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アウディ
アウディ(ラテン語:Audi)は、フォルクスワーゲングループに属しているドイツの自動車メーカーである。
現在株式の99.55%をフォルクスワーゲンAGが保有している。本社所在地はドイツ・バイエルン州、インゴルシュタット。ドイツ国内には、インゴルシュタット、ネッカーズルムに組み立て工場がある。過去にはKarmann-Rheineにカブリオレモデルの80(1997年 - 2000年)、A4(2002年 - 2009年)を一部生産委託していた時期もあった。
2012年現在、ドイツ国外の生産拠点はハンガリー・ジェール、ベルギー・ブリュッセル、スペイン・マートレル、スロヴァキア・マルティン、ブラチスラヴァ(両工場はVWのプラント)、インド・アウランガーバード、中華人民共和国・長春市の7箇所に置いている。
なお、2013年度から中国仏山市でも生産(年間生産能力15~20万台)が開始される予定。
同グループでは、主に中〜上級価格帯をカバーするブランドと位置づけられている。「クワトロ」("Quattro")という名称の四輪駆動システムを持ち、アルミボディなど先進的な技術を用いる傾向がみられる。ディーゼルエンジン(TDI)を、環境対策上のガソリンエンジン車の代替と位置づけており、重点的に開発・宣伝を行なっている。車種構成はFF車とFFベースの四輪駆動車がほとんどである。従来車体デザインがおとなしいと評されていたが、最近はデザイン的にもBMW、メルセデスベンツに引けを取らないよう押しの強いデザインを取り入れ、フロントマスクが睨み付けるようなデザインのモデルも増えてきた。
現在のアウディ車に使われている「フォーシルバーリングス」と呼ばれる4つの輪を組み合わせたエンブレムは、かつてのアウトウニオンのエンブレムに手を加えたもので、アウトウニオン設立に参加した4社の団結を象徴するものである。なお、左から順にアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーを指すものとされる。
なお、アウトウニオン設立以前のアウディのエンブレムはのデザインになるもので、"audi"と書かれた逆三角形の上に半球が乗り、更にその上にアラビア数字の「1」が乗るといったものであった。
創業者アウグスト・ホルヒ()の姓「horch」は、「聞く」を意味するドイツ語「horchen」を連想させるものであった。これをラテン語に訳した言葉にちなむ。「horch」は「horchen」の親称二人称単数の命令形であり、そのラテン語が「audi (audī)」
後述するように、ホルヒは「ホルヒ自動車製造株式会社」から追放されたのち、新会社「ホルヒ自動車製造有限会社」を設立したが、裁判所に訴えられ名称を使用することができなくなった。ホルヒが友人のと相談した際、フランツの息子ハインリッヒが「聞く」という意味のラテン語「アウディ」はどうかと提案し、それが採用されることになった。
1985年にアウディNSUアウトウニオンAGからアウディAGへ社名変更したが、「アウディ」が選ばれた理由は「世界のだれもが発音しやすい名前」だからという。
創業者はアウグスト・ホルヒ("August Horch" 、1868-1951年)。自動車史の黎明期にベンツで工場長を務めた後に独立、ザクセン州ツヴィッカウでホルヒを設立し、1901年から自動車生産を開始、当時としては高性能・高品質の自動車を送り出して名声を得る。
しかしアウグスト・ホルヒは、良質の車を作ることにこだわって経営面への配慮を欠くきらいがあり、1909年には経営陣から追放を受けた。速やかに自力で別のホルヒを設立、自動車生産を開始したが、元のホルヒの抗議によって、同一社名・車名を使うことを差し止められる。
この結果、アウグスト・ホルヒは1910年に自社の社名・車名を「ホルヒ」から「アウディ」に変更。アウディとはラテン語で「聞く」という意味でオーディオの語源であり、ホルヒのドイツ語での意味と同義である。
アウディは2612cc(2.6L)4気筒のモデルからスタートし、3564cc(3.6L)、4680cc(4.7L)、5720cc(5.7L)となっていく。これらは人気を得、スポーツイベントでも活躍した。アウグスト・ホルヒは1920年にアウディを去った。初の6気筒モデルは1924年の4655cc(4.7L)だった。1928年、アウディはDKWのオーナーだったイェルゲン・スカフテ・ラスムッセンに買収される。同年、ラスムッセンは米国リッケンバッカー自動車の生産設備を購入、この設備は1929年から生産された高級モデル、ツヴィッカウ("Audi Zwickau" )とドレスデン("Audi Dresden" )で使われ、またこれらにはリッケンバッカーのエンジンを搭載した。他にプジョーからライセンスした4気筒エンジンを搭載したモデルも生産された。この時期のアウディ車は特殊なボディワークがなされた高級車だった。
第一次世界大戦後の不況の中、ドイツ自動車市場にはアメリカ大手自動車メーカーが大挙して進出し、既存の国内メーカーを脅かしていた。これに対抗するため、1932年にザクセン州に本拠を置く中堅メーカーであったDKW、アウディ、ホルヒ、ヴァンダラーの4社が合同し、新たにアウトウニオン(Auto Union, 自動車連合)を結成した。「アウディ」ブランドのモデルは同社の中級〜高級クラスの車種として存続したが、第二次世界大戦勃発で製造中止された。
アウトウニオンは、第二次世界大戦の戦禍とその敗戦後のソ連によるザクセンの工場接収という壊滅的なダメージから逃れ、西ドイツのインゴルシュタットを新天地として再出発した。部品やバイク、バンの生産を経て、「アウトウニオン」および「DKW」ブランドで乗用車の生産を再開した。1956年から1964年まではダイムラー・ベンツの支配下にあり、1964年以降はフォルクスワーゲンの傘下となっている。
1965年に「アウディ」ブランドの乗用車生産が再開され、前輪駆動の堅実な中級セダンを主軸とする形で80・スーパー90・100などモデルのラインナップを広げた。1969年にはロータリーエンジンの開発で知られたNSUを併合、アウディNSUアウトウニオンとなる。以降は80や100シリーズなどのヒット作を世に送り出しフォルクスワーゲン・グループの中〜上級クラスを担うブランドとして発展した。1985年に社名をアウディに変更した。
1980年代には乗用車用四輪駆動システムの「クワトロ」を開発し、「四輪駆動はオフロード向け」というイメージを塗り変えた。
1986年には、今では鉄の防錆に欠かせない亜鉛めっきを量産車として世界初採用し、車体の耐久性・持続性を向上させた。後に他の自動車メーカーも追随した。
フォルクスワーゲンのゴルフはアウディが開発を手がけた車である。1970年代、ビートルの後続車の開発がなかなか進まないフォルクスワーゲンにアウディの社長だったルドルフ・ライディングが移籍し、当時フォルクスワーゲンがビートルの後続モデルとして計画しポルシェが設計・開発していたミッドシップの2ドア・ハッチバック試作車EA266を設計図を見たとたんに開発中止を命じ、元職場で計画中だったFF車を急遽代案として採用した。
アウディの現行モデルには大きく分けてセダンやハッチバックなどのAモデル、SUVのQモデルの二つのベースモデルがあり、それに加えてTT、R8の二つのスポーツカーをラインナップしている。また、一部モデルを除きベースモデルをチューニングしたハイパフォーマンスモデルが設定されており、アウディのチューニングによるSモデル(Sportに由来)、子会社であるアウディスポーツ(旧クワトロ社)のチューニングによりさらに性能を高めたRSモデル(Racing Sportに由来)がある。
ここ数年はモーターショーに出品するコンセプトカーは殆どがクアトロとなっている。
1967年にヤナセがアウディLを輸入したことから始まる。以来1992年末までヤナセにより輸入・販売された。また、1992年に「フォルクスワーゲンアウディ日本」(のちのフォルクスワーゲングループジャパン)が輸入元となり、旧ジヤクス系の「ファーレン」及びトヨタ自動車系の「DUO」店でフォルクスワーゲン(VW)と併売された。
1998年アウディ部門が独AUDI AGが100%出資する「アウディジャパン」として分離(現社長フィリップ・ノアック)。VWとの併売体制になっている「ファーレン」「DUO」販売網のディーラー契約を一旦白紙に戻し、改めてアウディ専売のディーラー契約を結び直し、2001年より新CIに準拠した全国ディーラー網を始動させた。2007年にはヤナセとの共同出資で作ったディーラー「ヤナセアウディ販売」をアウディジャパン側が全部買収し、「アウディジャパン販売」としてインポーター直販体制を作った。2008年の新規登録台数は16,040台であり、輸入車に占める割合は7.8%であった。
首都圏や大阪にショールーム(販売店)を設置しており、2013年には横浜・みなとみらい地区にアウディジャパン販売が展開するショールームの中で国内最大規模(旗艦店)となる「Audi みなとみらい」が開業した。また、東京・尾山台にある本社ショールームは安藤忠雄の設計となっている。
2016年1月より、前社長である大喜多寛の退任により、アウディジャパン販売株式会社の代表取締役社長であった、斎藤徹が着任した。
また、2016年より、R8とRSモデルを販売するサブブランド「アウディスポーツ」が5店舗で展開された。
2020年、アウディジャパン販売の全株式を「PAIGジャパンオートモビルインベストメント合同会社」に譲渡。日本での販売をポルシェ・ホールディングの世界展開に組み込み、アウディジャパンはインポーター業務に専念する。
1981年から1986年まで世界ラリー選手権(WRC)に4輪駆動車のクワトロが参戦し、1982年と1984年にマニファクチャラーズタイトルを獲得して、通算23勝を挙げた。グループBのライバルメーカーも4輪駆動化に追随し、以後ラリーにおける優位性を決定的にした。また、クワトロはパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでも成功を収めた。
1999年よりプロトタイプレーシングカーを開発し、各国の耐久レースに参戦している。FIA 世界耐久選手権(WEC)ではトヨタや同じフォルクスワーゲングループのポルシェと熾烈な対決を演じ、2012年、2013年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
ル・マン24時間レースでは1999年の参戦初年度で3位に入賞し、翌2000年にR8で初優勝を達成。2001年、2002年、2004年、2005年に5回の総合優勝を記録した(2003年はワークス参戦を休止)。2004年は日本のプライベートチームであるチーム郷が優勝した。2006年はR10で出場し、2008年まで3連覇を果たした。2010年にはR15、2011年から2014年までにはR18で出場し合計で5連覇を果たした。ル・マン通算勝利数ではポルシェの17勝に次ぐ13勝を挙げる一方で、1999年の参戦初年度から2016年のWEC撤退までの全18年間に及ぶ連続表彰台入賞という前人未到かつ史上初の大記録を達成した。この事からファンからは「ル・マンの鉄人メーカー」と呼ばれるようになり、一方でワークスドライバーだったトム・クリステンセンは9勝を挙げ、ル・マン最多勝ドライバーとなった。
しかし2016年いっぱいで撤退し、フォーミュラEへの参戦が発表された。
2020年、フォーミュラEから撤退し、LMDhでWECの最高峰に復帰すると共にIMSAへ参戦することが報じられた。
また、2006年のR10がル・マン初のディーゼルエンジン搭載車として、2012年のR18 e-tron クワトロが初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成し、ル・マンにおける技術革新にも貢献している。ヘッドライトに関しては2011年にフルLED化、2014年にはレーザーハイビームを導入した。
2012年9月中国国内のアウディ販売店で「日本人を皆殺しにする」という横断幕が掲げられた。中国で尖閣諸島をめぐる反日デモが激化する中で、販売店の中国人社員14人が抗議行動として個人的な意志からこの横断幕を掲げた。内容は「我々は自分たちを犠牲にしても日本人を皆殺しにする!たとえ国家が滅亡しても釣魚島(尖閣諸島)を取り返す!」であった。
アウディ日本法人はすぐにコメントを発表。「このような行為があったことは誠に遺憾であるとともに、憤りを覚えております」とのニュースリリースを掲載した。ドイツ本社の「(今回の行為は)受け入れがたい」というコメントも含まれていた。ドイツ本社はTwitterで「我々は今回の中国での行動といかなる暴力からも距離を置く。我々は対話と外交を主張する」というコメントを出した。しかし、このドイツ本社のコメントについては他人事のように述べているという批判が日本のネット上で起きた。台湾やアメリカでも「もっと深刻にとらえ、きちんと謝罪すべきではないのか」との批判の声がネット上で起きた。
フォルクスワーゲン車の排出ガス規制不正問題(フォルクスワーゲン#排出ガス規制不正問題)は同様なディフィートデバイスを搭載したアウディ社ディーゼルエンジンにも波及し、A1、A3、A4、A5、A6、TT、Q3、Q5が対象となると発表された。さらに、3リットルV6ディーゼルエンジンを搭載した2016年モデルのQ5、Q7、A6、A7、A8にも不正ソフトウェアが発見されたと米環境保護局が発表した。
2018年6月18日には会長が不正に関与した疑いで逮捕された。
多様なニーズに応えるオーダーメイドプログラムとして「Audi exclusive」がある。11色のレザー、8色のアルカンターラ、9種類のカーペット、7種類のウッド、2種類のインタルシアウッドから成るインテリアのみならず、アルミホイールやオフィスパーツ、また、スペシャルボディーカラーの選択も可能な「自分だけの」アウディを創るプログラムである。
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