マツダユーノスコスモの中古車
販売期間:1990年04月から1991年02月
9件のマツダユーノスコスモの中古車
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マツダユーノスコスモ |
マツダ
マツダ株式会社()は、広島県に本拠を置く日本の自動車メーカーである。
自動車及び同部品の製造・販売を事業としている自動車メーカーである。本社所在地は広島県安芸郡府中町新地3-1。2019年度の世界販売台数は142万台。
ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている。1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした。2000年代以降は「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、走行性能とデザインを特色とした車作りに特化する戦略を進めている。今後は、顧客との間に強い絆をもった「プレミアムなブランド」を目指すとしている。
1979年以来フォードとの提携関係が長く、1996年5月には同社の傘下に入りプラットフォームや生産施設などの共有化が進められたが、リーマン・ショック以降は今度はフォードの経営が悪化したこともあり、2015年9月に完全にグループから独立した。
2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し、2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意。相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった。THS-Ⅱの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。
2018年5月には日本国内生産累計5000万台を達成した。国内メーカーではトヨタ、日産に次ぐ3社目の達成である。
創業は1920年、コルクを生産する「東洋コルク工業株式会社」として誕生。1927年以来、「東洋工業株式会社」が正式社名であったが、1984年にブランド名に合わせて「マツダ株式会社」に改称した。英語表記は「MAZDA」。コーポレートマークの「mazda」は1975年から、「M」を模った現在のエンブレム(ブランドシンボル)は1997年から使用されている。現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた。
1920年(大正9年)1月30日、広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された。清谷商会という1890年(明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した。
しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう。
こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり、芸備銀行から資金を調達した。1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。
1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。
前述の債務保証を発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる。
東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した。
1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手。オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった。また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得。松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した。コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、野口の斡旋により、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ。
1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始。軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した。改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得。売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された。
1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島で大規模な水力発電所をいくつも建設していた野口からの依頼を受けて開発した削岩機を初納入し、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた。1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した。
この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた。1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスのオースチン・7を購入して研究を開始。さらにドイツ車のオペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた。1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあったが、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた。
1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。呉海軍工廠からは爆弾、水雷、信管などの製造の命令を受けた。
軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された。しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ。
1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した。
1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業株を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた。翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った。同月には日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した。同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した。この年の10月には東洋工業は8556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており、戦時中に製造した小銃は累計で58万5646挺に上った。
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下)。爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した。しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った。松田重次郎の次男でマツダモータース (現・広島マツダ)社長の松田宗弥も全従業員7名と共に亡くなった。
東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道を東に向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂や寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった。しかしながら負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体に油をかけて火葬が行われた。1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた。
東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。広島県庁は1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。
占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。
企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市のブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8メートルのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。
三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。
1951年(昭和26年)、松田重次郎の長男で専務の松田恒次が社長に就任。1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。
1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360や三菱重工業の三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。
このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。これは国民の所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に軽乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車、日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。
次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。
1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。
こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった。
NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8000万円の特許料を払って技術導入を決めた。
技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。
REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。
1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。
1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた。東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた。このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定。増産工事に続いてREの新工場建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ。この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった。
1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した。10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施。同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた。ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表。オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった。研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した。
通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣。花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設。責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した。
東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却、住友銀行を中心とした協調融資、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向、米国販売会社の分割、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始といった対策が次々と打たれた。しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り、同業他社の首脳から「東洋工業は倒産する」との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった。
1976年(昭和51年)1月、住友銀行は本格的再建のために村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣。東洋工業を「経営形態を成しておらず、町工場に等しい状況」と判断した村井は、有名無実化していた最高意思決定機関である常務会の強化や、社全体の計画立案・調整を担う社長室の新設を実施。住友銀行式の合議制経営を導入し、それまでの松田ワンマン体制にメスを入れた。
住友銀行は、東洋工業の合理化に成功したとしても単独での生き残りは困難であると考え、開発したREの特許を交渉材料に提携先を探すことにした。しかしトヨタや三菱自動車との提携を模索するも成就せず、通商産業省も日産に提携を持ち掛けたが、こちらも実現しなかった。松田耕平も独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いていたが、GMはすでにREへの関心を失っていた上にアメリカの独占禁止法上の問題もあったため、この可能性も消えた。
国内自動車会社との提携は困難であると認識した住友銀行は外資との提携に動き、過去に資本提携交渉は決裂したものの、1971年(昭和46年)6月に業務提携を結び、小型トラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択。1977年(昭和52年)7月、前月に頭取に昇格した磯田は「東洋工業はフォードとの提携強化を望んでおり、その際、住友銀行は主力銀行として支援を惜しまない」との内容の会長宛ての親書をしたため、巽外夫に託し交渉を開始した。
こうした中、経営改革に消極的な松田耕平にしびれを切らした住友銀行は、当初より念頭に置いていた社長解任に向けた動きを始め、1977年(昭和52年)12月に出処進退を迫った。同月22日、松田耕平は代表権のない会長に退き、後継には住友銀行の後押しで、コストコントロール部を担当していた専務の山崎芳樹が昇格。これにより3代にわたって57年間続いた松田家による同族経営は終わりを迎えた。山崎は車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設し、経営トップの意向を反映する従来の車づくりから部署を越えて意見を出し合う体制を構築した。
1978年(昭和53年)に入りフォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年12月には東洋工業がフォードにトランスアクスルを供給する交渉がまとまった。翌1979年(昭和54年)11月、アジア太平洋戦略の足がかりとして日本車メーカーとの提携を模索していたフォードと東洋工業・住友銀行の思惑が一致したことで、フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現した。
住友銀行から派遣された常務の花岡信平の「アメリカでのスポーツカー需要に応えるためにはRE車が必要」との報告を契機にRE搭載の本格スポーツカーの開発が開始され、1978年(昭和53年)3月にサバンナRX-7として発売。日米で大ヒットを記録した。オイルショック以降発売した新型車と社員のディーラー出向制度が効果を発揮したことで販売は回復。1979年(昭和54年)にはトヨタ、日産に次いで生産台数100万台の大台に乗せた。1980年(昭和55年)には主査室制度になってからの最初の商品である5代目ファミリアを発売し、当時の若者らに支持され大ヒットを記録した。
1981年(昭和56年)、東洋工業は新たな卸売会社、オートラマを設立し、マツダが製造するフォードブランド車の国内販売を始めた。オイルショック後に延期が続いていた山口県防府市の完成車工場の建設も再開し、1982年(昭和57年)に操業を開始した。
1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称。同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した。
1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは一年後に150円台にまで急騰。自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた。円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開。他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した。
1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任。会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下、1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した。「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1000億円の経常利益を確保する目標を掲げた。オートラマ社長の安森寿朗が立案したこの販売拡大策は、住友銀行出身の大原通正が後ろ盾となって推進し、当時社長だった山本が最終的にゴーサインを出したものだった。
「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた。3チャンネル体制時に1500店余りだった店舗数を3000店近くにまで増やし、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった。この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年(平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録。国内販売台数も60万台と最高記録を更新した。1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した。
しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した。5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に銀行出身の和田淑弘を社長に据えた。マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上。1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った。販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ。マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した。拡大策は完全な失敗だった。
住友銀行の巽外夫は、マツダを再び再建させるには銀行主導では限界があり、フォードの世界戦略への編入以外に生き残る術はないと判断した。巽の要請に応じたフォードは、1994年(平成6年)に将来を有望視されている40歳代の4人を顧問としてマツダに派遣。同年6月の株主総会後に4人は役員に就任し、これをもってフォードは実質的にマツダの経営を掌握した。1996年(平成8年)4月、マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定。これによりフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まり、マツダは正式にフォード傘下に入ることとなった。合わせてフォードから派遣されていた副社長のヘンリー・ウォレスが社長に昇格し、日本の自動車会社初の外国人社長が誕生した。
ウォレスが社長に就任した1996年(平成8年)頃、マツダの有利子負債は7000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいた。財務の専門家であるウォレスら経営陣は、保有株式や不要不急の施設などの資産を売却し、伝統的に資金の面で寛容に扱われてきた開発部門に対しても厳しいコストダウンを要求。増えすぎた車種の整理と販売チャネルの簡素化や、フォード車とのプラットフォームの共通化を発表し、開発や生産、購買までの全業務のデジタル化により経営効率化を図る「マツダデジタルイノベーション」も導入した。1996年(平成8年)には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録。翌1997年(平成9年)9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じた。
1997年(平成9年)11月、副社長で販売が専門のジェームズ・ミラーが社長に昇格。社長のミラーと技術担当役員のマーティン・リーチの下、ブランドの再興に乗り出し、役員や技術者、海外現地法人との議論を重ねる中で、スポーティさ、走りの良さを全面に打ち出す考えをまとめた。この新たなブランド戦略を遂行するため、すでに進行していた主要車種の開発を白紙に戻し、車種名から内容まで一新したモデルを改めて開発することを決断。このため2000年(平成12年)11月から2002年(平成14年)春までの一年半にわたり、新型車が投入されない異例の時期が生じることになった)。
1999年(平成11年)12月、専務で新ブランド戦略策定の中心人物である(後にフォード社長)が社長に昇格。さらなるコストの見直しを図るため、2000年(平成12年)11月、スペインのフォードの工場でのマツダ車の生産、宇品第2工場の閉鎖、早期退職者募集を柱とする「ミレニアムプラン」を発表。1800人を募集した早期退職優遇プランには受付開始と同時に申し込みが殺到したため即時に募集が打ち切られる事態となり、最終的に2210人が会社を去ることとなった。積立不足だった退職給付債務を一括償却した影響もあり、この年には1552億円の損失を計上した。
2001年(平成13年)10月、第35回東京モーターショーにて新ブランドメッセージの「Zoom-Zoom」を打ち出すとともに、新生マツダブランドを体現する商品の第一弾である中型セダンのアテンザと、ロータリーエンジンを搭載したスポーツカーのRX-8を公開。プラットフォームからエンジンまでを一新し、翌2002年(平成14年)5月に発売されたアテンザは国内外で高い支持を受け、生産能力を引き上げるほどのヒット作となった。新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ、デミオ、アクセラといったモデルの投入によって業績は回復。全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めた。
2003年(平成15年)8月、前年6月に社長に就任したに代わり、井巻久一が社長に就任。日本人社長としては7年ぶり、生え抜き社長としては山本健一以来16年振りのことだった。2007年(平成19年)3月期には営業利益が1621億円と過去最高を記録した。
マツダの業績はフォードの下で回復基調へと転じたが、開発や生産部門の中では、フォードグループの軛から離れ、商品の多様性とコスト低減を両立させる戦略を実行したいとの思いが強まっていた。2005年(平成17年)7月、マツダは好調な業績を背景に長期戦略の策定を始め、10年後の2015年(平成27年)までに全てのマツダ車が世界のベンチマークになるとする目標を設定した。さらに、5年から10年先までの全ての車種をまとめて企画・開発する「一括企画」、一括企画で決めた車種の主要な技術的要素を統一し、コンピューターシミュレーション技術を用いて開発の効率化とコスト低減を目指す「コモンアーキテクチャー」、同一生産ラインで複数の車種を変種変量で造る「フレキシブル生産」の3つから構成される「モノ造り革新」を立案し、開発から生産にいたるまでの全ての業務プロセスを一新する構想をまとめた。
翌2006年(平成18年)末に親会社のフォードに計画の説明に訪れ、否定的な意見に遭いながらも、最終的に黙認に近い形で了承を得るに至った。同時にこれはマツダが失敗してもフォードは手を差し伸べないということを意味し、この時にエンジンの開発方針を分けたことが後の提携解消の契機となった。2007年(平成19年)には技術開発ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」を発表。走る楽しさと環境安全性能の両立を打ち出し、翌2008年(平成20年)6月には2015年(平成27年)までにマツダ車の平均燃費を30%向上させる目標を公表した。
しかしその直後の2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックが発生。世界の経済界・産業界は混乱に陥り、自動車産業も深刻な打撃を受けた。経営が悪化したフォードは同年11月に資金調達のため保有するマツダ株の一部を売却したため、出資比率は13%に低下した。これと同時にマツダは副社長の山内孝が社長に昇格する人事を発表し、経営陣をマツダ出身者主体に刷新した。リーマン・ショック後に円相場が急激な円高に振れたことで輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け、2009年(平成21年)3月期には赤字に転落。さらに2011年(平成23年)にかけて東日本大震災やタイの洪水といった事態が続き、最終的にマツダの業績は2012年(平成24年)3月期まで4年連続の赤字に陥った。こうした中、2009年(平成21年)に増資と自社株の売却で933億円、2012年(平成24年)には公募増資と劣後ローンで2142億円を調達し、研究開発やメキシコ新工場をはじめとする設備投資に必要な資金を捻出した。
2010年(平成22年)10月、マツダは新世代のエンジン、トランスミッション、ボディ、シャシーといった一連の新技術を総称した「スカイアクティブ・テクノロジー」を発表。2011年(平成23年)には新開発したガソリンエンジンのSKYACTIV-Gをデミオに搭載して発売し、他社のハイブリッドカーと同等の燃費性能を実現した。2012年(平成24年)にはスカイアクティブ技術を全面的に採用した車種の第一弾であるCX-5を発売し、ディーゼルエンジンのSKYACTIV-Dを中心に大ヒットを記録。この年にはスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換した。2013年(平成25年)には専務の小飼雅道が社長に昇格した。
この後もスカイアクティブ技術とデザインテーマ「魂動」を採用した一連の車種は人気を集め、2015年(平成27年)に発売した4代目ロードスターは「世界・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。合わせて日本車としては初の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」も獲得し、同賞設立以来初めての2部門同時受賞を果たした。2016年(平成28年)3月期決算では過去最高の営業利益2267億円を記録し。2018年(平成30年)3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新した。
2015年(平成27年)5月、マツダとトヨタは提携拡大に向けた検討を開始すると発表した。その一方で、2008年(平成20年)以来段階的にマツダへの出資比率を下げていたフォードは、同年9月末までに保有していたすべてのマツダ株を売却し、これによりフォードとマツダの36年間にわたる資本提携は終了した。2017年(平成29年)8月、トヨタとマツダは互いに500億円ずつ株式を持ち合う業務資本提携で合意し、アメリカでの生産合弁会社の設立、電気自動車に関する共同技術開発といった提携内容を発表した。2018年(平成30年)、副社長の丸本明が社長に昇格した。
マツダはロータリーエンジンの量産化に成功したメーカーであったが、2012年6月にRX-8の生産完了後は、ロータリーエンジン搭載車の生産から遠ざかっている。
2013年には、新型ロータリーエンジンを発電機(レンジエクステンダー)として搭載した電気自動車の試作車「マツダ RE レンジエクステンダー」を公開。
2015年10月には、次世代ロータリーエンジン「SKYACTIV-R」を搭載したコンセプトカーRX-VISIONを発表した。
2018年1月にトヨタ自動車が発表したMaaS専用電気自動車のコンセプトカー「e-Palette Concept」では、市販化に向けてマツダが技術パートナーとして参加し、ロータリーエンジンがレンジエクステンダーとして採用される予定であることが発表された。
2011年、自動車を構成する諸要素の全てを刷新し、SKYACTIV TECHNOLOGYとして発表した。SKYACTIV TECHNOLOGYを全面的に搭載した車両は、この取り組みと並行的に進められてきた生産分野の改革「モノ作り革新」により、1ドル77円でも日本国内から輸出して全ての地域で利益を生み出せるコスト競争力を持つ。
SKYACTIV TECHNOLOGYの開発には「モデルベース開発」と呼ばれる手法が用いられており、この手法を用いた開発力については業界随一と他社から評されている。
2017年8月、圧縮着火による燃焼方式を世界で初めて実用化したガソリンエンジン「SKYACTIV-X」を発表し、2019年11月にMAZDA3に搭載されて発売された。
マツダは日本の自動車メーカーでも、工業デザインへの意識を早い時期に持った草分けである。1940年代末期に工業デザイナーの小杉二郎の助言を受けるようになり、1950年以降のオート三輪では、もともとプレスパーツを用いて直線的だったバーハンドルデザインを発展させる形で、オート三輪の風防ノーズ部を鋭角的に仕上げるスタイリングを採用した。続いて1955年以降はノーズの角をえぐる形で2眼ヘッドライトを配置する精悍な形態を導入、オート三輪デザインの基調とした。小杉の指導の下、自社デザイナーの手で仕上げられた軽三輪トラックのK360や軽四輪乗用車のR360クーペ(1960)等までモチーフは引き継がれている。
また1963年発売の初代ファミリアではシボレー・コルベア風のウエストベルトデザインを取り入れ、1966年発売の初代ルーチェでは、イタリアのベルトーネによるスタイリングを採用するなど、古くから旺盛なデザイン志向を発揮していた。
1980年代後半から1990年代前半に、デザイン本部長である福田成徳の指揮の下、「ときめきのデザイン」をテーマにボディの光と影をコントロールする造形を追求した。1989年に発表した初代ロードスターのリアコンビネーションランプは、そのデザイン性と機能性の両立が評価され、ニューヨーク近代美術館に展示・永久収蔵されている。1991年に発表した3代目RX-7は、2008年にイギリスのデイリー・テレグラフ紙が選ぶ「最も美しい車100選」の61位に選出された。また、1991年に発表したユーノス500のデザインは、イタリアのジョルジェット・ジウジアーロに絶賛されたと言われる。
1996年にはデザインテーマ「コントラスト・イン・ハーモニー」を制定し、全ての車種のフロントグリルに5角形の「ファイブポイントグリル」を適用することを決定。2001年にはフォード出身のモーレイ・カラムがデザイン本部長に就任し、デザインテーマ「アスレティック」の下、躍動感のある造形を追求した。
2006年にはローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン本部長に就任。デザインテーマ「NAGARE」の下、流 (NAGARE)、流雅 (RYUGA)、葉風 (HAKAZE)、大気 (TAIKI)、清 (KIYORA)、風籟 (FURAI)といった、自然界に存在する動きの美しさを取り入れたコンセプトカーを発表し、その造形は2010年に発表された3代目プレマシーのデザインに反映された。
2009年にはアッカーのルノーへの転職に伴い、デザイン本部長に前田育男が就任。2010年にデザインテーマ「魂動-Soul of Motion」をコンセプトカー・靭 (SHINARI)と共に発表して以来、生き物が見せる一瞬の動きの躍動感や緊張感、美しさを取り入れたデザインを進めている。2015年に発表したRX-VISIONは、フランスで最も美しいコンセプトカーに選出され、2016年には、4代目ロードスターが日本車としては初めて「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。
マツダが開発するカーナビゲーションシステム及びインフォテインメントシステム。日本、アメリカ、カナダ、メキシコを除いた地域での名称はMZD Connect。2013年11月発売の3代目アクセラに初めて搭載された。一部のグレードを除き、ほぼ全てのマツダ車に搭載されている。「ヘッズアップコックピット」の考え方の下、「センターディスプレイ」、「アクティブ・ドライビング・ディスプレイ(ヘッドアップディスプレイ)」、「コマンダーコントロール」により構成され、脇見運転や不注意運転を最小化するようレイアウトされている。
ナビゲーション機能は、ショップオプションとして販売される地図データが書き込まれたSDメモリーカードを別途購入し、車載スロットに差し込むことで利用が可能になる。地図データは3年間無料で更新でき、更新ツールを利用すれば自宅でのアップデートも可能である。
発売当初、ナビゲーションシステムにはハンガリーの社製のものがグローバルに採用されたが、日本のユーザーからはナビゲーション性能の不足を指摘されたことから、2015年から日本市場のみ、日本のミックウェア社製のシステムに切り替えられた。
スマートフォンとも連携し、ハンズフリー通話やSMSの読み上げの他、TwitterやFacebookといったSNS、対応するインターネットラジオの利用も可能である。アプリケーションの追加や、アップルが提供するCarPlay、Googleが提供するAndroid Autoの対応も発表されているが、CarPlayとAndroid Autoの対応において、日本で販売しているモデルはCX-5(2代目・2019年モデル)とCX-8(2019年モデル)、マツダ3(2019年モデル)のみで、他のモデルについては2019年6月時点では対応していない。
マツダコネクトは2DIN規格に対応していないため、他社のカーナビゲーションに換装することはできないが、アルパインからCX-5(2代目)とCX-8専用のカーナビゲーションが登場している。
マツダ車以外では、OEM供給するトヨタ・ヤリスiA、フィアット・124スパイダー、アバルト・124スパイダーに採用されている。
マツダは1988年に、海外販売に依存していた経営体質を改善するため、国内販売を倍増させるとする「B‐10計画」を策定し、従来のマツダ、マツダオート、オートラマに加え、1989年にユーノスとオートザムの独自ブランドと販売網を新たに設立し、当時のトヨタや日産と同様の国内5チャンネル体制を敷いた。1991年にはマツダオートの名称をアンフィニに改称し、高級車専門店とした。しかし、急激なモデル数の増加によるブランドイメージの混乱や研究開発費・固定費の増大を招いた上に、バブル崩壊後の景気低迷の影響も受け、結果的に5チャンネル体制は失敗に終わった。
以来、住友銀行の主導の下、1994年から5チャンネルに広がった販売網の統廃合を進め、1996年にはマツダブランドに再び一本化された。しかし、国内販売では大幅な値引きや安売りに頼った販売拡大策を推し進めたためマツダ車の中古車査定価格は下落し、他社のディーラーに下取りに出そうとしても残価が低すぎるため、結果としてマツダ車以外に乗り換えられないマツダ地獄と揶揄される状態を招き、ブランドイメージの低下と販売不振を深刻化させる悪循環に陥った。
フォードの傘下に入ってからは、「Zoom-Zoom」のキャッチフレーズの下、スポーティなブランドイメージを構築する戦略を進め、大幅値引きに頼る販売を段階的に止めて、メーカーとディーラーが一体となってマツダのブランドイメージ向上に努めている。2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降は、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、インセンティブの削減、正価販売の定着をこれまで以上に進めていくとしている。
2014年には、デザイン本部が監修した新コンセプトの販売店「新世代店舗」を順次展開することを発表した。
かつては世界ラリー選手権(WRC)やル・マン24時間レースなどにワークス(マツダスピード)として積極的に参戦していた。ロータリーエンジン搭載車でのエントリーが主体であるが、レシプロエンジン搭載車であるファミリアでWRCに、ランティスでJTCCに参戦していたこともある。1999年にマツダスピードがブランド名だけ残して解散して以降、日本法人のマツダとしては一切のワークス活動を行っていない。レースのノウハウと人材は全て社外に放出され、787Bなどは保管しているものの高出力エンジンに対応したエンジンベンチ設備すらない状態である。2018年現在はインタープロトシリーズに『人馬一体ドライビングアカデミー』と称して、市販車開発ドライバーを訓練のためジェントルマンドライバークラスに参戦させている程度となっている。
一方で北米やオーストラリアの現地法人では活発なモータースポーツ活動が継続されている。特にアメリカのマツダUSAはデイトナ24時間含むIMSAのUSCCに参戦しているだけでなく、グローバルMX-5カップやロードトゥインディ(プロ・マツダ チャンピオンシップなど)といった草の根レベルのレースを運営したり、プチ・ル・マンやラグナ・セカのタイトルスポンサーを務めるなど、海外マツダ法人随一の活動実績を誇る。
国内
海外
大会スポンサー
研究開発拠点は以下の通り。
試験場
日本
北米
欧州
アジア・太平洋
日本
北米
欧州
アジア・太平洋
その他の地域
マツダが運営する企業立病院。1938年にマツダ構内の医務室として開設されたのが始まり。1950年に付属病院に変更され、1961年には現在の地に病棟が建設された。
公益財団法人マツダ財団は、「科学技術の振興と青少年の健全育成のための助成などを行い、世界の人々が共に繁栄を分かち合い、心豊かに生きることのできる社会づくりに寄与すること」を目的としてマツダが設立した公益財団法人。1984年に財団法人として設立され、2010年11月に公益財団法人へと移行した。
マツダ工業技術短期大学校は、マツダが設立した厚生労働省認定の2年制企業内短大。技術・技能者を育成するために1988年に設立された。企業内学校であるため入校者は全てマツダの社員であり、新卒者と社内選抜者で構成されている。
マツダが広島本社内に所有する橋。マツダミュージアム見学の際には社内バスでこの橋を渡って移動する。
連結子会社69社は以下の通り(2019年3月31日現在)。
その他20社
持分法適用会社18社は以下の通り(2019年3月31日現在)。
その他4社
人物
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マツダ・コスモ
コスモ(英:Cosmo)は、1967年5月から1996年にかけて、マツダが生産・発売していた高級乗用車である。
1967年5月に国産車初のロータリーエンジン搭載車として発売。1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)までは一時期絶版車となっていたが、同年に復活。1990年(平成2年)からは同年から展開されたユーノスブランドのフラッグシップモデル、ユーノス・コスモとして登場し、1996年(平成8年)まで発売された。
モデルは全てクーペタイプのボディを持っていたが(3代目のみ4ドアセダンも設定)、その性質は世代によって大きく異なっていた。また、3代目以外は世代ごとに異なるサブネームをつけて発売されていた。
コスモスポーツは、1967年(昭和42年)5月に2シータークーペモデルとして発売された。同時に世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載した自動車でもあった。
なお、世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確には旧NSUヴァンケル社が1964年(昭和39年)に発売したリアエンジン車のヴァンケルスパイダーである。これに搭載されたエンジンは、ロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであり、いわば「見切り発売」であった。またそれは、シングルローターのエンジンであった。これに対し、コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。このため10A型エンジンは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンである。また、10A型エンジンは、多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンであった。
ロータリーエンジンの特性は、それまで各種のロータリーピストンエンジン理論において証明されていた。しかし、100年以上の理論的蓄積にもかかわらずロータリーエンジンは量産されるには至っていなかった。このため、10A型エンジンの搭載車であるコスモスポーツは、ロータリーエンジンを量産車のエンジンとして最初に搭載した記念すべき存在といえる。
1968年(昭和43年)8月、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レース「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、ポルシェ、ランチア、BMW、SAAB、オペル、シムカ、ダットサンなどと激戦を展開した。結果は、完走を果たすのみならずポルシェ・ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)入賞となった。参加59台中、完走はわずか26台であった。
コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それ以降ファミリアロータリークーペ、サバンナRX-3などに搭載された。10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総アルミニウム合金であった。コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)が鋳鉄に変更されている。コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼が溶射されており高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波焼入れ加工したものが採用され、量産化・低コスト化が図られている。また、加工法もコスモスポーツの砂型鋳造に対し金型鋳造とされ、大量生産された。
コスモスポーツは、前期型(L10A型)が1967年(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、1972年(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車まで累計1,176台が販売された。
発売までのロータリーエンジン開発経緯は、ロータリーエンジンを参照。
1963年(昭和38年)10月26日から11月10日に開催された第10回全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)に、マツダロータリーエンジンとして、400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類の試作エンジンが出展され、併せて「ロータリーエンジン テスト用試作車(コスモスポーツのプロトタイプ)」の写真パネルも会場に掲示された。車両の展示はなかったが、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツの一次試作車「MAZDA 802 (L402A)」のステアリングを握り、遠路はるばる広島から自動車ショーの会場に乗りつけて話題をさらった。また、帰路には各販売会社、メインバンクの住友銀行、池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。なお、初めてコスモスポーツのプロトタイプが一般に公表されたのは、自動車ショーが開催される6日前の1963年10月20日付け朝日新聞紙上においてであり、これは朝日新聞のスクープであった。
ちなみに、一次試作車は少なくとも二種類存在し、「広 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年8月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行式の3ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置は下寄り、カーラジオのアンテナの取付け位置はリアガラスとトランクリッドの間、横長のテールランプは中央に仕切りのある四灯タイプ、という仕様であった。「広 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年10月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールが有り、ワイパーは平行式の2ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置はピラーの中央、カーラジオのアンテナの取付け位置は右リアフェンダー上部、横長のテールランプは中央に仕切りがなく外観上は二灯式に見えるものであった(内部に仕込まれていたランプの数は、32-85車に準じていたと思われる)。
この二台の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車ショーの駐車場に姿を現した。一次試作車は、自動車ショーが開催されるまでに5台製作されている。
翌1964年(昭和39年)の9月26日から10月9日に開催された第11回東京モーターショーに、初めて実車(プロトタイプ)が正式に出展された。出展時の名称は「MAZDA COSMO」であった。搭載されたエンジンは、399cc×2ローターのL8A型(70ps/6,000rpm)。ショー出展車は二次試作車で、一次試作車とはテール部分の意匠が大幅に異なり、量産車に近いものとなっていた。また、サイドウインドウに三角窓が追加され、ワイパーは2ブレードの対向式となり、外観上の特徴の一つであるフロントフェンダーのルーバーが、一次試作車の六つ穴メッキ物から細いスリットのメッキ物に変更されていた。二次試作車までは、ルーフの後部に左右のクォーターピラーまで覆う白いカバーが取付けられていたことも、外観上の大きな特徴であった。二次試作車は複数製作され、ワイパーが平行式2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴のホイールが装着されたもの、センターロック式のワイヤースポークホイールが装着されたもの、クォーターピラーの幅が狭いもの、カウルトップの通気口が一次試作車と同様に格子状のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状でないもの、ドアのアウターハンドルが長くドアパネルに窪みがないもの、フロントターンシグナルランプのレンズがアンバー色のものなど、様々な仕様が存在した。
1965年(昭和40年)10月29日から11月1日に開催された、第12回東京モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称はこの年も「MAZDA COSMO」であった。ショーの会場で配布されたパンフレットには「革命的なエンジンは(中略)ローター数2、単室容積500cc」と記載されていたことから、出展車には491cc×2の10A型エンジン(プロトタイプ)が搭載されていたと考えられる。三次試作車と思われる出展車は、白いルーフカバーが省略されルーフ全面とクォーターピラーが白塗装となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠が少々変更されていた。また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接スリットをプレス成型した簡素なものとなっていた。これは、部品点数と製造ラインでの工数を削減しコストを下げるための設計変更とされる。この時の展示車は最終生産型と発表され、全国各地のマツダディーラーに委託して実用化テストを行う事が公表された(その際、詳細を公表せず)。「社外委託試験車」と名付けられた試作車は、車体各部の特徴から三次試作車の「MAZDA COSMO」或いは三次試作車の改良型だったと推察される。社外委託試験は当初、1965年(昭和40年)8月から開始され、貸与される試験車の数は30台の予定であった。
1966年(昭和41年)10月26日から11月8日に開催された、第13回全日本自動車ショーにも続けてコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称は「MAZDA COSMO SPORTS」だった(市販モデルの名称は「MAZDA COSMO SPORT」)。実用化テストに基づき更なる改良が加えられ、1967年(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた。
市販までに、社外委託試験は各地のディーラーに貸与された「MAZDA COSMO」47台により、1966年(昭和41年)1月から12月まで1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。
コスモスポーツの前期型L10Aには、10A型ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載された。9.4の高圧縮比とツインプラグによって110 PS /7,000 rpm、13.3 kgf·m /3,500 rpm を発揮した。車重は940kgと比較的軽量であった。
エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったフロントエンジン・リアドライブであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架、リアは独立懸架こそ断念されたが、バネ下重量の軽減を図り、ド・ディオンアクスルをリーフスプリングで吊る形式が採用された。ステアリングギアにはクイックなラック・アンド・ピニオン形式を採用している。トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィン・ドラムであった。なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。
ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダのアイデンティティーともなるフロント・ミッドシップの発想が既に生かされていた。重量物であるバッテリーは、前期型ではトランクに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。
ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミモノコック方式であった。ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前ヒンジ(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。開発当初、当時の社長である松田恒次から「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。
全高は1,165 mm と低かった。「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナー小林平治の意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・オーバーハング、ボディー中央を走るプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。ボンネットの低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的である。ただし、全長に比してリアオーバーハングが大きいスタイルのため、運動性の面では不利なものとなり、「スポーツ」の名とは裏腹に、むしろグランドツーリングカーとしての性格が強くなった。
フルパッドのダッシュボードに組み合わされるアルミニウムのインパネは艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連メーター(左から時計、燃料計、電流計、速度計、回転計、油温計、水温計の順)が整然と並ぶ。内装は天井も含めて黒のビニールレザーのフルトリムとされ、通気性を考慮し、シート中央のみ白黒の千鳥格子柄のウールを使用している。前期型のL10Aは法制化前のため、ヘッドレストが無い。
前後に調節可能(テレスコピック)な3本スポークのウッドステアリングホイール(一部、1970年 - 1971年式:ナルディ社製Φ380)が標準となっている。床敷物は真っ赤な絨毯で、シフトノブは自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすこと無く操作できるショートストロークとなっている。クラリオン製オートラジオ、トグルスイッチを上下に作動させるタイプのセミオート・アンテナ、メーター照度調節、ホーン音質切替え(市街地用、高速用)、2スピードワイパー(払拭中にスイッチを切っても停止位置に復帰するタイプ。高速時の浮き上がりを防止するフィン付き)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・グローブボックス・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。
ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトも装備されていた。リアガラスは非常に曲率の大きなものが用いられ、室内の開放感を高めた。RX-8、および歴代RX-7のリアガラスは、このオマージュとされる。助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元にはフットレスト、グローブボックス脇にはアシストグリップも装備された。
内装のデザインは、相馬亮一をチーフとする内装チームが担当した。
価格は148万円で、同時期の趣味性の高い車種で比較すると、いすゞ・117クーペの172万円ほどではないが、ダットサン・フェアレディ2000の88万円、日産プリンス・スカイライン2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価であった。
ロータリーエンジンの走りは、レシプロエンジンとはまさに異次元の感覚をもたらした。当時、ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は4,000 rpmを過ぎたあたりから騒音と振動が大きくなり、100 km/h を超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならないこともままあった。しかし、ロータリーエンジンはレッドゾーンの7,000 rpmまで静粛かつスムーズに吹けあがった。
カーグラフィック誌によるマツダ製ロータリーエンジン車の燃費テスト結果を以下に示す。
各年代の道路事情やテスト条件の相違などから一概に結論付けられないが、以上の車の中では、燃費性能でトップの値を記録している。
1968年(昭和43年)7月には早くもマイナーチェンジ(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、ラジエーターエアインテークの拡大、ブレーキ冷却口の新設、ホイールベース・トレッドの拡大、トランスミッションの5速化、前後ブレーキへのハイドロマスター(倍力装置)が装着された。ラジアルタイヤ標準化(155HR15)、ポートタイミングの変更にともなう吸入効率向上によるパワーアップ(110 PS /13.3 kgf·m → 128 PS /14.2 kgf·m)等を施された。この結果、最高速は185 km/h → 200 km/h、0-400 m 加速も16.3秒 → 15.8秒となった。
マイナーチェンジによって、当時としては高級品であったヂーゼル機器製のカークーラーがオプションで装着可能となった。このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、スナッチが発生しにくいロータリーはTOPギアで低速走行が可能であったため、当時の取扱説明書では「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびO・Tにし、エンジン回転1,500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。」(原文)と注意を促している。
また室内のウォッシャー・ワイパー・ディマー・ターンシグナルの4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。3点式シートベルト、調整可能なヘッドレストも後期型より装備された。パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備された。
この後期型(L10B)の価格は158万円であった。なお、車両型式名はL10Bとなり、エンジンの排気量は変わらず型式も10A型のままであったが、ポートやキャブレター、マフラーなどの仕様が数回変更された。
コスモスポーツの発売に合わせ、東洋工業は、1967年6月1日の新聞各紙に「世界の注目をあつめてロータリーエンジン搭載車いよいよ登場!」と題する全面広告を出した。その広告は全面であることを生かし、市販量産車としては世界初のエンジンであること、耐久性、革新性、スムーズさ、スタイリング、保証制度、装備、発表会の告知等を訴えるものであった。その翌日の6月2日、今度はトヨタ自動車が2000GTの全面広告を出しており、当時のトヨタのマツダ・ロータリーに対する対抗意識が垣間見える。
その後、6月6日から11日にかけて、東京都中央区日本橋の髙島屋で、コスモスポーツ発表会が開催された。コスモスポーツ1号車が出品され、展示会・撮影会・試乗会といった内容であった。
松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助は松田恒次と親交があり、ロータリーエンジンを評価して、コスモスポーツの顧客第一号となった。
翌1967年(昭和42年)には、調布 - 八王子間が開通した中央自動車道に、高速パトロールカーとして警視庁第八方面交通機動隊に配備された。
1971年 (昭和46年)の特撮テレビ番組『帰ってきたウルトラマン』にて、防衛チームMATの専用車両「マットビハイクル」として後期型が登場している。その未来的なフォルムを生かして、大きな改造は無くほぼ量産車そのままの外観で使用されている。また、同作のオマージュ要素が強い「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」にもNERV官用車として登場している。
コスモスポーツ製造中止より3年後の1975年にコスモAPとして復活した。
APとはアンチポリューション・公害対策の意味である。オイルショック後にマツダが初めて発表したモデルで、コスモスポーツと路線の異なるスペシャルティカーとなった背景には、北米市場の要求があった。このため内装、装備に至っても高級感と豪華さを押し出したものとなり、赤いボディカラーとともに注目を受ける存在となった。CMキャラクターは宇佐美恵子。しばたはつみの『マイ・ラグジュアリー・ナイト』をCMソングに起用し、同曲は大ヒットを記録した。
コスモAPは、2代目ルーチェのモノコックのフロアパネルを共用化して、マツダのフラッグシップモデルとして、サスペンションや内装や装備を新設計した。
またコスモで新設計したパーツは、他のマツダ車への流用(ルーチェやカペラ等)を考慮して、部品共用化によるコストダウン効果を狙った。
●モデル展開
●サスペンション
●エンジン
●外観
当時は折からの自動車排出ガス規制の影響によって、スポーツモデルが次々と消えていこうとしている時期であり、その中で登場したパワフルなコスモAPは一際目立つ存在となり、発売から半年で2万台を売り上げる大ヒット作となった。
輸出名はロータリーエンジン搭載車が「マツダ・RX-5」、レシプロエンジン搭載車が「マツダ・121」であった。
コスモAPから遅れること2年、1977年にバリエーションモデルとして追加された。“L”はランドウトップの頭文字で、高級馬車であるランドーレットの屋根形式に由来する名前である。最大の特徴は、その名のとおりランドウトップにある。コスモAPではファストバックであったが、コスモLではノッチバック + オペラウインドウ() + ハーフレザーのトップ(車両の屋根)となっていた。これも北米市場からの強い要求によるもので、マスタングをはじめトヨタのカローラおよびセリカなども2種類のバックスタイルのクーペボディをそろえている。
ランドウトップのコスモLはリアシートの頭上高に余裕があり、居住性が良いことと、クオーターウインドウ(オペラウィンドウと呼称していた)が小さく、プライバシーが守れることで、コスモAPとの性能、装備の違いは無くとも、やや高い年齢層に向けた高級モデルとしての位置づけであった。
1979年マイナーチェンジ。APと同様に異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリルへと変更。
市場での評価とは別に、工場内での評価は全く異なるものがあった。ファストバック車両の場合は、プレスした車体パネルを溶接する際、Cピラーの溶接部分が表に出てしまうので、通常は半田で表面を埋めてなだらかに仕上げる工程があった。ランドウトップでは、この工程を省略できたので鉛公害も発生せず、その意味で高い評価を得ることになった。
1981年に登場した、3代目コスモは4代目ルーチェと姉妹車になった。ボディバリエーションは3種類を揃えたが、それぞれの登場時期は複雑で、まずは9月に2ドア・ハードトップが先行発売され、同年10月1日に4ドア・ハードトップ、2週間後の10月16日に4ドア・セダンとロータリーエンジン搭載車がそれぞれ時期をずらして発売された。空力に配慮されたデザインが特徴であり、ハードトップは4灯式のリトラクタブル・ヘッドライトを持つ。中でも2ドアのCd値は当時としては世界トップクラスの0.32を記録していた。エンジンは当初、従来型と同じMA型4気筒2,000ccレシプロエンジン(EGIおよびキャブレター仕様)のみが先行発売されたが、2,200ccディーゼルエンジン(セダンのみ)、12A型ロータリーエンジン(573cc×2)も10月16日の4ドア・セダンと同時に追加された。
12A型ロータリーエンジンは新たに6PI(シックス ピー アイ)と名付けられた、6ポート・インダクションを採用、これは従来1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気ポートを2つ(2段階)設けていたものを、新たにセカンダリーポートをメインポートと排圧で開閉する補助ポートとに分割し、1ローター毎3ポート(3段階)、2ローターで計6ポートとしていた。これにより回転数や負荷に見合った吸気タイミングの最適化を図り、燃費や出力の向上を謳っていた。
1982年10月、12A型ロータリー・ターボ車を発売(ルーチェとともに世界初)。「全域・全速ターボ」と名付けられたこのエンジンは、1982年当時の国産車の中ではトップクラスの性能を誇り、1980年代に行われる高性能戦争へ先鞭をつけた。
インテリアでは、デジタルながら面積変化で情報を伝えるスピードメーター、サテライトスイッチの影響が見られるメーターナセル両端に配したエアコン、灯火類、ワイパーなどのスイッチ、カセットテープ(コンパクトカセット)を見せるデザインの正立型トランスポートを採用したカーオーディオ(三菱電機と共同開発)、シートバックの中折れ機構などに特徴がある。
自動車ジャーナリストの三本和彦は、1982年9月にコスモ・ロータリー・ターボを自動車ジャーナリスト3人で茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の日本自動車研究所において、谷田部24時間耐久テストを行った。高速耐久トライアルとしては2000GTによるものが有名であるが、6時間時点での2000GTの新国際記録210.42km/hを上回っている(最終的に2000GTは、72時間で平均206.02km/h)。
1983年10月、マイナーチェンジ。個性的なデザインからかルーチェともども販売が芳しくなく、4ドア・ハードトップのフロントマスクを一般的な固定式ヘッドライトへと変更した。同時に4ドア系に13B型ロータリー・スーパーインジェクション(SI)車を設定する。なお、2ドア・ハードトップは従来のリトラクタブル・ヘッドライトを継承した。
1984年9月、2ドア・ハードトップをマイナーチェンジ。「GT」以外の改良を行い、4ドア同様の固定式ヘッドライトに替えられる。
1985年5月、モデル末期のグレード整理とテコ入れとして、レシプロエンジン車に「ジェンティール」シリーズを投入。
1986年9月、ルーチェがモデルチェンジされるとともにコスモは4ドアサルーンを廃止し、2/4ドアハードトップのみに整理。1990年4月のユーノスコスモ登場まで継続生産する。
1988年10月、ボディーカラー一部差し替え
1990年4月、ユーノスコスモの登場により、3代目の生産終了。
1990年4月、ユーノスコスモは量産車初の3ローターのロータリーエンジンを搭載した自動車として登場した。キャッチコピーは『クーペ・ダイナミズム』。ボディは2ドアクーペのみ。
当時、マツダは販売チャンネルの拡大戦略を図っており(マツダ、ユーノス、アンフィニ、オートザム、オートラマ)、この車はユーノスブランドのフラグシップであった。歴代コスモの中では、初代であるコスモスポーツ以来のロータリーエンジン専用車であり、エンジンには13B-REW型と、市販車では世界初となる3ローターの20B-REW型の2種が設定された。この車に使用されたユーノスのエンブレムはコスモスポーツのようなローターを象ったものである。
耳目を集めた世界で初めての「CCS」と呼ばれるGPSカーナビ(三菱電機と共同開発)を20B搭載車のTYPE-E.CCSグレードに標準装備した。また、高級クーペらしく内装にも相応のこだわりがあり、イタリアで誂えたウッドパネルをインパネに装着、しかし全面に貼るようなことはせず、効果的に配して品よくまとめられていた。さらに、フルオートエアコンの操作はカーナビディスプレイを兼ねるタッチパネルでのみ操作が可能という当時としては画期的な方式で、以降各社でも高級車を中心に普及することとなった。カーナビが標準装備されない場合は液晶付きフルオートエアコン操作パネルが付く。いずれもシーケンシャルツインターボ、これは日本車としては初の採用であった。グレードはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期・中期型)・TYPE-SX(後期型のみ)。プラットフォームはマツダ・JCプラットフォームを採用している。
マツダエンジニアの夢であった「V型12気筒エンジン並の滑らかさを持つ」と言われる3ローターエンジンである20Bエンジンは非常に高出力で、当初333馬力で設計されていたが、当時の運輸省の行政指導により(後にRX-7用2ローター13B-REWも280馬力を達成する)280馬力の国内自主規制枠内に収めることが必要となり、デチューンのうえ市販された。ターボへの排圧を低くし最高出力を抑えるため13Bに比べ排気ポートが変更されている。
その出力と構造故、メディアによっては「リッター3キロの超高燃費車」と紹介されることもあり、市街地走行での実際の燃費は、2km/Lを維持するのが手一杯で、条件によっては1km/L台に悪化することもあった。20Bのローターとローターハウジングは13Bと同寸で、排気量も3ローター車は3,500 cc以下区分に該当する。その高燃費ぶりは、バブル景気の時代ですら、買うことをためらわせるに十分な要因であった。
シーケンシャルツインターボは、RX-7(FD3S型)に搭載されているそれとは相違し、プライマリー側とセカンダリー側で異なったサイズのタービンが採用された。20B-REW搭載車のマフラーは高回転域で経路が変更される可変排気機能が採用されており、4本のマフラーが回転により開口ポート数が変化した。外観では13B-REW搭載車のテールパイプが2本出しであるのに対し、20B-REW搭載車のそれは4本出しとなっており、容易に区別が付く。
ターボ過給された3ローターエンジンの大パワー(高トルクと高回転)に耐えられる乗用車向けMT用クラッチが当時は開発されていなかったため、当時のスポーティーカーとしては異例となる全グレードAT車のみの設定となった。また、AT向け多段式変速機も存在していなかったため、全車4速ATのみであった。
1991年(平成3年)には、ハードサスペンションやBBSのホイールを装着した特別仕様車、TYPE-SXが登場した。
開発当初はサンルーフの装備が企画されており、液晶を用いた先進的な透過率可変式が予定されていた。生産車にも専用回路が存在していたが、ノイズ処理や耐久性などの問題をクリアできておらず、販売の低迷でコスモ自体の採算が見込めなくなったため断念された。
1995年8月、生産終了。在庫対応分のみの販売となる。
1996年6月、在庫対応分がすべて完売し販売終了。コスモの車名は初代と2代目の間に挟まれた生産停止期間を含めて29年の歴史に終止符を打った。
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左右にスクロールして マツダユーノスコスモのグレード別のスペックが確認できます。
| 車種 | エンジン | タイヤ | 燃費 | 中古車 | 評価•レビュー | ボディサイズ | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
ユーノスコスモ
13Bロータリーターボ タイプE
1990年04月から 1991年02月 3,700,000円 クーペ |
エンジン:
その他ロータリー 排気量: 1308cc 型式: E-JC3SE 馬力: 230ps トルク: 30/3500 ミッション: 4AT |
前輪:
215/60R15 後輪: 215/60R15 駆動: FR 最小回転: 5.6m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
99万円から
139万円 2台 買取価格相場 車を売る |
外観:
5点 内観: 5点 スペック: 5点 エンジン: 5点 乗り心地: 5点 燃費: 1点 価格: 2点 |
高さ:
1305 車幅: 1795 全長: 4815 定員: 4人 |
|
ユーノスコスモ
13Bロータリーターボ タイプS
1990年04月から 1991年02月 3,300,000円 クーペ |
エンジン:
その他ロータリー 排気量: 1308cc 型式: E-JC3SE 馬力: 230ps トルク: 30/3500 ミッション: 4AT |
前輪:
225/50R16 後輪: 225/50R16 駆動: FR 最小回転: 5.6m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
198万円から
198万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
5点 内観: 5点 スペック: 5点 エンジン: 5点 乗り心地: 5点 燃費: 1点 価格: 2点 |
高さ:
1305 車幅: 1795 全長: 4815 定員: 4人 |
|
ユーノスコスモ
20Bロータリーターボ タイプE
1990年04月から 1991年02月 4,650,000円 クーペ |
エンジン:
その他ロータリー 排気量: 1962cc 型式: E-JCESE 馬力: 280ps トルク: 41/3000 ミッション: 4AT |
前輪:
215/60R15 後輪: 215/60R15 駆動: FR 最小回転: 5.6m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
298万円から
298万円 2台 買取価格相場 車を売る |
外観:
5点 内観: 5点 スペック: 5点 エンジン: 5点 乗り心地: 5点 燃費: 1点 価格: 2点 |
高さ:
1305 車幅: 1795 全長: 4815 定員: 4人 |
|
ユーノスコスモ
20Bロータリーターボ タイプE CCS
1990年04月から 1991年02月 5,300,000円 クーペ |
エンジン:
その他ロータリー 排気量: 1962cc 型式: E-JCESE 馬力: 280ps トルク: 41/3000 ミッション: 4AT |
前輪:
215/60R15 後輪: 215/60R15 駆動: FR 最小回転: 5.6m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
218万円から
218万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
5点 内観: 5点 スペック: 5点 エンジン: 5点 乗り心地: 5点 燃費: 1点 価格: 2点 |
高さ:
1305 車幅: 1795 全長: 4815 定員: 4人 |
|
ユーノスコスモ
20Bロータリーターボ タイプS
1990年04月から 1991年02月 4,200,000円 クーペ |
エンジン:
その他ロータリー 排気量: 1962cc 型式: E-JCESE 馬力: 280ps トルク: 41/3000 ミッション: 4AT |
前輪:
225/50R16 後輪: 225/50R16 駆動: FR 最小回転: 5.6m タイヤサイズ |
燃費(JC08):
- 燃費(10•15): -km/L 燃料: ハイオク 実燃費: から |
320万円から
320万円 1台 買取価格相場 車を売る |
外観:
5点 内観: 5点 スペック: 5点 エンジン: 5点 乗り心地: 5点 燃費: 1点 価格: 2点 |
高さ:
1305 車幅: 1795 全長: 4815 定員: 4人 |
販売期間:1990年04月から1991年02月
9件のマツダユーノスコスモの中古車
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