広島銀行などに売却した。
さらに2010年3月には、PAGグループに属していたボルボ・カーズを売却することで、中華人民共和国の浙江吉利控股集団との間で最終合意し、同年8月に売却を完了した。これによりPAGグループは消滅した。
大苦境に陥ったフォードを再生させるべく、CEOのアラン・ムラーリーは新経営戦略「One Ford」を策定した。
これまでは各地域で独自に商品開発・生産を行ってきたが世界的に体制を一本化し、重要なセグメントに対してモデルを絞り込み「Quality (品質)」「Green (環境性能)」「Smart (洗練度)」「Safety (安全性)」の4項目を世界トップレベルに向上させて、世界中に流通可能な本格的グローバルプロダクトを開発・販売するという戦略である。
同時多発テロ以降の原油価格高騰と世界金融危機を受けて、北米自動車業界では低燃費車を求める消費者の意向を受け、車のダウンサイジングが進んだ。フォードも例外なく2010年には北米でのBセグメントのフィエスタの販売開始、欧州フォードとの車種統合、ビッグ3では唯一V8エンジンのDOHC化、フルサイズ車の象徴とされたクラウンビクトリアの生産終了、エクスプローラーのFFベース化、ダウンサイジングコンセプトの小排気量過給エンジン「エコブースト」の採用など合理化を進めている。
また、1990年代後半からブランドの差別化に失敗し販売不振に陥っていた「マーキュリー」ブランドを、2010年10月3日に廃止した。しかしピックアップトラックのF-150はアメリカ国内のベストセラーの座を守り続け、2011年にはGM、クライスラーと同様、業績が好転した。さらに2016年には、進出から100年以上の歴史を持つものの、マツダとの提携も終わり、販売台数が低迷していた日本市場から撤退するなど選択と集中を進めている。
2017年3月には、3Dプリンターによる自動車の部品の製造テストを開始すると発表。将来的にはニッチだった車両の製造実現や、大量生産出来なかったグレードアップ・オプションの製造などを目指すとしている。3Dプリンターで製造された部品はこれまでの金属製部品の半分の重量で燃費性能の向上にも貢献できるとしている。
2018年4月には、北米市場でトーラスなどのセダンを廃止して小型車の生産を縮小、2020年までにトラックやSUV(多目的車)、商用車の比率を90%にする方針を表明している。アメリカの自動車工場では、少量生産のモデルでは工場建設や設備導入の投資分をカバーできない状況になっているため、フォードは米国国内で生産台数が5万台に満たないモデル(特にセダン)を中国からの輸入することでラインナップの維持を検討したが、中国との貿易戦争が激化したことにより2018年度中に白紙化された。
フォードのオーバル型のトレードマークは1907年に導入された。1928年に生産開始されたT型の後継車「A型」がオーバル型のバッジの中にフォードという書き文字を入れた最初の車種である。「フォード」という文字はフォード社最初の主任技師C・ハロルド・ウィリスの書いたものとされる。彼は1903年に自分の名刺に書いたフォードという文字をもとに、この書き文字を導入した。
グローバル企業であるフォード社は本拠地アメリカの他にも全世界に生産工場や研究開発施設を持っている。
2007年1月ブラジルの自動車メーカートロラーを買収。
フォードはフォード研究・改革センター(
)を4カ所、米国ディアボーン、シリコンバレー(パロアルト)、ドイツ・アーヘン、中国上海に開設している。また、開発センターは米国内だけでなく海外で、英国エセックス州()、ドイツ・ケルン(Merkenich-Cologne Technical/Design Centre)、オーストラリア・メルボルン(Asia Pacific Product Development Centre)、中国南京および重慶などに持っている。
日本への輸出は、日露戦争が終結した1905年(明治38年)に開始された。その後第一次世界大戦の戦勝国かつ世界五大国のひとつとなり、当時のアジア最大の経済大国となり、さらに関東大震災後にバスやタクシーの需要が急増した日本を重視したフォードは、1925年(大正14年)に「日本フォード」を設立した。
その後横浜市の子安にアジア初のフォードの製造工場を開設し、フォード・モデルTのノックダウン生産を開始した。1927年(昭和2年)には二代目A型フォード()の生産を開始し、またローン販売も開始した。
フォードは乗用車やトラックを年間1万台生産し、トヨタ自動車、日産自動車、いすゞ自動車を始め、大阪に工場を置いた日本ゼネラル・モータースをしのぐ国内最大の自動車メーカーとなった。また子安工場製のフォード車は日本の友好国である満州国などにも輸出された。
しかし、日米間の関係が悪化しつつあった1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定した。この法律により、国内資本が50 %以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100 %アメリカ資本だったフォードは1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされる。
太平洋戦争中の1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月の期間、工場設備は日本政府に接収されたが、戦後の連合国軍の管理を経て1958年(昭和33年)までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。
また、現在の新横浜地区では、東海道新幹線の計画が発表される以前、「フォードが工場を作るらしい」という触れ込みで土地の売買が盛んに行われていた。
1979年(昭和54年)には日本の中堅自動車メーカーであるマツダと資本提携し、マツダの株式の24.5 %を取得した。マツダにはアジアやオセアニア、またアメリカ向け小型車の開発と生産を委託したほか、「オートラマ」の名で全国にディーラーネットワークを展開し、「レーザー」や「テルスター」、「フェスティバ」など、マツダの工場で生産されたフォードの各モデルや、「マスタング」などのアメリカからの輸入モデルを販売するなど、日本でのフォードビジネスを共同で展開していた。
しかし1990年代に入り、バブル崩壊や販売多チャンネル化の失敗などによりマツダの経営状態が悪化したため、1996年(平成8年)にフォードはマツダへの出資比率を33.4 %に引き上げて自社の傘下におき、最高執行責任者のマーク・フィールズ、最高財務責任者のボブ・シャンクス、欧州担当のスティーブン・オデール氏、エンジン開発担当のジョセフ・バカーイなど役員を多数マツダに出向させた(マツダ・マフィア)。
その後マツダの経営再建は進んだものの、2000年代後半に経営危機に陥ったフォードは、資金調達のためにマツダへの出資比率を2008年(平成20年)より段階的に引き下げ、2015年(平成27年)までに所有する全てのマツダ株式を売却した。これにより、30年以上続いたマツダとの資本提携は解消された。
第二次世界大戦後の日本でのフォードビジネスは「フォード自動車(日本)」、そしてマツダとの提携下で展開した「オートラマ」を経て、その後「フォード・ジャパン・リミテッド」がフォード車の輸入・販売を行っていたが、2016年(平成28年)を以って日本市場から撤退すると発表した。
この理由として本家フォード車の不振と前年のマツダ株の完全売却に併せて、「収益改善への合理的な道筋が見えないこと」「日本市場の閉鎖性」を挙げている。要因として、
が挙げられる。
日本市場の撤退に伴い、直営販売子会社の「フォード・ジャパン・ディーラーリミテッド」のみならず日本統括法人の「フォード・ジャパン・リミテッド(フォード・ジャパン)」は完全閉鎖となり、全国の販売会社は契約が解除されて正規ディーラー網は消滅し、これにより、1世紀以上(正確に111年)続いてきた、日本におけるフォードによる事業の歴史に幕を下ろした。
2020年現在、正規輸入車に対するアフターサービスは、VTホールディングスグループの「ピーシーアイ」が全国の部品供給・リコール対応およびアフターサービスの保証業務を行っている。
新車販売については、フォード本社は日本撤退以降日本市場についてはノータッチとなっており、日本法人の復活や日本の別会社との総輸入代理契約を交わすなどのアクションを行っていない。
しかし、全国の輸入車ディーラー有志が並行輸入で新車販売を行っており、日本でも新車のフォード車を購入する事が可能になっている。VTホールディングスグループの「エフエルシー」(旧フォードライフ中部)も並行輸入販売を行っており、一部の旧フォードジャパン販売店を通じた全国販売が可能になっている。
1907年からフォードの子会社であるヘンリー・フォード・アンド・サン・カンパニー(Henry Ford and Son Company)が(Fordson Tractor)の製造を開始した。1920年にこの会社はフォード・モーターに再統合されたが、1917年に発売開始されたフォードソンF型(Model F)はフォード・モデルT同様に流れ作業により大量生産され、その価格と扱いやすさから爆発的な人気を博した。
フォードソン・トラクターはアメリカとイギリス、アイルランド、そしてアーマンド・ハマーが間に入る形でソビエト連邦で生産され、1923年にはアメリカ国内のトラクター市場で77%のシェアを得るに至っている。
フォードソン・トラクターのアメリカでの生産は1928年で終了しているが、その後もイギリスおよびアイルランドでの製造が継続された。なお、1938年から1964年の間に、フォードのトラクターは全てフォードソン名義からフォード名義に変更されている。
1986年に、フォードは農機メーカーのスペリー・ニューホランド(Sperry-New Holland)から一部部門を買収し、1988年からフォード・ニューホランド(Ford New Holland)名義でのトラクターの生産を開始する。
しかし、1991年、フォードは2000年までにフォード名義の製品の生産を停止するという契約のもと、トラクター部門をフィアット(現:フィアット・クライスラー・オートモービルズ)に売却した。フィアット傘下のニューホランド(New Holland)はこの契約通り、1998年にはフォード名義のトラクターの生産を終了した。
詳しく見る
フォード・マスタング
マスタング(Mustang)とは、アメリカ合衆国の自動車メーカー、フォード・モーターが製造・販売する乗用車である。
開発開始当時副社長であったリー・アイアコッカの指導下で、第二次世界大戦以降に出生したいわゆるベビーブーマー世代向けに、コンパクトカーであるをベースとしたスペシャルティカー(スポーティカー)の開発がスタートした。1964年4月17日から開催されたニューヨーク万国博覧会の初日に発表された初代マスタングは、後発(1968年)の4ドアセダンであるフォード・トリノより低価格ながら、スポーティーな外観と充分な性能、フルチョイスシステムと呼ばれる多彩なオプション群と巧みな広告戦略によって、ターゲットだったベビーブーマー以外の心も掴み、1960年代中盤の好景気と相まって、フォード・モデルT以来といわれる同社の大ヒットとなった。
初代マスタングの販売戦略とその成功はのアイアコッカが「アメリカの民衆はスポーツカーは好まない。スポーツカーのように見える車を好むのだ」の持論を元に「ホイールベースを詰め、タイトな後席を持ったファルコン」をコンセプトととし、さらに「トリノで見たスポーツカーは、みな口が尖っていた」とイタリア車風のフロントエンドを持たせた。
初代から一貫してハイパフォーマンス仕様車が用意されており、フォードのみならずアメリカを代表するスポーツカーとして高い知名度を誇っている。アメリカ国外においても、最廉価グレードのV型6気筒エンジン搭載の2014年モデルで22,200ドルと比較的低価格で社外品のパーツも潤沢なため、カスタムベースとしての人気も高い。
初代から現行型まで一貫して2ドアに4人もしくは5人乗りのレイアウトで、マッスルカーもしくはと呼ばれる2ドアクーペ(ハードトップ)に分類される。他の代表的なポニーカーとしては、ダッジ・チャレンジャーやシボレー・カマロ、ポンティアック・ファイヤーバードなどがある。
この戦略は同業他社にも多大な影響を与え、日本でもマスタングの方式を踏襲したトヨタ・セリカが1970年に発売され、以降各社からスペシャリティカーが発売され一大ブームを巻き起こした。
マスタングにはおおまかに分けて7世代のモデルが存在する。なお、文献などによっては1964年 - 1973年までのモデルを初代とする場合と、1971年 - 1973年までを3代目とする場合もあるので注意を要する。
1959年に発売されたフォード車初の小型車で、大ヒットモデルとなっていたフォード・ファルコンをベースとしたスポーティーカーとして、1964年にコンバーチブル及びハードトップのラインナップで登場した。バランスの良いスタイリングと性能、広告代理店の巧みなマーケティング戦略で発売当初から高い売れ行きを記録し、アメリカの自動車史に残る大ベストセラーとなった。
標準装備を簡素にして本体価格を抑える(ベーシックモデルで2,368ドル)代わりに、複数の排気量(直6 170 cu.in. V8 260 cu.in. V8 289 cu.in.)のエンジン、オートマチックトランスミッションやカラフルなビニールレザーシート、ホワイトリボンタイヤ、ディスクブレーキやリミテッド・スリップデフなど多彩なオプションを用意する「フルチョイスシステム」によりおしゃれな街乗りカーから硬派なスポーツカーまで仕立てられ、幅広い年齢、収入層に受け入れられることとなった。
1965年にファストバックが追加。エンジンは直6 170 cu.in.が200 cu.in.に排気量アップ。V8 260 cu.in.がなくなり、3種類の性能を持つ289 cu.in.となった。
1967年モデルはホイールベースこそ不変だがボディ外板を一新して全長・全幅、トレッドともに若干大きくなった。ハイパフォーマンスモデルはGTパッケージで、V8 390 cu.in.(6.4 L)エンジンが追加。映画ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFTに緑色に白のストライプバイナルで登場。
1968年モデルでは直6エンジンが2種類の250 cu.in.となる。V8エンジンに302 cu.in.が追加。映画ブリットに登場している。マスタングのシンボルマークが車体の左右にもつけられていた。
低価格で改造しやすいためアマチュアレーサーにも人気であり、ショップによるチューニングカーも登場した。
この節では内外装のデザイン変更が大きかった1969 - 1973年モデルを2代目とするが、英語版ウィキペディアではこの間も「初代」として扱っており、英語圏の資料でも同様の記述が多く見受けられる。ホイールベースは1964年の登場時(1964 1/2モデル)から1970年モデルは不変の108 in.(2,743 mm)であったが、1971 - 1973年モデルは109 in.(2,769 mm)となった。
初代に比べ大型化され、性能と価格も全体的に上昇して登場した。ファストバックの名称はスポーツルーフに変更された。また、特定のグレードを持たなかったマスタングにグレード名が付いた。ボディはハードトップ、コンバーチブル、ファストバック(スポーツルーフ)の三種。グレードはハードトップと、その豪華仕様のグランデ。スポーツルーフと、それをベースにさらにスポーティなルックス&パフォーマンスを持ったMach 1(日本では通常「マッハ1」と呼ばれる)が登場。
フォードではマーケティングの一環としてレースに参加し、ホモロゲーション取得用のモデルをフラッグシップとして設定することを計画した。フォードではシェルビー・アメリカンを興したキャロル・シェルビーに依頼しチューニングモデルのGT350(シェルビー・マスタング)で参戦したが、高価で売り上げが見込めないことから、GT350よりも幅広い層に購入できる価格に抑えたBOSSを新たに開発し、こちらを主力とすることとなった。
Bossシリーズには、1969年と1970年モデルにBoss 302とBoss 429の2タイプがあり、特に前者はレーシングマシン直系のBoss 302エンジン()を搭載したトランザムシリーズ()のホモロゲーションモデル(排気量5,000㏄以下)に合致させたモデルである。フロントにエアダムを備え、ボンネットやロービーム部分を艶消し黒で塗っているのが特徴(1969年型)。Boss 429はNASCAR用ホモロゲーション取得用であり、単にエンジンの市販台数(500台)をクリアするためにのみ作られた(マスタング自体にNASCAR出場資格はなかった)。マスタング歴代最大排気量(429 cu.in.= 7.0 L)となるビッグブロック()ヘミエンジン(厳密にはセミ・ヘミ。フォードではブルー・クレセントと呼称)が搭載され、ボンネット上にはひときわ大きなエアスクープが取り付けられた。カタログスペック上は375馬力であるが、実際には600馬力以上あったと言われている。Boss429はフォードの生産車と言うよりは、むしろ改造車というべきで、フォードのワークスともいうべき「カー・クラフト」で生産された。428Cobre Jetを登載したMach 1にオハイオ州リマで生産したBoss429エンジンを合体させた。1971年からは規定が変わり、セミヘミ351 cu.in.のエンジンを載せた「Boss351 」が1806台生産された。 これはエンジンの公認を取るために生産されたもので、この車自体はレースに出なかったものの、パワーと足回りのバランスが秀逸だったと評価されている。
マッハ1は、1969年と1970年モデルでは428 cu.in.Cobre Jet(コブラジェット。)、1971年モデルでは429 cu.in.Cobre Jetを搭載し、さらにオプションでSuper Cobre Jetラムエア・インテークを装備していた。しかし翌年からは351 cu.in.のみになった。
1973年マイナーチェンジ。フロントグリルのフォグランプが横型から縦型になりグリル開口部が大きくなる。
映画では1971年モデルが『007 ダイヤモンドは永遠に』のボンドカーに採用され、1973年モデルが『バニシングin60″』で主役のエレノア(エレナー、ELEANOR)に抜擢され、約40分間のカーチェイスシーンを務めた。
栃木県警察にマッハ1の1973年モデルのパトロールカーが高速取締用車両として導入(寄贈)され、鹿沼市の免許センターに展示されている。
当初はそれなりの販売台数であったが、初代よりも大型化、ハイパワー化したため燃費が悪化しており、加えて1973年に起こった第一次オイルショックの影響もあり、小型軽量化など、省資源指向への対応ができなかったことで、最終的には販売が低迷してしまった。
フルモデルチェンジによりマスタングIIが正式名称となる。デザインはフォード傘下のデザインスタジオであるイタリアのカロッツェリア・ギアが担当した。また上記のように低燃費、小型化志向を受けてボディサイズも大幅に縮小され、フォード・ピントをベースとし、本来の軽快な「ポニーカー」の姿を取り戻した。
当初はマスタング初の直4 140 cu.in.、V6 169 cu.in.でV型8気筒エンジン搭載車の設定はなかった。ボディタイプはハードトップとハッチバックの2種類。ハードトップと、それをベースにした豪華仕様のギア、ハッチバックと、それをベースにしたMach 1の4車種構成(Mach 1のみV6エンジンが標準)。
1975年V8エンジン(302cu.in.) が復活。ギヤのクォーターウインドウをオペラウインドウ風に、ルーフ後方をレザートップで覆いランドウ風にしてハードトップと差別化した。
1976年にはハッチバックに、コブラ・パッケージが登場。かつてのシェルビーGT350を彷彿させるホワイトボディにブルーのストライプ。フロント&リアスポイラー、リアウインドウルーバーやボンネットにエアスクープが付く。コブラIIと呼ばれた。
1977年途中でTバールーフが追加。
1978年コブラⅡの上をいくキング・コブラパッケージが登場。ボンネットの上にはパワ―バルジが付くがエンジンがパワーアップした訳ではなかった。ボンネットに巨大なコブラのイラストが描かれ、ボディ全体にピンストライプが入るなど、派手な外観が特徴である。
創業2代目かつ社主であるヘンリー・フォード2世と対立したために、1978年末にフォードを追放されたアイアコッカの開発主導による最後のマスタングとなった。
オイルショック以降続いていた小型化、低燃費指向を受けて全長4.5m程度と3代目に続き小型化は継続され、シャシはピントからフォード・フェアモントの「FOXプラットフォーム」を採用した。このシャシーからFOXマスタングと呼ばれた。またフォード車初となるターボエンジン(2.3リッター直4SOHC)が登場。
スポーティグレードのMach1が消え「コブラ・パッケージ」がそれに代わった。コブラは2.3リッターターボエンジンに4速マニュアルの組み合わせだった。
1980年にはエンジンの構成が大幅に変わり、V6エンジンが直6 200cu.in(3,277㏄)、V8エンジンが255cu.in(4,179㏄)となる。
1981年には、このモデルにはなかったTバールーフが登場、これは2ドアでも3ドアでも選べた。
1982年はコブラに代えて高性能グレード「GT」を設定。再び302cu.in(5,000㏄)が登場。それに伴い2.3リッターターボエンジンは廃止。
1983年。10年ぶりにコンバーチブルモデルが復活した。
1980年代初頭の好景気を背景にハイパワー指向が復活してきたことから、1984年にハイパフォーマンスモデルSVO(Special Vehicle Operations の略称)が追加されている。
本来ならば1980年代後半にモデルチェンジされるはずであったが、この頃に販売台数が再上昇した上に、1988年に登場したフォード・プローブが、本来マスタングとして開発されていた車だったにも関わらず、FFである上にV8が搭載できなかったことから別モデルとして発売されるなど諸事情によりマイナーチェンジを重ねつつ1993年まで生産されることになる。姉妹車としてマーキュリー・カプリがある。
プラットフォームは先代より引き継いだFOXプラットフォームを改良して使用。デザインの細部に初代を意識した箇所が見受けられる。エンジンは3.8リッターV型6気筒OHVと5.0リッターV型8気筒OHV。また制動、運転性能、衝突や横転などの安全性能にも大きな配慮がなされた点が、初代までとの最大の違いである。コンバーチブルの地上高は若干剛性を高めたため低い。
1994年には日本でもフォード・ジャパンにより輸入が開始され、廉価版グレードはトヨタ・セリカや日産・シルビアなみの200万円台前半という車両価格で投入されたことが話題になった。また、東京で夏の渋滞時にエアコンのテストを行うなど、日本市場を大きく意識していた。
1996年モデルより5.0リッターV型8気筒OHVエンジンを4.6リッターV型8気筒SOHC24バルブエンジンに変更した。
同1996年にSVT製作の4.6リッターV型8気筒DOHC32バルブエンジン搭載のコブラが追加された。この車種はスタンダードではマニュアル車であった。
1999年にはエクステリアデザインの大幅な変更が施され、さらに初代のデザインイメージを反映させたスタイリングとなっている。
2001年には映画『ブリット』仕様が北米で限定8500台で発売された。これは劇中で使用された1968年式マスタングの外装をヒントにして作られたものである。
2004年の北米国際オートショーに新開発のDC2プラットフォームをベースにコードネームS-197として登場。チーフエンジニアはHau Thai-Tang、外装デザインは。フォードの「リビングレジェンド戦略」に基づき初代を意識したデザインを採用し、大きな話題となった。ベースモデルのエンジンは先代の3.8L OHVからに変更され、GTにはアルミニウムブロックの4.6L SOHC V型8気筒 (24V)・付が搭載された。ギアボックスはが標準で、オプションでが用意された。なおGTのマニュアル車には強化型であるが搭載された。
アメリカ国内ではNASCARだけでなく、ドリフト仕様としての評価が高く、フォーミュラDにはフォードワークス製を含む数台のマスタングがエントリーしている。2010年にはNASCARに参戦するRoush Fenway Racingに供給された。
2009年の春に2010年モデルとして内外装を変更したモデルに変更された。ヘッドランプはターンシグナルランプ内蔵式となり、テールランプも3連式を継承しつつ新デザインとなった。またルーフパネルに小変更を加え、V型6気筒モデルで4%、GTで7%の空気抵抗低減を図っている。
2007年には光岡自動車がこのモデルのコンバーチブルをベースに光岡・ガリューコンバーチブルを製造している。
2012年10月にはマイナーチェンジを実施した2013年モデルを発表。フェイスリフトの他、スモールランプ・テールランプのLED化、6速ATにマニュアルモードを備えたセレクトラックトランスミッションを採用。ボディーカラーにディープインパクトブルーとゴッタ・ハブ・イット・グリーンを追加した(アメリカ仕様のみ)。
2013年12月5日にフォードが2015年モデルとして新型を発表、マスタング初代登場50周年となる2014年4月17日にアメリカ本国での発売が開始された。日本では同年10月より発売。エクステリアは先代を踏襲しているが、サイズは先代に比べ全幅が38ミリ拡大され、全高は36ミリ縮小された。エントリーモデルには同社のクロスオーバーSUVエクスプローラーなどと同じく、直列4気筒の「エコブーストエンジン」搭載車も用意される。このモデルから世界戦略車としてイギリスやオーストラリア、日本といった左側通行諸国にも販売するためにシリーズとしては初めて右ハンドル車が設定された。右ハンドル車はオーストラリア仕様などについては、日本車同様の右ウインカーレバー・左ワイパーレバーを採用している。なお、右ハンドル車は2015年8月から生産開始されている。
2017年にはヘッドランプ、テールランプ、フロントバンパーリアバンパーなど各所の意匠が変更されたフェイスリフトモデルが発表された。2018年から発売が開始されたが、V6がラインナップから消え、V8 GTと4Cylinder EcoBoostの2種体制になった。
フォードジャパンがV6クーペプレミアム、V8GTクーペプレミアム、V8GTコンバーチブルプレミアムの正規輸入を行っており、2012年には30台限定だがV8パフォーマンスパッケージの導入も行った。日本向けはパイオニア製のカーナビやETCなどを選択できるなど、国内の環境に合わせてあるが、MTが選択できなかったり、車体色が少ない(北米向けは9色だが、日本向けは5色)など、特徴であるフルチョイスシステムの恩恵は少ない。また、BOSS 302やシェルビーGT500などは導入されておらず、2013年モデルのV6クーペプレミアムが本国では26,200ドルであるのに対し、日本では430万円と価格差も大きい。
7代目も2015年春から導入され、当初は左ハンドルのみの50周年記念限定車を先行して発売された。左ハンドルのみとしてはこれが最終モデルとなり、2016年春以降にV8エンジンならびにコンバーチブルモデルの登場と共に右ハンドル仕様車が発売される予定だったが、2016年1月にフォードが同年秋をもって日本市場から完全撤退する事となり、これにより右ハンドル仕様車の投入も幻となってしまったが、その後にVTホールディングスグループの「エフエルシー」(旧フォードライフ中部)やその他一部の旧フォードディーラーが直接並行輸入し、日本の保安基準に適合するよう改良した状態で国内新規登録するシステムを整える事で日本でも右ハンドル仕様を含めた新車のマスタングを再び購入する事が出来るようになった。
マスタングとは北アメリカ大陸で野性化した馬の名称であるが、第二次世界大戦後期に活躍したノースアメリカンの戦闘機であるP-51 マスタングにイメージを重ねたとも言われている。
当初はイタリア北部の都市の名前を取ったトリノという名前になることが決定していたが、当時のフォード会長のヘンリー・フォード2世が当時イタリア人のクリスティーナ・ベットーレ・オースティンと不倫中であったため、スキャンダルの報道に油を注ぐようなイタリアの名前を避けて、広告代理店のJ・ウォルター・トンプソンらと再考した結果クーガー(アメリカライオン)とマスタングの2つの名が残り、最終的にマスタングに決定した。
ちなみにフォードは後にフォード・トリノという車種を発売し、また、クーガーの名称は、後にマーキュリーブランドのラグジュアリークーペに採用されている。
なお、日本ではフォードジャパンによる正式名称の決定まではムスタングと表記されることが多く見られた。
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左右にスクロールして フォードマスタングコンバーチブルのグレード別のスペックが確認できます。
| 車種 | エンジン | タイヤ | 燃費 | 中古車 | 評価•レビュー | ボディサイズ | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
マスタングコンバーチブル
G
2002年02月から 2003年01月 3,970,000円 オープン |
エンジン:
V型6気筒OHV 排気量: 3797cc 型式: GF-1FARWP4 馬力: 193ps トルク: 298(30.4)/2750 ミッション: 4AT |
前輪:
225/55R16 後輪: 225/55R16 駆動: FR 最小回転: 5.4m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): 8.6km/L 燃料: レギュラー 実燃費: から |
57万円から
57万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1385 車幅: 1860 全長: 4655 定員: 4人 |
|
マスタングコンバーチブル
GT
2002年02月から 2003年01月 4,570,000円 オープン |
エンジン:
V型8気筒SOHC 排気量: 4600cc 型式: GF-1FAFIP4 馬力: 264ps トルク: 410(41.8)/4000 ミッション: 4AT |
前輪:
245/45ZR17 後輪: 245/45ZR17 駆動: FR 最小回転: -m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): 7.7km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
49万円から
49万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
0点 内観: 0点 スペック: 0点 エンジン: 0点 乗り心地: 0点 燃費: 0点 価格: 0点 |
高さ:
1385 車幅: 1860 全長: 4655 定員: 4人 |
販売期間:2002年02月から2003年01月
44件のフォードマスタングコンバーチブルの中古車
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